(12)
砦で報告書をまとめ終えると、寮への帰りは夕方になった。部屋では出掛けたときと同様に、ウィルが真面目に机に向かっている。あの勤勉なウィルでも今さら勉強することがあるのかと、アンリは感心して眺めながら上着を脱いで鞄と共にベッドに放った。
「おかえり、アンリ。仕事はちゃんと終わったの」
「うん、一応。でもしばらく毎週同じところに行かないといけないみたい」
「え……試験前なのに、大丈夫?」
「そっか、試験勉強。忘れてた」
わざと忘れているんだろうと呆れた調子でウィルに言われるが、アンリとしては本当に忘れていただけなので、信じてほしいところだ。どのみち、仕事が入ってしまったという事実は動かすことができない。
「うーん。まあ、留年しない程度の点数さえ取れればいいや」
「アンリがそれでいいならいいけど……いや、やっぱり良くないな」
「なんで?」
「魔法はピカイチなのに、試験の点数は赤点ぎりぎりって事だろ? 格好悪いし、なんだか魔法研究部が一年間、遊んでいたみたいに思われるじゃないか」
そんなふうに思われてしまうのか。試験の成績なんて自分一人の問題だとアンリは思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。面倒くさいなと顔をしかめるアンリに、ウィルは物憂げに続ける。
「そもそもアンリ、成績悪いと周りから心配されないか? 隊長さんとか、孤児院の人とか。心配されたり、怒られたり」
「どうだろう。試験なんて初めてだからなあ」
アンリにとって中等科学園は、初めて通う教育機関だ。これまで試験の成績などというものと無縁であったアンリにとって、成績による周りの反応など想像もつかない。
しかし言われてみると孤児院にいた頃、初等科学園に通っていた同年代の子供たちは年末になると、試験がどうとか成績がどうとか言って騒いでいたように思う。サリー院長の顔色をうかがってみたり、突然皆と遊ぶのをやめて食堂で勉強し始めたり、挙動不審になる子供が多かった。「アンリは試験が無くていいね」などと嫌味のようなことを言われたことも、一度や二度ではない。
「……俺、成績悪いと院長先生に怒られるのかな」
「僕は知らないよ。本人に訊いてみたら?」
サリー院長本人に尋ねる? 成績が悪かったら怒りますか、って?
そんなこと訊けるわけがない。アンリは顔をしかめ、とにもかくにも教本を開いて試験勉強を始めることにした。
『……それで、俺に訊こうと思ったわけか』
「はい。隊長の方がまだ訊きやすいと思って」
通信魔法の向こうから苦笑する気配が感じられたが、アンリは無視することにした。こんな年末の試験も差し迫った時期に仕事を押し付けられたのだ。このくらいのわがままは許されてもいいだろう。
「俺の成績が悪かったら、隊長は怒ります?」
『いやあ……仕事を頼んでるのは俺の方だし、俺から文句は言えないが。だけど、アンリ自身はどうなんだ? 良い成績を取りたいとか、思わないのか?』
「いえ、特に。あれ? 普通は良い成績が取りたいって思うものなんですか?」
『…………』
隊長の返答が途絶え、アンリはしばらく一人で首を傾げた。それほど答えづらい問いだっただろうか。それとも、何か別の用事が入っただろうか。私用の通信なので、用があるなら切ってくれても構わないのだが。
「隊長?」
『……ああ、悪い。なんというか、アンリをここまで非常識に育ててしまったことにちょっと責任を感じて。初等科学園に通わせてやれなくて悪かったな。中等科だけでも行かせることにして、本当に良かった』
「なんですか、それ」
成績の話を相談しただけなのに、隊長の考えはアンリの思わぬ方向に逸れてしまったようだった。そもそも初等科学園に通わないことを決めたのは、以前の隊長だ。今の隊長に謝られる筋合いもない。
それでもこうして嘆かれるのは、それだけアンリの常識感覚に対して隊長が危機感を覚えたと言うことだろう。言い方を変えれば、アンリが常識知らずであることを暗に指摘しているのだ。
「……あれっ、隊長。俺、なんだか今の言葉に怒ってもいいような気がしてきました」
『いや待てアンリ、早まるな。真面目に答える。……そうだな、良い成績が取りたいって思っている学園生は多いと思うぞ。少なくとも、俺の頃はそうだった』
「そうですか」
『それでもアンリがそう思えないなら。そうだな、アンリの成績が悪ければ俺は心配するし、たぶん、サリー院長は怒ると思う。これでどうだ? 試験へのやる気は出るか?』
隊長はどうやら、アンリが試験勉強に乗り気でないことを察してやる気を出させようとしているらしい。やはり学年末試験とは、一応やる気を出して取り組むべき行事のようだ。
アンリは認識を新たにして、試験勉強に取り組むことに決めた。
「わかりました。隊長がそう言うなら、頑張ってみます」
『うん、そうしてくれ。……実際、歴史学だとか地理学だとか、アンリの苦手な科目は想像つくが。教養科目も捨てたもんじゃないぞ。物事をよく知っていることは大事なことだ。知らないよりも知っていることで、自分に有利に働くことはたくさんある』
「……そういうものですか」
『そういうものだ』
「うーん……わかりました、頑張ります」
口ではそう答えたものの、いまいちアンリは自分の理解に自信がない。しかしこれ以上説明を求めても、きっと話だけで納得することはできない。そう感じたアンリは話を打ち切り、宣言したとおり試験勉強に戻ることにした。
試験科目は数学、構造学、生物学、歴史学、地理学、社会学、魔法学の七科目。このうちアンリにとって数学と構造学は魔法知識に通じるところがあって、授業もそれほど居眠りが目立たない。言わずもがなの魔法学と合わせて三科目は、特段試験勉強に力を入れずとも、そこそこの点数が取れるだろう。
問題は残りの生物学、歴史学、地理学、社会学の四科目。
「ええぇ……試験範囲ってこんなに広いの」
朝の教室で机の上に四冊の教本を並べ、アンリは絶望に呻いた。
「アンリ君、今さら何を言っているのさ」
「だってエリック。一年分の内容だよ? 皆も試験前だからって真面目に勉強しているみたいだけど、それこそ今さら勉強してどうなるってものでもないだろ?」
それを言うな、という視線が普段は話しもしない同級生たちから注がれるが、アンリは一向に気にしない。間違ったことを言っているとは考えていない。
「そう言うなって、アンリぃ」
視線ではなく口で抗議したハーツには、アンリも一応目を向けた。
「今さらっつっても、ちょっとでも点数上げたいと思うだろ。だからアンリだって、そうやって教本開いてるんだろぉ」
ハーツの手元に広がっているのは数学の教本と副教材の問題集。アンリと違い、ハーツは数学が苦手のようだ。ノートにびっしり書かれたハーツの文字を眺めて、アンリは小さく首を捻った。
「……ハーツ、そこ違ってるよ。計算ミス」
「え、どこ」
そこ、とアンリはノートの一部を指差すが、ハーツには何が間違っているのかすらわからないらしい。アンリがノートに式を書き足しながら説明すると、ハーツもようやく大きく頷いて、自分の書いた計算式を書き直した。
その様子を眺めながら、エリックが「そうだ」と明るい声をあげる。
「部活動のない日は、授業の後に勉強会をやらない? わからないことは教え合えるし、家で机に向かっているだけじゃ、やる気でないでしょ」
アンリとハーツはそろってエリックの提案に賛同し、その日からウィルとイルマーク、マリアも加えた六人での勉強会が始まった。場所は学園の食堂。図書室という案もあったが、教え合うのに声も出せないのでは不便だということで、食堂を選んだ。
もちろんアイラも誘った。しかし彼女は「試験勉強よりアンリとの模擬戦闘の準備に時間を使いたいわ」とのことだ。普段から勉学に対しても真面目なアイラは、試験前だからといって慌てる必要も無いに違いない。
こうして学年末に向け、徐々に、しかし確実に時間は過ぎていく。




