(4)ハーツとチカ
遠くイーダの街の中等科学園に通うことにしたことを、ハーツはほとんど後悔したことがない。友人ができ、全く使えなかった魔法も使えるようになった。すべてが順調で、この一年の経験だけをとっても、イーダの中等科学園に入学して本当に良かったと、心から思うことができる。
そんなハーツだが、実家と寮とを行き来するときだけは、深い後悔を覚えるのだった。
「うう……船が終わったらまた馬車かよ……」
馬車、船、馬車と乗り継がなければ、ハーツの実家には辿り着けない。
しかし馬車にせよ、船にせよ。ハーツは乗り物に乗ると、酔うのだ。
乗り物酔いをするのだとハーツが言えば、大抵の人から「意外だ」と言われる。それほど繊細には見えない、と。それでも酔うものは酔う。ひたすら乗り物に揺られる旅の間だけは、どうしてもハーツの心に「なぜイーダの学園なんかに入学したのか」という後悔がぐるぐると巡るのだった。
乗り物に揺られて憔悴しきったハーツは、長旅の末にようやくたどり着いた家で、六人の弟妹たちに元気に出迎えられた。
「おかえり! ハーツ兄! おみやげおみやげ!」
「ねえねえ! イーダってどんなとこだった!?」
家に入って早々に弟妹たちに囲まれたハーツは、懐かしい騒々しさに眉をしかめる。
「やかましい! 馬車降りたばっかりで気持ち悪いんだ。ちょっと休ませろ」
「ええー。また馬車酔いー? つまんなーい」
そうは言いつつ、集まっていた六人は道を開けるように散った。素直で可愛い弟妹たちだ。ハーツはそのまま以前使っていた寝室に向かい、今は誰が使っているのかも知らない布団の上にさっさと突っ伏した。
馬車酔いによる頭痛と吐き気がなんとかおさまったのは、夕食の直前だった。
子供を七人抱える家の夕食は、戦争だ。まず早めに台所に行く。少しでも準備を手伝って、母親からおかずのオマケをもらう。それに失敗したら、少しでも早く食卓について、大皿に盛られた料理に誰よりも早く箸をのばす。とにかく先手を取ることが大切だ。
久々にこの戦場に戻ったハーツは、自分の皿にちょんと載ったサラダと気持ちばかりの肉のかけらに、ため息をついた。やはり戻って初日では、長年の勘を取り戻すことはできなかった。中等科学園入学前は、この戦に負けたことなどなかったのに。
「あれっ兄ちゃん珍しいね。そんだけしか食べないの?」
項垂れるハーツの皿を覗き込み、無遠慮に声を上げたのは一番上の妹のチカ。
「うるせえ。好きでこれしか取らなかったわけじゃねえよ」
「ふーん、かわいそ。……しょうがないから私のお肉あげるよ。その代わり、中等科ってどんなとこなのか、話聞かせて」
そう言って、チカは自分の皿からハーツの皿へ、勝手に肉を取り分ける。
休みが明ければ、彼女は近くの街の中等科学園に進学することになっている。きっと新しい生活を不安に思っているのだろう。
「……どんなとこって言ったってなあ。寮暮らしになるのと魔法が使えるようになったのと。初等科と違うのはそんなもんだよ」
「ええー、つまんない。お肉あげた甲斐がないじゃない」
チカがさっそく肉を取り戻そうと箸を動かすので、ハーツはその前に、もらった肉を口に入れる。代わりにチカは、元々ハーツの皿に載っていた小さな肉を奪って自分の口に入れた。
「兄ちゃんは魔法の適性があるからいいけどさ。私は研究科に行くんだよ? 勉強嫌いだし、寮生活なんてつまらなそうだし……なんか面白いことってないの?」
「少なくとも飯はうちよりゆっくり食えるよ。誰も他人の皿から肉を取ったりしないから」
言いつつハーツは、チカの皿に箸をのばす。取られた分は取り返せ。七人兄弟で生き抜く術だ。
チカは皿を自分の方へ引き寄せて、あっさりとハーツの箸をかわす。
その軽い動きとは裏腹に、口調はどんよりと沈んでいた。
「ご飯なんて、こうやって皆で食べた方が楽しいでしょ。私、中等科なんて行きたくないよ。畑の手伝いして、適当な時期になったら相手を見つけて結婚するの。それじゃだめ?」
「あんた、まだそんなこと言ってるの?」
と、ここで突然後ろから話に割って入ってきたのは母親だ。
「今どき中等科も卒業していないんじゃあ、嫁の貰い手もないよ」
「そんなこと言って、母ちゃんだって行ってないくせに」
「私とあんたじゃ時代が違うのよ」
そう言いながら、母親はハーツの皿に野菜を足す。
「私の頃は同じ学年の半分くらいは中等科に行かなかったけれどね。あんたたちの年だと、中等科に行かない子なんていないだろ? チカが中等科に行かなかったら、うちは子供を中等科にも通わせない家だなんて、後ろ指さされちゃうよ」
「母ちゃんは家の体面と娘のことと、どっちが大事なの」
「どっちも大事。ほらハーツ、野菜の分だけチカを説得しなさい」
「そんな無茶な」
ハーツの文句など聞こえないふりをして、母親は空になったいくつかの皿を手に台所へと、引き上げていった。相変わらず、食べるのも早ければ片付けるのも早く、逃げ足も速い。
沈黙するチカとハーツの周りで、ほかの五人の兄弟たちがわいわいと騒がしく食事を続けている。父親は、と思ったら端の方で居心地悪そうに小さくなって飯をつついていた。このあたりは、ハーツが中等科に通う前とそう違わない。
「……あーあ。勉強なんて、やりたくないよ」
やがて口を開いたチカは、改めて、周りの喧噪に隠れるほどの小さな声で呟いた。きっと本心なのだろう。
チカは昔から、本を読んだり文字を書いたりすることが苦手だ。頭が悪いというのとは違う。言って聞かせればだいたいのことは理解するし、物覚えも良い。ただ、自分で教本を読んで勉強したり、授業の内容をノートにまとめて整理することが極端に苦手なのだ。
同じ初等科に通っていた頃は、ハーツがよくチカの勉強に付き合ってやっていた。ハーツも勉強は得意ではないが、一学年下の内容であれば、なんとか面倒を見るくらいはできた。
この一年でそれがなくなって、チカの我慢も限界に達したのだろう。
「まあ、勉強したくない気持ちはわかるけどさ」
「わかんないよ。兄ちゃんは勉強できるでしょ」
「できねえよ。中等科の俺の友達なんて、もっと勉強できるやつはいっぱいいる」
ハーツの言葉に、チカが絶望的な顔をする。間違えた。そりゃあ周りに勉強のできるやつがたくさんいるとなれば、不安にもなるだろう。不安をあおってどうする。
「いや、つまりな。そういうやつらに勉強教えてもらったりするんだ。俺は勉強嫌いだけど、友達と勉強するのは楽しいぞ」
「いやだよ、ばかにされるもん」
「馬鹿にするようなやつとは友達にならなくていいんだよ」
「うーん」
「あのなあ、チカ。いつまでも俺が勉強教えてやれるわけじゃないってのはこの一年でわかったろ? 中等科行って、ちゃんと自分で友達見つけて、勉強教えてもらえよ。きっと、俺と勉強するより楽しいから」
「そうかなあ」
「そうだって。それに、友達も自分で見つけられないようなやつが、簡単に結婚相手なんて見つけられると思うなよ。……そうだ。中等科に行って、適当な男を見つけてくればいいじゃねえか」
チカは意外と整った顔をしている。進学予定の中等科学園のある街は、イーダほどではないものの、こんな小さな村に比べれば大きな街だ。きっとチカ好みの男もいるだろう。
「なあに、兄ちゃん。私の結婚の心配なんかしてくれてるの?」
くすりと笑いながら、チカがハーツの顔を覗き込む。久々に見た妹の顔は、不意を突かれると驚くほどに可愛らしかった。
ハーツは思わず視線を逸らした。
「そりゃ、お前が中等科行かないで結婚するとか言うからだろ」
「あっそ。……ねえ、そう言う兄ちゃんはどうなの? イーダで可愛い女の子見つけた?」
「いねえよ、そんなの。俺は友達さえいればいいの」
「えー、つまんない」
チカは唇を尖らせるものの、その顔に、先ほどのような不安は見当たらない。いくらかいつもの調子が戻ってきたようだ。それを見計らってか、母親が台所から顔を出す。
「ハーツの新しい友達ってのにも会ってみたいね。機会があったら連れておいでよ」
「無茶言うなよ。こんなに離れた田舎に来る暇なんて、誰にもねえよ」
「それもそうねえ……それなら卒業までの間に、私がそっちに遊びに行こうか。交流大会だって、また遊びに行ってみたいし」
「ええっ! 母ちゃん、ずりぃ! 俺も行く!」
声を上げたのはチカより二つ下の弟。つられてほかの弟妹たちも「私も」「俺も」「僕も」と騒ぎ出す。
「はいはい。皆で行こうねえ」
面倒くさそうな母親の言葉は、おそらく子供たちを宥める方便であって本気ではない。
兄弟七人は全員そのことに気付いているが、そんな些細なことは、誰も気に留めなかった。あれを買いたい、これを見たい、あそこに行きたい……子供たちの話に花が咲く。
相変わらずの騒々しい食卓での時間は、あっという間に過ぎた。
七人兄弟での懐かしい騒がしさは、そこから九日間続いた。その間にハーツは近所に住む祖父母やいつも世話になっているおじちゃんおばちゃんに土産を配り、村はずれの家で飼われている可愛い番犬に挨拶し、久々に農作業を手伝った。
弟妹たちはいつもそうしているように、自分の年齢に合わせてできる手伝いをする。それからハーツにくっついて、わらわらと大勢でご近所巡りをした。
のびのびと日々を過ごして十日目。午後に隣町まで向かう荷馬車に乗せてもらって、そこからまた馬車と船を乗り継ぎ、イーダに戻ることになっている。イーダに戻るのが始業のぎりぎりでもよいと思えばもう少しゆっくりもできるのだが、道中何もないとは言い切れない。余裕は持っておきたいものだ。
「じゃあな、チカ。お前も中等科がんばれよ」
「うん。兄ちゃんも元気でね」
初日には暗い顔をしていた妹も、数日一緒に過ごしているうちに、さっぱりとした顔つきになった。久々に会った兄に甘えたい気持ちが表に出ただけだったのだろう。
この可愛らしい妹は、一年後にはどんなふうに成長しているだろうか。
それじゃあ、また。と村はずれまで見送りに出てきてくれた家族に大きく手を振って、ハーツは久しぶりの故郷をあとにした。
次に帰ってくるのは、また一年後。
それまでは、また中等科学園での生活を楽しもう。
そうしてチカと、互いの学園生活を自慢し合えるようになりたい。
(っていうか。もしかしてアンリに頼めば、魔法でぴゅっと来たり帰ったりできたのか?)
ハーツがそのことに気付き、そしてなぜ帰省前に気付かなかったのかと後悔したのは、帰りの馬車と船とに揺られ、忘れていた乗り物酔いを思い出した頃だった。




