(29)
アンリが観客席についたのは、アイラと仮面男の試合が始まる直前だった。
「おつかれさん。すごい試合だったな」
「でもアンリ君、簡単に勝っちゃったね!」
友人たちに笑顔で迎えられ、アンリは苦笑する。本当に簡単だったなら魔法器具を壊されるような事態にはならなかったはずだ。簡単に見えたということは、魔法器具のことは気付かれていないのだろう。
ほっと一息ついて、アンリは今から始まる試合に意識を傾けた。会場ではアイラと仮面男ロブが見合って、試合開始の合図を待っている。アイラは数回隊長と会ったことがあるはずだが、ロブの正体には気付いているだろうか。
そんなことを考えながら観ていたアンリの横に、ウィルが近寄ってきて小声で言った。
「ねえ、アンリ。あの相手の人だけどさ。僕、会ったことがあるように思うんだけど」
そういえばウィルも数回会っている。そのうえウィルの記憶力は抜群だ。気付かないわけがない。
あの仮面男に配慮しているのか、アンリに配慮しているのか。一緒に観戦する魔法研究部の面々にさえ聞こえないほどの小さな声で話すウィルに、アンリは小さく頷いた。
「たぶん、考えている人で間違いないよ。休暇中に役職で呼ぶなって言われたから、誰とは言わないけど」
「……それじゃあ、この模擬戦闘が見られるのは幸運だな。滅多に見られるものじゃない。それにしても、どうして」
ウィルの言葉の最中に、試合開始の合図が響く。同時にアイラが強力な炎魔法を、仮面男に向けて撃ち放った。また魔力量を無視した大技を……とアンリは眉を顰める。
会話は途中になってしまったが、ウィルの言いたいことの予想はつく。どうして一番隊隊長が中等科学園のイベントに参加しているのか? どうして魔法を使わないのか?
たいした理由ではないだろうとは思うものの、アンリも確実な答えは持ち合わせていない。あとで本人に聞いてみよう。
アイラは遠距離から強力な魔法を連発し、仮面男はそれを前後左右に跳ぶように走り回ることで避けている。これまでの試合では魔法を剣で斬り払うほどの動きさえ見せていた男だが、アイラの魔法の威力が強すぎて、それができないのだ。ただ逃げ回りながら、アイラの隙を探している。
対するアイラも簡単に隙を見せるほど間抜けではない。乱暴とも言える攻撃を繰り返し、相手の体力切れを狙っているのだろう。相手の攻撃手段は剣だけなのだ。近付かせなければ攻撃を受けることはないし、遠距離からの魔法攻撃が有効な戦い方であることは間違いない。
とはいえ仮面男の正体を知るアンリからすれば、体力切れを待つ作戦にはやや無理があると思われた。彼の体力は無尽蔵だ。そしてアンリの予想の通り、しばらく攻撃と回避とが繰り返されたのちに、先に集中を切らせたのはアイラの方だった。
強力な魔法を何度も連発するうちに、魔法に小さな隙が生まれた。連発された炎魔法の隙間に一瞬だけ、魔法に触れずにアイラまで至る道が出来ていた。
その道を見逃す男ではない。魔法を使ったのでないかとさえ思える速さで、男が隙間を縫うようにアイラに迫る。その木剣が、アイラの体を袈裟懸けに斬り下ろすかと思われた。もちろん木製の剣だから実際に斬れはしないだろうが、下手をすれば骨の一本や二本の骨折では済むまい。
それでも隊長ならアイラに怪我はさせないだろう……そんな信頼に基づいて不安なく観戦していたアンリの目に、ある意味予想を裏切る光景が飛び込んできたのは、その直後のことだ。
男の振るった木剣が、突然現れた氷の壁に阻まれた。
「……うまいな」
アンリは思わず声を漏らす。氷の壁は剣を弾き返すのではなく、むしろ柔らかく受け止めていた。木剣が氷の壁にめり込み、それを手にしていた男が足を止める。
剣が当たる瞬間には柔らかく、受け止めた後は剣を巻き込んで硬く。氷の硬さを調整したのだろう。剣が氷にめり込み、抜けなくなっているようだ。
男は瞬時に剣を諦めて捨てる判断をした。それでもアイラの方が早い。剣から手を離した男に向けて、アイラは容赦なく風と炎の重魔法を放った。
(……は?)
ここでアイラが重魔法を使うとは思わなかった。アンリは驚愕にやや腰を浮かす。仮面男が隊長である以上、何も起こるはずはない。しかし万が一、彼が魔法を使わないことに固執するならば。初心者の重魔法と言えど、武器も防具も魔法も無しに防ぎ切れるほど甘くはない。
ごおっと凄まじい音を立て、炎の竜巻が男を襲う。観客の数人があっと悲鳴をあげた。
しかし、アンリや観客の恐れたことは、起こらない。
炎の竜巻は仮面男のすぐ目の前にまで迫り、しかしそこで、音も立てずに消え去った。あまりにも突然の消失に、瞬きせずに注視していた観客にさえ、何が起こったのか理解できなかったほどだ。
辛うじてアンリは、起こったことを目ではなく、肌で感じていた。どうやら仮面男は魔法が自分に到達する直前に、空間魔法を発動させたらしい。炎の竜巻を、どこかの異空間に呑み込んだようだ。
呆気にとられた観客が声も出せずに見守るなかで、アイラは油断なく腕を掲げ、次の魔法の発動を準備する。
けれどもその必要はなかった。その前に仮面男が両手を挙げて、降参を宣言したからだ。
魔法を使うつもりはなかったのに、使っちゃったから。
仮面の男ロブ・ロバートはそんな驚くべき理由で降参して去った。唖然として見送った観客は、しばらくして、会場に残ったアイラに対して拍手と歓声を送った。なにはともあれ、アイラの勝利だ。
そして観客の前でこそ愛想笑いを浮かべていたアイラだが、アンリたちのもとへ戻ってくるなり、不機嫌極まりない仏頂面になった。
「なんなのよ、あの男! 人をバカにして」
「まあまあ、アイラちゃん。落ち着いて……」
「落ち着いたって同じよ。もう一度、ちゃんとやってもらえないと許せないわ」
なだめるエリックの言葉も聞かず、アイラは激昂している。そんなアイラに、アンリは同情よりも呆れを込めて口を開いた。
「そんなこと言って、あの人を相手にちゃんとやったら負けるだろ?」
「それなそれで構わないわよ。とにかく、あんな勝ち逃げみたいな真似、許せないわ」
勝ち逃げどころか勝ってすらいないはずの相手に、ひどい言いがかりだ。そのうえ、そもそもの原因の一端はアイラにもあるというのに。
「どうしてあそこで重魔法を使ったんだよ。本当に魔法を使えない相手だったら、怪我じゃすまないことくらいわかるだろ」
「あら、魔法を使えない人ではないことくらい、最初からわかっていたわ」
アンリの責めるような問いに、アイラは当たり前のことを聞くなと言わんばかりの声音で答えた。隊長のことに気付いていたのかとアンリが感心しかけたところに、アイラが言葉を続ける。
「だって彼の体の中に、ちゃんと制御された魔力が見えたもの」
「……は?」
アンリは信じ難いものを見る目でアイラを見る。魔力が見えた? 隊長の?
それはつまり、隊長が普段から展開している魔力の隠蔽を見破ったということだ。アンリでさえ、隊長の魔力を見るには苦労するというのに。それをさも、できて当然かのように。
隠蔽したアンリの魔法を見破るなど、以前から眼の良さをうかがわせてはいたアイラではあるが、まさかここまでとは。天性の才能……というより、持って生まれた感覚が鋭いのかもしれない。
「そこそこ魔法を使えるはずなのに使わないから、意地でも使わせてやろうと思ったのよ。それなのにあんな……がっかりだわ」
アンリの心中に走った衝撃になど気付きもせずに、アイラが憤然と言う。アンリはやれやれとため息をついた。
「それならいいじゃないか。魔法を使わないって決めていた相手に魔法を使わせることができたんだ。正真正銘、アイラの勝ちだろ」
「そんなの」
「あの人、魔法が無くても十分強いんだよ。魔法無しで対戦したら俺だって負けるし、魔法を使ったって手加減してたら、あの人に魔法を使わせる自信はない。……そのくらいすごいことをしたんだ、わかる?」
納得させたくて重ねた言葉に、アイラは不満げながらも愚痴を止めて口を閉じた。むしろそれまで黙っていた魔法研究部の面々が何か言いたげだ。アンリが視線を向けると、代表してエリックが言った。
「……アンリ君って、ロブさんと知り合いなの?」
「え。あっ……」
アンリは今し方の自身が言ったことを思い出す。あたかもあの男を前から知っていて、対戦したことがあるかのようなことを言ってしまった。
「……あー、いやー。知らないなー」
驚くほどの棒読みで言うアンリに、全員が白けた視線を向けた。なかでもアイラはそれまでの不機嫌さえ忘れたように、呆れた顔でアンリを睨んだ。
「貴方ねえ……。ああでも、信じてあげてもいいわ。代わりにあの人との再戦の機会をつくってくれるかしら」
それは信じたとは言わないのでは……などと余計なことを言って、せっかく上向いてきたアイラの機嫌を損ねるのも馬鹿らしい。
「うーん、まあ。頼むだけなら」
約束したのは今日、隊長を「隊長」と呼ばないということだけだ。正体を隠せとも知り合いであることを悟られるなとも、ましてや再戦を望むアイラの頼みを拒否しろなどとは言われてはいない。
むしろ約束を守った褒美に、このくらいの我儘は聞いてもらってもいいだろう。
そう都合よく考えて、アンリは肩をすくめた。




