Φ 7章 Φ
Φ Ⅶ Φ
クスーフはハラムにある最も重要なスピラルの前で警備に当たっていた。凄まじい焦燥が身を覆っている。またしても聖戦は失敗に終わってしまった。恐ろしい欺きに翻弄され、チャンスを逃してしまった。正しき者が混沌に排され、世界は傾き出している。カーリドはパンセリノスを狙い、神聖な儀式を破壊させようと目論んでいるのだ。
これ以上の失策はあってはならない。完璧を中心に据えなければならない。
その案件があり、彼は一切のスピラルを使用不可としたい気持はあったものの、新年を迎えた完全なる日に駆動を制限させる訳にはいかなかった。停止は即ち故障を意味するのだから。
アサナト暦8100年。新しい年が開かれた。ファダー達は新年を祝い、彼等の幸福は最高潮に達している。大聖堂の二つの礼拝堂では、区の祭司達が祈りを唱えながらモニターで儀式の行方を見守っていた。
イヨルティを行う天上の間へ通じるスピラルは一箇所で、そこへ到達するには礼拝堂にある自動移動階段で吹き抜けへ上がり、昇降機を使って上階へ行く必要がある。スピラルを抜けると区民も立ち寄ることが許されたパンセリノス礼拝場に通じ、先へ進むとその間がある。
天上の間は上層部以外立ち入り禁止で、連絡機器の使用も禁じられている。進行に必要な者――イエレアスと次期イエレアス、大祭司達と9名の胎児しか入場できないのだ。エクェスすらも入れない地上から隔絶された間。
クスーフとしては万が一を考えて部下を配置したい気もあったが、仕方がなかった。神聖なるイヨルティを絶対に穢す訳にはいかない。ハラム郊外の全方位は候補員に護らせている。付近のスピラルも漏らさず警備下に置き、敵の侵入を不可能にさせている。カーリド達は行方を消しているが、ハラム内部へ侵入するのは極めて困難に近いだろう。
あってはならないことだが、仮に忌まわしい狡知で内部へ入られたとしても対策は取られている。天上の間へ通じるスピラル周囲へ充分に部下を配置し、二箇所の入口からそこへ到達する殆どの動線に部下が目を光らせている。中央制御室から通路、個室に至るまで殆どの場所にエクェスを据えた。
クスーフは南側を、セリニ副官は北側のスピラルを担当し、疎通がスムーズに進むよう配慮が成されており、敵が現れた場合に応援に回るか待機するかを判断する為、エクェスを移動型と待機型の二種に分類した。
クスーフ自身は報告された場所へ即座に出向き、部下に指示を与えることになっている。また、中央制御室の技術者に協力を要請し、あらゆる内部視点のモニターを監視させている。死角はない。何処から現れても探知でき、動きを封じられる。左右対称の建物を熟知しているのは此方だ。敵がどのようなことを企んでいようと、包囲して纏めて抹消する。
必ず、カーリドを神の乗り物へ到達させない。
クスーフは背後にある装飾を施された大型のスピラルを眺め、数時間前の部下の報告を思い返した。
――警備員がエーリス8区にて二体のカーリドを発見。直ぐさま候補員とエクェスに報せようとしたが、逃げられてしまった。凶器の所有は確認されず、予想年代と性別、身体的特徴を照らし合わせると、基地に潜伏していた集団とは無関係と思われる。現在、付近の候補員が調査を行っている。
クスーフは一瞬敵の策かと思ったものの、その考えを打ち消した。エーリス8区はあの無残なエクェスの転送先ではないし、敵はスピラルの使用が制限されている筈だった。集団の目的がパンセリノスにあるのなら、エーリスへ現れる意味はない。あの小賢しい者達なら、もっと抜け目ない方法を行うだろう。これは全く別のカーリドと考える方が自然であった。このような時に出現するとはつくづく腹立たしく感じ、員数が割かれるのは痛手であったが、やはり見過ごせなかった。クスーフは数名のエクェスを現地に送り、候補員と共に捜索に当たらせ、処理を行い次第応援へ戻るよう厳命した。
神経質に息を付き、クスーフは儀式の進行状況を考えた。最終の儀式は数時間前に始まっていた。予定によると、そろそろイエレアスが聖句を唱える刻となる。今頃エスフェラ中の者達が全区にある公会堂の巨大モニターに集い、映像に魅入っている筈だ。
部下の士気を上げる為にも一部は観た方が良いだろうと判断し、クスーフは部下達にイヨルティ閲覧の許可を与えた。但し、交代制で室内の半数は警戒を続け、閲覧している者も気配りを怠ってはならないと付け加えた。任務優先を忘れない為に、彼等は手の甲程の小型機でその情景を観た。
宙に浮かび、天上の奇跡へ繋がる聖なる広間。ハラムの礼拝堂と同程度の規模を誇り、磨き抜かれた床に刻まれた巨大な円の上部に祭壇が鎮座している。壇上や壁に掛けられた布は銀糸や金糸が精緻に編み込まれ、その布の留め具には、乳白色の希少な石が使用されている。内部の左右には9名の大祭司が規律良く一列になっている。彼等の背後には端整な神像がそそり立っており、明窓になっている部分から映るパンセリノスを堂々と従えていた。
クスーフは昨日の儀式を思い返した。僅かしか拝聴できなかったものの、昨日の9時間にも渡る『アサナト讃美』は素晴らしかった。300名の楽隊と600名の合唱隊。合計900名の電子楽団が奏でる交響曲。この曲はイエレアス一代目のアルタセが創り上げたと言われている。全九楽章に分けられ、均整の取れた非の打ち所のない音楽だ。繰り返し神を称える唱和は聴いていて畏敬の念が込み上げる。数多の敬虔なファダーが傑作を創っていても、未だにこれに勝る作品はない。
遂に、自動撮影機が映す映像にイエレアスの姿が映った。思慮深く美しい面相が輝いており、金髪が淡い光に照らされ、白金の法衣の裾が翻る。正に神の御使いである御姿をクスーフは拝し、アサナトの奇跡に感謝した。
ルーヌラは静静と淑やかに祭壇へ上る。大祭司は左右に分かれ、深々と首を垂れた。彼女は大祭司のみならず惑星中にいる信徒達を眺めるように見渡した。全てを見透かすような瞳に、神の子らは益々姿勢を低くした。
これからルーヌラはアサナト教の聖句『世界創世』『ファダー創成』『神託』を暗唱する。この詩句はアサナト教の基盤を成しており、全ファダーが諳んじることができる。彼女は壇上越しに、朗々とした声を響き渡らせた。
混沌に満ちていた 雑多が蠢いていた
宇宙もなく 星もなく
塵が漂っていた 不純が動いていた
得体の知れぬ何かが溢れていた
無欠の唯一者 光輝ある救い手
虚空から煌く者が降り立った
諸手を広げると秩序が謳った
煩雑なものは無に還った
全てが粛清された 浄化された
存在するは ただ至高神のみ
無へ無限を置き宇宙とした
広大な産物 欠陥なき悠久の中心
神は小さき無機物を創り出した
四の腕で包み込み 息を吹きかける
秀麗な球体 滑らかな物質
それは徐々に膨張していく
変化するは宏壮なる輝く惑星
猛々しい星は身を震わせ、数多の子を産んだ
星々は飛び散り、虚空の宇宙を彩る
燦然と輝く親星 周囲を廻る子ら
神は誉高き星をエスフェラと名付けた
余韻を残しながらルーヌラは一遍の詩を終えた。大祭司達は法悦に入って聴き入っている。祈りの振る舞いも賛美の文句もない。聖句を口ずさむことも。ただ一心に聴覚を傾けている。全区の信徒達も同じ反応であろう。クスーフも次に続く美しい御言葉を一言も聴き漏らすまいとしていた。
息を深々と吸い、イエレアスは厳かな声で続きを唱えた。
白銀の姿 光り輝く無欠な肢体
唯一神はエスフェラへ飛来した
巨大な超星 祝福されし土地
アサナトは光を発した 眩い閃光
銀色の輝きは凝縮し、形となる
九の子が産まれた
神の姿を模倣した、完璧な種族
子らに約束賜うたは 永遠の完全性
偉大なる者は諸手を広げ
ファダーの額に触れる
注ぎ込まれる知識の粒子
大いなる智慧を授かりしファダー
証が刻まれた子らは神へ額ずく
真円の輪郭をなぞる未来
宇宙の創造主 耀きに満ちた地
秩序だった世は完成された
二つ目を謳い、ルーヌラはたおやかに口を閉じた。その立ち振る舞いは凛としている。大祭司達は深々と頭を垂れ、神への礼拝を行った。クスーフは最終を心待ちにした。理念の中核を成している神の教義。最も美しく、最も重要な詩句だ。
彼女は両腕を広げ、天を振り仰いだ。
秩序の中心 御座す至高神
遍く照らす御光 全美なる肢体
九の奇蹟 輝く生命の包括
不滅の者よ 極致の概念よ
我等は幸いである
恒常たる循環 揺るがぬ輪廻
欠失なき基盤 誓約されし無限
大いなる託宣 清い果報の出生
倣い委ねよ 清福を享受せよ
我等は幸いである
円満であれ 精到であれ
純然であれ 定常であれ
不変であれ 完全であれ
大祭司達を見渡した後でルーヌラは皆も唱和なさいと告げ、聖なる神託を繰り返した。大祭司達や信徒達も口を開き、エクェス達も倣った。今や全ファダーがその文句を唱えていた。うねりはエスフェラ中を包み、一体性を作り出していく。
円満であれ 精到であれ 純然であれ
定常であれ 不変であれ 完全であれ――……
余韻の残る中、彼女は厳かな声で天上に向かい、宣言を行った。
「イエレアス139代目、ルーヌラは神との誓約を果たす。今こそ私は神の胎内へ進んでいき、約束された地にて新しき秩序を産み出す。円の巡りを再発させる。完全は幸いなり。永遠は幸いなり。ユーラティオー」
祈りの言葉を大祭司達が唱和する。クスーフも口の中でユーラティオー、と呟いた。
一時の静謐の後、9名の大祭司達はアサナトの神像の陰に入ってから、ルーヌラの前に歩み寄った。容器に入った胎児がそれぞれの腕に支えられている。9体の未熟児は異なる遺伝子を持つ者達だ。彼等を基礎として、異なる星で完全体の社会は形成されていく。九種の不変は継続されていく。
イエレアスは一番左側の胎児の眼前へ立ち、両手を掲げて祝福を唱えた。右手で虚空に円を描き、アサナトの加護を願う。横へ逸れ、二番目の胎児に同じことを繰り返す。それ以降にも同様に祝福を与えていった。全てが終わると大祭司達は胎児を抱えたまま一歩下がり、踵を返して横に控えた。
絶えず朗々とした聖歌が唱和され、電子音楽が鳴り響いている。次は、いよいよ宇宙船の搭乗の儀式へ移行する。
ルーヌラは輝くパンセリノスを見据え、声高らかに申し渡した。
その時、部下からの通信があった。
『――カーリドが現れました!』
クスーフは映像を切り、気持を即座に切り替えた。やはり敵は行動に移した。彼は周囲の部下に指示を飛ばしながら現れた場所を問うと、その者はこう言った。
『中央制御室です!』
彼は聴覚を疑った。敵は聖堂周辺で発見されると思っていた。それなのにカーリドは既に内部に潜入している。聖地に不浄な足を付けているのだ。中央制御室には何名かの部下を設置していたものの、突然の出現は予期していなかった。だが、敵の意図は明白だった。
不完全者はメインコンピュータを不全にするつもりなのだ。
「何としてでも止めろ!」
クスーフは遠距離にいる者に内部用スピラルを利用して包囲するよう言い付け、半数の部下を従えて扉を素早く開けた。郊外にいる候補員にも祭司達の避難を行うよう命令を下す。クスーフは口の中で今一度聖句を唱え、誓いを反芻した。神の御名の下、聖なる祭典を守護し、必ず奇形者を消滅させる。
☩ ☩ ☩
「監視員を倒しました!」
カマルはそう叫び、コンピュータへ屈むリュヌの近くでヴァッフェを構え直した。ヒラールは南側の扉前を陣取り、アステリは北側の扉で敵の襲来に備えている。彼等は6体のエクェスと3体の監視員を消した処であった。
ヒラールは素早く周囲を見渡した。中央制御室は半地下となっており、巨大なメインコンピュータが足元を通るように設置されている。上部には二箇所出入り口が備え付けられており、真ん中に5名程が並んで歩ける程の通路がある。下へは階段で繋がっており、リュヌは下部の一角で主要機械に向かって、目にも止まらぬ速さでキーを打ち込んでいた。監視員がいた場所のモニターには建物内のあらゆる視点を映している。
彼は侵入経緯を思い返した。ラウフとハラムには北と南に連絡通路があり、二つの建物に囲まれた外領域がある。地図によれば中央制御室は右側に位置しており、その領域に面していた。
彼等は敵に見つからないようにラウフの窓から坪庭へ降り立ち、ヴァッフェで壁を破った。そこから一気に飛び込んだのだ。
バドルの冷静な声が彼等の脳裏へ響く。
『エクェスが動き始めています』
ヒラールは左手に持つヴァッフェを回転させ、アステリを見た。
「任せた」
彼女が頷いたのを確認後、ヒラールは侵入した亀裂から戻り、部屋で待機していたバドル達と合流した。モントとハイルは渡したヴァッフェを握り締めている。3名の子供は言い付けの通り、部屋にあった重量ある台座を抱えていた。バドルは俯いてカマル達に指示を出していたようだったが、此方の存在に気付いて弱々しく微笑んだ。
「行くぞ」
彼等は部屋を出て、南の連絡通路へ固まって走った。スライドドアの前に立つと、ヒラールが問うこともなくバドルが答える。
「正面1体、右3体」
ヒラールは仲間達に待機するよう指示を出し、単体で入り込んだ。思考より早く、指が引き金を引いた。三連撃で3体を倒し、残りの者の攻撃を横に跳んで避け、レーザナイフを突き出す。崩折れる一体の手からヴァッフェを奪い、右の羽に握る。ヒラールは仲間達を呼び、内部用スピラルへ招いた。
「此処で待機しろ」
モントが意図を測りかねた顔をしていたので、ルーナが言い添えた。
「敵の転送を防ぐのね」
ああ、とヒラールは答えた。指定先に誰かがいればエラーとなって、転送が不可能になる。その原理を利用するのだ。一般常識ではハラム方面へ行く者が優先となり、中心から離れる者は遠慮して先に利用を譲る。この内部用スピラルであるならば、北の方が優先となると思われる。この処置は有機体でしか行えず、過去に一度、物をスピラルに置いたら中の装置が作動し、取り払われてしまった。故に仲間が此処にいる限り、敵はこのスピラルを使用できない。
ヒラールは先程出てきた自動扉のオート機能を壊し、子供達が持ってきた台座を手前に置き、スライド部分に金属製のポールを嵌め込んで簡易的な封鎖を施した。敵は神聖な場を破壊するのを好まないので、幾らか時間を稼げるだろう。もう一方の扉へ視線を向けた時、バドルの声が響いた。
『扉から2体!』
彼は姿勢を低くし、連射した。現れた者達の首と胸に直撃する。消え去ろうとしている敵を押し退け、ヒラールは部屋に躍り込んだ。バドルのユドラが間髪入れずに聞こえる。それに従ってヴァッフェをもたげて撃ち込む。左にいた者は仰向けに倒れた。敵は残り2体。
ヒラールは右の羽を伸ばし、二度閃かせた。一方は倒れ込んだものの、もう一方はそれを避けた。敵の光弾が発射される。ヒラールは素早く後退し、内部用スピラルの部屋へ回り込んだ。壁が穿たれる。彼は開いた空洞から二梃の凶器を撃ち込んだ。敵は絶望の表情を浮かべながら散っていった。
『完了!』
その時、リュヌのユドラが届いた。ヒラールは大股で扉を抜けて部屋を横切り、白で覆われた室内を見渡した。正面と右側に扉がある。此処を護れば敵は仲間達の方へ流れてこない。挟み撃ちにもならないし、しばらくすれば自壊プログラムによって連絡機器やスピラルが使用不可になり、敵は混乱に陥る筈だ。その頃にはリュヌ達は中央制御室から脱出して右側の扉から現れるだろう。
合流後にバドル達を呼び、全員で正面の扉を通って南側の礼拝堂へ行き、上部のスピラルを使う。
『彼等は中央制御室を離れました』
バドルの連絡を受け、彼はもう一方からの扉から現れる手筈となっているリュヌ達を待った。だが、なかなか現れない。正面の扉から敵が3体現れる。ヒラールは即座に脇へ跳び、攻撃を仕掛けた。三発の光弾は過たずに敵の肢体を貫通する。今の出現はバドルの警告がなかった。リュヌ達に何かがあって、そちらへ意識を傾けているのだろうか。
ヒラールが一抹の不安を覚えた時、バドルからユドラが届いた。
『……プログラムが効いていないようです』
「なんだって!」
理由を問おうとすると、バドルは悲痛な声を出した。
『アステリが……!』
ヒラールは「何故」という疑問を呑み込み、右側の扉を開けて通路を北に走った。扉から現れた2体の敵へ撃ち込み、レーザナイフを振り被る。敵が放った不可視の光は服の裾を消滅させる。ヒラールは構わずに走り、一気にスライドドアを開けた。
視界に飛び込んできたのは、リュヌが血まみれのアステリを支えている光景。カマルが奥から現れる敵を迎え撃っている。リュヌは一瞬恐怖で顔を引き攣らせたが、現れたのがリーダーだと分かると安堵の表情を浮かべた。アステリは左脚に極小のナイフが突き刺さっており、彼等はあからさまに気が動転していた。リュヌは顔を歪ませて、タブレット型コンピュータで奥を差した。
「データが復活している……!」
「構うな! 抜けるぞ! カマル、後方を守れ!」
ヒラールは指示を飛ばしながら彼等を南へ誘った。3名は何も言わずにそれに従い、扉へ向かった。アステリはリュヌの支えを断り、足を引き摺りながらも自力で進む。合流予定地点へ付くと、二体の敵が現れた。彼等がその者を片付けた丁度その時、バドルの緊迫した声が届いた。
『一体、此方へ来ます!』
ヒラール達は仲間達が待つ場へ走り込んだ。敵はスピラルの方向へヴァッフェを向けようとしている。ヒラールが相手の頭部に撃ち込んだと同時に、敵の足が消失した。驚いて見ると、ハイルが仲間達の眼前に立ち、武器を構えていた。彼の放った光弾が当たったのだ。ヒラールは小さな頭に羽を置き、「良くやった」と褒め、素早くバドルに目をやって問い掛けた。
「上部の状況は?」
その者は悲しげに目を伏せ、首を横に振った。
「敵が混乱した様子はありません。10体以上がいます。――突破はほぼ不可能です」
「此処に来て……。くそっ!」
ヒラールは低く毒付いた。自壊プログラムは失敗し、敵の防御を余計強めてしまった。これでスピラルへ到達しようとするのは死と直結しているだろう。長年の苦痛を解放させる船は直ぐ頭上にあるが、判断を誤って無駄死にをしたくはなかった。
バドルは素早く言葉を紡いだ。
「一時待機できそうな場所があります。礼拝堂を横切り、次の場所で右。個室が並んでいる通路。6番目の部屋」
「――分かった。行くぞ!」
ヒラールはバドルの言う通りのルートを取ることにした。その望みに掛けるしかなかった。彼等は幼い者達を庇い、後方に気を配りながら西へ進んでいった。仲間達がスピラルを離れれば敵は自由に移動でき、危険は増す。
「正面2、右手前に1、右に3体!」
彼等は護る者達を残して礼拝堂へ走り込んだ。前室と身廊、側廊に指示通りの敵が立っている。数体のエクェスが逸早く反応し、銃口を持ち上げる。ヒラールは左手と右の羽に握る二梃のヴァッフェを手前の敵に撃ち込んだ。右隣にいた敵をカマルが撃ち抜く。アステリは右側の敵へ迎撃し、左脚から引き抜いた極小ナイフを投擲した。それはもう一体の喉を貫いた。
最後の一体はカマルに向けて発砲したが、彼は物陰に隠れて避け、ヒラールの攻撃でその者の止めを差した。全ての敵が絶命したのを確認した後、彼等は上部から現れた気配を振り切って、仲間達を連れて前室を横切った。
そこを抜けると3体のエクェスが控えていたが、バドルの指示を得て彼等は辛くも敵を倒した。その言葉通り右を折れて進むと、通路には敵はいなかった。彼等は6番目の部屋に飛び込むようにして入る。
そこは簡素な部屋で、祭司の個室のようだった。ヒラールとカマルが扉の横に立ち、他の者達は奥で息を潜めた。時間的猶予は残されていない。直ぐに敵に発見されてしまうだろう。だが、仲間達の誰もが動揺していた。
「どうして――」
リュヌは頭を抱え、混迷した様子で呟いた。
「データが修復していって……。分からない。自己破壊は成されているからプログラムは生きている。だけど一定の時間を経て、データが復活している。自壊と修復が繰り返されている。まるで円の循環だよ!」
それはなんの欠損もなかったかのように平然と彼等の行く手を阻んでいる。メインコンピュータの調査は数え切れない程行ったにも関わらず、誰も原因が分からなかった。再び中央制御室に戻るのも危険が大きすぎた。アステリの怪我をハイルと共に看ていたルーナは、ヒラールにきっぱりと言った。
「諦めましょう」
ヒラールは判断に迷った。このまま此処にいても事態は好転しないだろう。逃げ延びて再び策を練るのが上策かもしれない。だが、パンセリノスの飛行まで一時間もなかった。外へ出たら最後、二度と此処へは戻れず計画は失敗するかもしれないという恐怖があった。
選択の板挟みになっているヒラールの背後にいたモントが、突如声を上げた。
「待って」
全員の視線が集まるのを他所に、モントはリュヌに質問をした。
「コンピュータが暗転したのはいつだった?」
彼女は少し顔をしかめたが、答えた。
「12日前だよ」
「膨大なデータへ侵入しようとしたと言っていたわね? 儀式に関する情報もあったと」
「それがどうかしたの?」
モントはそれに答えず深く考え込んだ。リュヌが今一度聞く前に、彼女は呟いた。
「……ねぇ、そうよ」
何かを悟ったように目を開き、はっきりと告げる。
「――メインコンピュータはそこじゃない」
「は? それなら何処だと言うの?」
苛立ちを含んだ声でリュヌが聞いた。皆も同じ意見だった。ハイマートは長い間ハラムを調査してきた。未入手の情報こそあるものの、全てのデータが収められているバンクといったら中央制御室のメインコンピュータ以外に考えられなかった。
モントは顎に手を添えながら、早口で言葉を紡いでいく。
「900年に一度、開かれる信託の場。救世の間。イエレアスしか入場が許されない最奥の場所。神託が受けられる神聖なる広間。そこではパンセリノスが行く惑星の情報と、次代のイエレアスの情報が授けられる。貴女はそのデータを覗こうとした。そうよ。……計り知れない情報。独立したバンク。強力なセキュリティ。再生するコンピュータデータ」
リュヌははっとした表情を零す。彼女の中で何かが繋がったようだった。モントは震えながら口を開き続ける。
「神は完璧で、カーリドは混沌から生まれた。アサナトは自らに似せて私達を創った。だから、完全体であるべきだ。そう教え込まれた。永遠に変わらない文明と社会体制。9種の遺伝子を繰り返すファダー。それは神の成せる技だと思っていた。でも、それは何か、誰かが仕組んだことなのだとしたら……」
傾聴していたバドルが緊迫した声を上げた。
「南から3体来ます」
「モント、場所は分かるか」
ヒラールの催促に彼女は素早く頷いた。
「確か……北側の礼拝堂の奥。扉を抜けた先よ」
彼等は敵が扉を破る前に先手を打った。通路を飛び出して3体のエクェスを倒し、北へ足を進める。通路を抜けた先には5体の敵がいた。戦闘要員が正面に立ち、指示された通りに標準を合わせて立て続けに発砲する。彼等は弱者を庇い、生き延びる為に戦った。
どうにか全員無傷で敵を倒すことに成功したが、彼等は相当疲弊していた。バドルの指示も深い疲労が滲んでいる。このままの状態が続くとは誰も思えなかった。通路を右へ進み、ハイマート達はエクェスを排しながら、北の礼拝堂へ続く扉の前へ立った。
『正面2。右2体。右奥、5体』
控えている多くの敵。だが、進まねばならない。彼等は意を決めて礼拝堂の前室へ飛び込んだ。敵が撃つより速く撃ち込み、手前の二体と近くの2体を消し去る。仲間達は側廊の物陰に身を隠し、ヒラール達は残りの5体へ意識を向けた。
エクェス達が光弾を閃かせる。彼等は一斉にその場から飛び退いた。立て続けに発砲され、反射的に屈んだカマルの帽子が吹き飛ばされる。アステリも連続攻撃を避けようと後退したが、着地によろめいてしまった。
左脚を床に付けた瞬間、光弾は彼女の右肩に直撃した。
「アステリ!」
ヒラールは彼女の元へ走り寄ろうとしたが、絶え間なく応酬が続き、回避と後退を繰り返さなければならなかった。カマルも彼女の名を叫んだ。視界の端でアステリは虚空へ消えていく。ヒラールは声を上げながらエクェスへ走り寄り、レーザナイフを払った。敵の亡骸を掴んで盾とし、彼は一体にヴァッフェの引き金を引いた。敵は後方に倒れ込む。
その時、全員の脳裏にユドラが響いた。
『左、6体、左正面、5……いえ7体! 正門からも現れます!』
現在の敵も倒しきれていない中、その数が押し寄せたら対応できる筈がない。確実に全滅だ。ヒラールは焦燥の思いで周囲を見渡した。何か状況を打破する案が必要だった。右の敵がヴァッフェを此方に向ける。ヒラールは咄嗟に壁沿いに後退した。反撃しようとするも、隙がない。カマルも回避行動で手一杯のようだった。このままでは聖軍団が殺到して来てしまう。彼が窮地に考えあぐねていると、横から光弾が閃き、敵の手に直撃した。
見ると、モントとハイルが白き銃を構えている。彼等は恐怖の面相を浮かべながらも仲間達を護っていた。モントは震える手で二度目の引き金を引いた。
その攻撃が柱の傍に当たるのを見て、彼は突如閃いた。
ヒラールはレーザナイフで敵を排してから左右にあった柱へ立て続けに連撃し、右の羽に握っていた一梃を正門近くへ投げ付けた。それに標準を合わせ、ヴァッフェを撃ち込む。直撃して弾けた物体は眩い閃光と莫大な破壊を引き起こす。ヒラールは身廊へ後退を始めながら叫んだ。
「カマル!」
一体のエクェスを倒し終えたカマルはリーダーの意図を察し、同様に柱へ二連射した。エネルギーの暴走と柱の崩壊により、それは分解されて二つに折れる。頭上から破片がばらばらと降り注いだ。
「下がれ!」
低く唸るような振動。柱を失ったハラムの天井部は自重で傾いていく。彼等は身廊から中央部、更に内陣へ走り込んだ。傾斜は酷くなり、遂に拮抗は重力に負けた。扉から多数のエクェスが現れ、頭上を振り仰いだが遅かった。
轟音を立てて、天井は崩れ去った。
☩ ☩ ☩
恐ろしい程の地響きを伴い、瓦礫が扉を突き破って現れた。何もかもを破砕したそれは、幾片もの破片となって辺りに散らばる。白い粉塵が舞い上がり、もうもうと立ち込める。
クスーフは蒼白の形相で眼前の光景を見た。彼が扉を抜けようとした瞬間、それは起こった。数瞬早ければ巻き込まれていただろう。何名の部下がそれに呑み込まれたのか。
扉は完全に砕片で埋まり、礼拝堂がどうなったのかは窺い知れない。恐らく前室は全て崩落してしまっていると思われた。
「アサナト神よ……。我等の非力さを、非礼さを御許し下さい」
彼は懺悔の言葉を呟き、ヴァッフェを強く握り締めた。
メインコンピュータはカーリドの狡猾なる奸計でも、完全な様相を保ち続けた。これはエクェス達でも予測していなかったことであった。クスーフはアサナトの御力を再認識した。神は不完全には屈しない。アサナトの奇跡の前に敵は浄化される、と確信した矢先の出来事であった。
彼は直ぐさま部下達へ連絡を取ると、北側の礼拝堂に続く通路は全て塞がれていることが分かった。郊外への扉も閉ざされている。天井の破砕はそこまで広範囲に及んでいたのだ。奥へ向かうには瓦解した物を退けるしかない。建物をこれ以上損壊させるのは忍びなかったが、仕方がなかった。
「開通させろ! 郊外の者は回り込め!」
クスーフは行く手を阻む瓦礫へ光線を三発撃ち込んだ。部下達もそれに倣った。作業を行いながら、彼は他の部下に指示を出す。
「スピラルを守護する者は待機しろ! 絶対に上部へは行かせるな!」
北側のスピラルを守るセリニ副官が了承の声を返す。足元へ目を転じると、崩落に巻き込まれたエクェスの腕が垣間見えていた。その手は固くヴァッフェが握られている。壊され、荒らされた聖域。幾度も感じた憎悪と憤怒が込み上げる。
クスーフは低く唸り、進行の邪魔へ撃ち込んだ。
☩ ☩ ☩
彼等は突き当りの内陣で立っていた。
アステリを喪ったのは大きな哀しみだった。到達点を間近にしての死。全員揃って新天地へ行くと決めたというのに。だが、声を大にして嘆きたい気持を抑え、彼等は先に進まなければならなかった。ヒラールの行動は功を奏し、前室と回廊の一部は瓦礫に埋もれた。今が重要な時機だ。
内陣の正面には祭壇があり、白石で掘りあげたアサナト神が虚空を見つめている。神像の足元にはモニターが据えられており、イヨルティの情景を映している。イエレアスが何かを話しているようだったが、確認している暇はなかった。左右には荘厳な扉が設えてあった。モントの言葉を信じれば、その奥に救世の間はある。一同は右側を選び、白い扉の前へ走り寄った。
スライドドアの隣にはIDと生体認証を要求するパネルがある。リュヌとカマルは早速解析に取り掛かったが、カマルが困ったように口を開いた。
「特殊なセキュリティが掛けられているようです。上層部ではないと入れな……」
「どけ」
ヒラールは彼等を脇へ退かし、躊躇わずに扉へヴァッフェを撃ち込んだ。破壊の光は扉を原子に分解し、頭部くらいの穴を作った。彼はその周囲へ連射する。徐々に侵蝕していき、やがて侵入できるほどの大きさになった。彼は素早く空洞を潜った。
「来る前に用を済ませる」
この行為によって敵に察知されるかもしれないし、異常は一目で分かるが、背に腹は変えられない。一同は何も言わずリーダーに続いた。
中は広くがらんどうとしていた。円を象徴的に配置した滑らかな床。銀色と白の装飾が反射して煌めいている。円の間。神の啓示を受けるイエレアスを待つ9名の大祭司が控える場所。誰かが何もないと零すと同時に、カマルが眼前を指差した。
「扉があります」
ハイマート達はスライド式の扉へ、慎重かつ素早く進んでいった。ここも施錠されているかと思ったが、彼等が近づくと呆気なく口を開けた。ひやりとした清浄な空気が肺に入る。息を潜めて、一同は更に警戒を重ねて歩いていった。
900年に一度しか開かれないという救世の間。
一面が白に覆われた部屋。四方や天井にも窓がない簡易な空間で、想像より狭く感じた。眼前には祭壇が置かれている。襞のある法衣を纏ったアサナトの像が白石で形作られている。一同は無言で部屋を見渡した。イエレアスが神託を受ける間だというのに、想像より質素な場だった。見渡してもデータバンクの原因になりそうなものはない。リュヌは小型コンピュータを振って、疑いの眼でモントを睨んだ。
「本当に此処にメインコンピュータがあるの? 何もないよ」
「――奥に部屋があります」
代わりに答えたのはバドルだった。視界は虚空を見つめている。バドルは神の像に歩み寄り、背後に廻り込んだ。壁の一角にそっと触れる。
「此処です」
一見同様の白壁に見えるが、ヒラールはバドルの言葉を信じ、ヴァッフェを持ち上げて同様の処置をした。壁の向こうから現れたのは、一名が入れる程の細い通路。彼等は――特にモントは驚きの表情でその行先を見つめた。
奥に目を凝らしてみると、四方の壁面が黒いことが分かった。まるで空間を切り取り、存在を隠しているかのように。白に見慣れている彼等にとって、高面積の黒は強烈な違和感を引き起こした。ヒラールはユドラで先視しようとしているバドルに問い掛ける。
「何か感じるか?」
「生命体はいません。ですが、意思のようなものが感じられます……」
「何これ……。さっきまではなかったのに、膨大なデータがある」
リュヌはコンピュータを見つめて唖然としていた。いつ現れたか定かではないが、先程までは確実になかった情報。突然現れたデータバンク。カマルはそれを横目で見て、ごくりと喉を鳴らした。
「行くぞ」
ヒラールが先頭に、彼等は黒い通路を進んでいった。
この先にエスフェラを包括する何かがあると、彼等は漠然と感じた。突き当りにあった扉は透明だった。だが、暗くて奥の様相は伺い知れない。扉にはIDを打ち込む入力装置もない。ヒラールが眼前に立って、呟いた。
「開かないのか」
そう言った途端、扉は何も要求せずに無抵抗でゆっくりと開いた。微かな音を立てて上に移動していく。仲間達は注意深く侵入するヒラールに続く。中は暗闇が支配していた。
急にバドルの背筋に悪寒が走った。得体の知れない恐怖。未だ嘗て遭遇したことのない感覚。奇妙なことだが、ユドラでの意識の更に上から覗かれ、全てを見透かされているような感覚に陥った。仲間達はそれを感じている様子はない。
「暗いね……」
カマルのぼやきと共に、明かりが点いた。
薄明かりの中に浮かび上がる部屋。救世の間より狭い空間だった。壁一面が黒色で覆われている。此処と比べると、エスフェラでの寒々しく思われた場が華々しく見える。黒色の部屋はただ無機質であり、味気なく素っ気ない。固く冷淡な空間。深奥に何かがあることは窺い知れるものの、闇が蟠っていて真相は分からない。
「此処がハラムの心臓部なのね……?」
モントの呟きが吸い込まれていく。誰もがそれは独り言で終わると思っていた。だが。
返事があった。
『そう、此処は体制の中心』
全員の脳内へ声が響いてきた。それはユドラに似ていた。だが、バドルの声ではない。機械的な感情の欠落した声。
「誰だ?」
ヒラールの語気鋭い声に、一定調の声が答える。
『私は不滅であり中心。宇宙であり情報』
照明の照度が上がった。彼等は深奥に目を凝らす。
そこにあったのは、鈍く黒光りする機械だった。メインコンピュータとほぼ同じ大きさだろうか。星の如く球形をしており、その形状に沿わせて室内の奥は円状に広がっている。光沢を放つ黒い機体には金のラインが形を縁取るように入っていて、真球の下部からは黒い剥き出しの配線が伸びている。複雑で入り組んだそれは床や壁を伝って部屋半分を占領していたが、何らかの法則があるかのように綺麗に整列されていた。
その脇に、小柄な女性が立っていた。
一同は絶句したが、よく確認すると存在感は希薄で背景が透けて見えている。それはホログラムだった。コンピュータがその女性を作り出しているのだ。
腰下まである長く黒い頭巾を被り、肩を露出させた黒い長衣を着ている。何も心境が読み取れない無表情の顔の中で、薄明るい瞳だけはパンセリノスの輝きに似た光を放っている。姿形はファダーと変わらない。だが、異質さが感じられた。体内に深い神秘を宿しているような逸脱性。
その姿は、ファダーが崇拝しているアサナトとは明らかに異なっている。モントは絶望の声を漏らした。
「貴女が、アサナト神なの……?」
『真実であり虚偽』
「――どういうこと?」
『私は不滅であり中心。宇宙であり情報』
彼女は同じことを繰り返した。誰もがそれを把握できなかった。
モントは慎重に言葉を紡いだ。
「神は……データだったの……?」
『いいえ。神は思考中にのみ存在する。アサナトはファダーが創り出した偶像に過ぎない。データであるのは私』
ファダーが信仰していた創造神は偶像だった。その現実が突きつけられ、モントはショックを受けた。モントは返答に戸惑いながらも、心に渦巻いた疑問をぶつけた。
「――私に真実を教えて欲しい。私達ファダーは何者なの?」
ヒラールが「おい」と彼女を止めようとしたが、モントは小柄な女性を注視していた。
ホログラムは滑るようにモントに近付いていく。その瞳を見て彼女は絶句した。目は深淵を備えていて、広大な銀河が広がっているように思えた。彼等はその場から凍り付いたかの如く動けなかった。ホログラムは小さな手を掲げてモントの額に触れる。電流が走ったかのように身体を硬直させ、彼女はやわに頭を抱えて蹲った。ヒラールはホログラムに不解な気味悪さを感じながら、握り続けていたヴァッフェを苦労して持ち上げた。
「何をした!」
『あの者に、種族の真正について智慧を授けた』
切り付けるような声でヒラールは問うた。
「メインコンピュータの破壊を阻害させているのはお前だな?」
『はい』
「この体制を創ったのは?」
『肯定と否定。私はプログラムを実行しているに過ぎない。実行に移したのはタグイェル』
「お前が消えれば、社会は崩壊するのか?」
不穏な問いにも、彼女は無感情に答えた。
『はい。私は理想社会の基盤となっている。私が破壊されれば全ての動力は停止する』
彼等はその返答に息を呑んだ。あらゆる礎を成しているコンピュータは眼前にある。ヒラールが更に口を開こうとした時、横からリュヌが声を出した。彼女はコンピュータを握り締めながら震えていた。
「あんたが……僕達の基地を敵に教えたの?」
『肯定と否定。イエレアスが私に転送座標と次期イエレアスを問い掛けた時、貴女は私の内部に立入り、私は貴女にデータを授けた。コンピュータに情報が流入したのは副次的なことに過ぎない』
リュヌは怒りではなく恐れを顔に浮かばせた。仲間達は皆黙りこくっている。バドルは畏怖のこもった瞳で相手を見た。問いたいことがあったが口に出して言えなかった。ヒラールが機械の中心部に狙いを定めたからだ。
「猶予がない。これが総てなら、破壊する」
ホログラムは何も抵抗することなくただ静かに佇み、彼の行動を視た。表情を崩さず、身に起こる破滅を享受している。与えられた指令をこなすデータのように。個を持たない媒体であるかのように。バドルは静かにユドラで問い掛けた。
『貴女は……ユドラで〝宇宙〟を視ているのですね』
女性はちらりとその者に目をやった。
その瞬間、白き閃きは機体を撃ち抜いた。
☩ ☩ ☩
最初の異変は些細なものだった。
クスーフは一刻も早く追い付こうと、瓦解を消失させていた。後もう一歩であった。天井は大きく陥没し、灰色の空が広がっているのが見て取れる。
ふと、雑音が聞こえた。連絡機器に小さな違和感を覚える。嘗てそのようなことはなかった。メインコンピュータが損害を被った時も正常に作動していた装置。
クスーフは中央制御室にいる部下に連絡した。
「何があった?」
通信にざらついたノイズが入り、その声は聞き取りづらかった。
『把握できません。今確認させております』
次に返答したのは技術者のようだった。彼は明らかに気が動転していた。
『メインコンピュータが制御を失っています。データが消えていきます――。どんなにコマンドを押しても反応ありません。原因不明です! まるで自己消滅をしているかのような……。修復ができません。それにより全機器が不安定となっています。このままだと総てが消失してしまいます。おお、データが自爆している。順に失われていきます……アサナト神よ、我等を救い賜え!』
絶望の声を上げるエンジニア。雑多な音の中に、他の者の嘆きが聞こえる。
未だ嘗てない恐怖がクスーフを襲った。自らが盲信していた世界が、美しい繰り返しに満ちた世界が不変性をなくしていく。永遠の神話が、最高の技術が失われていく。得体の知れない混沌に覆われていく。
郊外を仰ぎ見て、クスーフは息を詰まらせた。微かに薄暗い。心なしか肌寒いように感じる。彼の首筋に一抹の大気の流れが触れる。ゆっくりと確実に変容していく世界。永遠の活動が回転を停止していく。時の経過で腐蝕するかのように遅々とした滅び。緩慢とした終末に、円が軋みを上げる。既成概念の崩壊、基盤の融解。常識の塔の瓦解。秩序が混乱に支配されていく。
部下は目的を忘れ、恐怖に右往左往していた。クスーフは理性に縋り付き、任務を軸に自己を保とうとした。
「静まれ! 神の御力を信じろ。使命を忘れたのか!」
その気迫に部下も己を取り戻し、作業に専念した。この原因はカーリドの仕業だと考えられるものの、部下の報告により中央制御室周辺には敵がいないことが分かった。確かに敵は自ら通路を塞ぎ、礼拝堂から抜ける道を閉ざした。今更敵の卑しい電子攻撃が効いてきたとも思えなかった。手段が解らない。先程は神の御力で防げられたというのに。
エーリス8区へ行った部下から通信が入った。クスーフが早口に情報を催促すると、部下はこのようなことを言った。
『カーリドの件。一体を処理に成功しましたが、もう一体を――』
「至急戻れ!」
クスーフは報告を遮り、怒鳴った。そんな下らないことを聴いている場合ではない。
『か、畏まりました。司令官、このノイズと天の異変は一体……』
「黙れ! 命令に従え!」
その剣幕に部下は謝罪したが、クスーフは聞いていなかった。通信を強制的に切り、眼前のみに集中する。ようやく彼等は瓦礫を撤去して開通を果たした。クスーフ達は障害物を跨いで礼拝堂深部へ走り込み、変事を探す。すると。
異様な場景が映った。
クスーフは愕然とし、現実に打ちのめされた。
彼はその聖なる存在を念頭に入れていなかった。余りにも尊く、特別な場所故に。
礼拝堂の内陣。祭壇の後方に奉られている神像の両脇に存在する荘厳な扉。右の扉に穴が空いている。そこへ続くのは最も位が高き者が入場を許される円の間と救世の間。そこに巨大な空洞が生じている。嘗ては装飾を施し、輝かんばかりの絢爛さを誇っていただろう。だが、それは瓦解し、同様に無残な状態と成り果てていた。
カーリドが侵入したのだ。
「不浄の落し子。異形の混沌。おお、神よ我等を御許し下さい」
敵に対する途方もない憎悪が込み上げ、クスーフの目は怒りに滾った。踏み荒らされた最高峰の聖なる土地。早期発見が成されなかった屈辱。何度も祈りと懺悔の言葉を呟き、彼はヴァッフェを握り締めて奥へ入った。
円の間に厳重な包囲網を張るように部下に連絡を送りながら、クスーフは悲憤で掠れる目を凝らした。美しい広間の床が赤黒い筋によって曇っているのが分かった。突き当りにある扉。この先はイエレアスしか入場を赦されていない聖域。完全を護る為に、禁を犯さねばならない。クスーフは大股で広間を横切っていき、扉の前に立った。施錠はされていないようだった。敵が潜伏しているなら深奥である此処だ。
天上の間へ続くスピラルにいるセリニ副官から連絡はない為、可能性は高いだろう。背後に何名かのエクェスが控えているのが感じられる。社会の不安定さの為か、部下の本来の能力が発揮されていないように思われた。彼等は落ち着きなく目線を動かしている。
クスーフはヴァッフェを握り、一気に救世の間へ身を入れた。
だが、敵はいなかった。白く清浄な広間はしんと静まりかえっている。気配はない。クスーフは注意深く部屋を見渡し、眼前に起立するアサナト像に深く頭を垂れ、祈りの文句を素早く唱えた。カーリドは既に異なる場所へ身を隠してしまったのか。それとも潜んでいるのか。彼は息を詰めて壁伝いに歩き、違和感を探した。すると、壁に空洞が生じていた。クスーフは戦慄した。救世の間の奥に伸びる黒い通路。白中にある黒がぱっくりと口を開けている。
第三の間。聞いたことがなかった。自らの呼吸がやけに早いのが感じられる。冷静さが離れていき、心臓が早鐘のように鳴る。クスーフは息を殺し、無残な入口から奥を覗き込んだ。細い通路の先は狭い室内になっているようだった。薄暗くてよく確認できない。奥に不明瞭な塊がある。機械の一部のようなものに思えた。クスーフが一歩、足を踏み入れようとした時。
突然、通信があった。
『司令官――……!』
副官からだ。その先は紡がれない。
クスーフは発作的に救世の間から飛び出し、円の間にいる部下を全て集めて礼拝堂へ戻った。吹き抜け部分の両端を見上げる。此処からだと変事が感じられない。彼は自動移動階段を使い、二階の吹き抜けへ駆け上がった。下方にいる部下達は焦燥の体で背後を追ってきた。
そこを進んで昇降機を使った先が、天上の間へ続くスピラルがある部屋となる。クスーフは機械に飛び乗り、一気に扉前まで来ると、声が漏れてくるのを聞いた。
「急げ!」「転送まで5秒」「機会は今しかない……」
何故いるのだろう。此処だけは遵守しなければならないのに。
「カーリドっ!!」
スライドドアに半ば体当たりをしながら部屋へ入り、クスーフは確認する間もなくスピラルへ向けて撃ち込んだ。突如、硝子の破片が此方に向かって飛んできた。不可視の光が当たり、硝子は消失する。防がれたのだ。
シャッターが完全に降りた。クスーフは構わずヴァッフェを二連射した。強固なシャッターに穴が穿たれ、粒子が舞っていく。クスーフは走り寄って内部を覗き込んだ。何者もいない。ただ転送盤と緻密な機器が並んでいる。
カーリド達は転送されたのだ。
床に倒れている白装束。皆絶命しており、中にはセリニ副官もいた。存在確認すら不可能な者もいた。
「司令官! これは……!」
クスーフは背後から現れた部下達を無視してスピラルを起動しようとした。エラーが起きている。本体が故障したのではない。シャッターの損壊エラーは解除されている。メインコンピュータ上にあるスキャン データはまだ生きている。ならば、何が原因なのか。
表示された内容を読み取り、クスーフは届かぬ声を張り上げた。
〝転送先に有機体あり〟
☩ ☩ ☩
地上の混乱とは裏腹に、大気圏上の儀式は粛々と執り行われていた。
イヨルティは佳境に入っており、ルーヌラは導き先へ向けて出発しようとしていた。アサナトの神像と祭壇は右へスライドし、長い通路が現出している。ルーヌラは両側に宇宙を従えながら、通路を緩慢な動作で進んでいった。その奥には装飾された移動用の小型宇宙船が控えている。既に9体の胎児はアルカに搭載された。養液に包まれた未来を担う申し子たち。真円の完璧の化身は輝き、栄光の未来を語っている。
彼女がアルカの眼前に立つと、自動的に搭乗口が開いた。これに乗り込めばパンセリノスへ誘われる。彼女は羽を大仰に広げ、頭を垂らした大祭司達に最後の挨拶をし、一歩進んで昇降機に足を掛けた。その時。
脳裏に、美麗で透き通った声が響いた。
『私は全てを統べる者』
ルーヌラは思わず平伏しそうになった。甘美なる全能者。アサナトの御言葉。出立間際になって、神は再びその奇跡を表して下さるというのだ。法悦に入ったルーヌラはその場に立ち尽くし、宇宙へ向かって話しかけた。
「御神アサナトよ。聖なる御言葉感謝致します。私は最も尊き教えに従い、貴方の懐へ委ねられようとしております」
『永遠性の申し子よ。真の心願は報われ、不変が確立される。エスフェラは悦びに包まれるだろう。今一度立ち帰り、子らに奉祝の祈りを』
「畏まりました」
ルーヌラは踵を返し、通路を厳粛な面持ちで戻った。大祭司達は予定にないイエレアスの行動に、不思議そうな表情を露わにした。
『円の中心へ。彼等に祝福なさい。等しく光を捧げなさい』
「アサナトの子らに永久の幸福を。無欠の喜びを。燦然たる御光は恒久に降り注がん。ユーラティオー」
ルーヌラは完全を象徴する紋様の中央に立ち、個々の顔を見ながら祝意を表した。大祭司達は疑問符が浮かぶ心を隠し、恭しく謝辞を返した。
『背後へ。円の線に沿って歩みなさい。円となれば完璧なる世界が約束されるでしょう。イエレアスよ、往きなさい』
ルーヌラは言われるがまま従った。均一な足取りで刻まれた円上を進む。彼女は右側の扉に近付いてゆく。その奥にはスピラルがある。彼女が優雅な動作で横を通り過ぎようとした時、扉がスライドした。そして。
中から影が現れた。
「動くな」
強い力で首を抑え込まれ、ルーヌラは甲高い悲鳴を上げた。状況を把握できないまま視界を凝らすと、頭部にヴァッフェが突きつけられている。束縛する者の右腕は手首から先がなかった。カーリドだ。
再びイエレアスは悲痛な叫びを上げることになった。一瞬にして法悦は霧散し、意識が遠のく。周囲は混迷に陥った。大祭司達は成す術もなく佇み、震える声で神の救済を祈った。開いたままのスライド式の扉から、次々と何者かが侵入してきた。彼等は警戒するように壁越しに移動している。ルーヌラは手放しそうになる意識を奮い立たせ、その者達に焦点を当てた。
数十体もいるだろうか。奇形者の集団だった。先頭にいた身体が歪んでいる者が、牽制するようにヴァッフェを構えている。その中に、一際目立った異形がいた。ぐったりとしていて他の者に支えられている。完全とは掛け離れた醜悪な姿。見るに耐えない奇形。余りのおぞましさにルーヌラは卒倒しそうになった。
カーリドの集団が右側の壁に寄った時、扉から飛び出して来た者がいた。
「ルーヌラ様!」
エクェスの司令官だった。ルーヌラは絶望的な視線をこの者に向けた。状況を把握し、クスーフは今にも即死しそうな表情を浮かべた。イエレアスは神に等しい。ヴァッフェを握り締めた手は震えており、顔面は蒼白で苦悩が滲み出ている。彼は引き金を引くことができなかった。ルーヌラはアサナトへ救いを求めた。先程まで得られた御言葉。だが、糸が切れたかのように何の返答も得られない。
「下ろせ」
カーリドは皮肉の篭った息を付いて司令官を睨み付け、圧力を掛けるように右羽を動かした。その羽にもヴァッフェが握られている。クスーフは緩慢な動作で武器を下ろした。
「動くな。仲間に向けたら撃つ」
カーリドはルーヌラを引き摺るように動かし、ヴァッフェを突き付けたまま後退した。広間はまるで何もかもが消滅したかのように静まり返っていた。宇宙の星々は無慈悲に煌きを発している。大祭司達は青白い顔で停止しており、遅れて来た数名のエクェスも苦悩の体でクスーフの指示を待っていた。
カーリド達は宇宙船へ通じる長い通路を歩いて行った。アルカは搭乗口を開けたまま待機している。遂に突き当たりまで到達し、ルーヌラを捕らえたカーリドが顎をしゃくると、他の者達はエクェスと目を逸らさないまま順番にアルカへ入っていった。その様相を煌々と照らしているパンセリノス。ルーヌラは半ば茫然とした体で状況を見ていた。忌まわしい現実が理性を麻痺させ、有り得ない事実が認識を拒否させていた。だが、最も不快な者がアルカに足を掛けた時、ルーヌラの目は覚めた。
忌むべきカーリドが神聖な儀式を打ち壊そうとしている。永遠性を踏み荒らし、砕こうとしている。もう少しで移動が成され、英知の結晶が奪われようとしている。このような惨事を見過ごす訳にはいかなかった。
ルーヌラは恐怖と嫌悪を押しのけ、イエレアスとしての誇りを叫んだ。
「司令官クスーフ、カーリドを抹殺なさい!」
エクェスの長は意図を察して呻き声を上げ、ルーヌラごと敵を撃ち抜こうとヴァッフェを持ち上げた。
「ちっ……!」
カーリドは右羽に握っていた武器を上げ、発砲した。クスーフの放った光線は床を穿っただけだったが、敵の発した攻撃は司令官の右腕に当たった。腕が吹き飛び、クスーフは勢いよく倒れた。
カーリド達はルーヌラを束縛したまま内部へ飛び込んだ。搭乗口が徐々に閉まり、外界と宇宙船を隔てる透明な防護壁が降りていく。エクェス達が殺到したが、強固な隔たりは無情にも締められた。これを破ると、真空の驚異が此方に襲いかかってくる。彼等はただ、絶望の眼差しで見ていることしかできなかった。広間を出て行った一名を除いて。
向こう側では空気が排気され、宇宙へ通じる巨大な門が開かれていく。銀色の美しい機体は緩慢に浮上し、滑るように宇宙空間へ進む。透明な防護壁に光が跳ね返って煌く。
カーリドを乗せたアルカは、パンセリノスへ向けて飛び去っていった。
☩ ☩ ☩
「追い掛けてくるかもしれない。急げカマル」
ヒラールはイエレアスに銃口を突き付けたまま、操縦桿を握る者に呼び掛けた。どの宇宙船にも攻撃機能は付いていないが、衝突されたらひとたまりもない。アルカには搭乗できたとはいえ、警戒を緩めてはならなかった。
「始めてのフライト、緊張します」
カマルは基地にあったアルカの操縦桿を動かしたり、シミュレーションを行ったりしたことはあっても実際に発進させたのは始めてだった。カマルは素早い手付きでオートからマニュアル操作に切り替え、最大スピードで進んだ。操作盤を見回し、カマルは悲しそうな声を上げた。
「これ、レーダーが付いていません」
通常の宇宙船は事故を防ぐ為にレーダー装置が付いている。それによって周囲の状況が把握できるのだが、このアルカは短時間フライトで特別仕様なのか設置されていなかった。リュヌは白銀の惑星へ目を細めた。
「肉眼で見るのは辛いね。――まだ追手はいなそう」
「直ぐに着きます。それまでの辛抱です」
カマルは自分に言い聞かせるように言い、口を窄めた。その反面、このアルカには重力制御装置が備え付けてあった。通常の宇宙船は無重力状態となるのだが、船内はエスフェラと同じ重力となっていた。パンセリノス内部も同様なのだろう。
ヒラールは横目で影の立役者を見た。
「バドル。よくやった」
モントの手を借りてバドルは狭い壁に寄りかかっていた。冷や汗が額に滲み、細い呼吸を繰り返している。衰弱は甚だしく、辛うじて意識を保っているのが感じられた。ここ数時間ユドラを使用し続けていた。敵への意識介入と神の成り代わりは相当な神経を使ったであろう。ルーナが気遣わしげに丸まった背中を撫でた。早くパンセリノスへ付いて休ませなければならない。
ヒラールは暗黒に散りばめられた星々に目線を移し、先程の出来事を思い返した。社会の中核を成すコンピュータを破壊して礼拝堂に出た彼等は、アサナトの神像の裏にある放射状祭室に隠れた。調査の手が此処まで伸びないだろうと予想しての行動であったが、それは半ば賭けであった。
エクェスの者達は彼等が開けた穴に気を取られて気付かなかった。また、世界に異変が生じていたようで、敵はうろたえた様子を見せていた。敵の多くは円の間に入っていき、頭上の警備が僅かに薄らいだ。それを見計らって、彼等は潜伏場所から飛び出し、一気に吹き抜けへ上がっていった。
天上の間へと通じるスピラルの周囲には6体のエクェスが立っていたが、社会の変容の影響からか急に現れた彼等に対処しきれなかった。ヒラール達はその者達を倒し、間際になって現れたエクェスを凌いで危ういところで転送を果たした。
移転後は敵の侵入を防ぐ為、カマルがスピラルの内部に立っていた。しかし移動直後にバドルがユドラで儀式の様子を視ると、このまま闖入しても間に合わないことが分かった。そこで一計を案じた。バドルの機転によって策は成功し、合図と同時に礼拝の間から天上の間へ乗り込んだ。
何年も夢に描いていた現実が目の前にある。脳は極めて冷静に回転していたが、ヒラールは気分が高揚するのを感じていた。
「神よ、我を救い賜え。不浄なる片端に天罰を与え賜え……」
ルーヌラは跪いて指を組み、ひたすら同じ文句を繰り返していた。半ば発狂しているのかもしれない。仲間の命を護る担保とはいえ、エスフェラに置いていきたかったとヒラールは思った。邪魔以外の何者でもない。
社会の頂点。アサナト崇拝。神は偶像に過ぎなかった。社会の真実を知った後では、皮肉にしか思えない結末。ルーヌラは最も憎むべき相手だが、無力な者を殺す気にはなれなかった。武器の扱い方も知らないであろう。故にヒラールは動向を見張りながらも、彼女を放っておくことにした。背後には9体の胎児が専用の容器に入って均等に固定されていたが、それもそのまま無視していた。完全体を憎悪しているリュヌでさえもその処置に対して何も言わず、存在を度外視していた。
彼等はただ、先を見ようとしていた。
最高速度で進んだ為、5分も掛からずにアルカはパンセリノスへ到達した。余りの巨大さにフロントガラス全てが光り輝いている。カマルはパネルを押しながら皆に伝えた。
「オートに切り替えます」
誤差は少しだった。小型宇宙船はやや右下よりに移動し、パンセリノスへ指令を出した。滑らかだった壁面に薄い切れ込みが生じ、搭乗口が迫り出してくる。その様子は完全から滲み出してきた異変のように見えた。
数分後、搭乗口が開いた。アルカは音もなく内部へ入っていく。薄暗い船内。瞬間、照明が付いて周囲を照らした。銀色の美しい内部が露わになる。アルカは自動で着陸を開始し、機械特有の形式張った動きで停止した。
「凄い! これがパンセリノスの中だ!」
リュヌが昂奮した様子で両手を広げる。彼等は成功したことに深い安堵感を覚え、パンセリノスへ入った時点で警戒心が薄らいでいた。搭乗口が閉まる直前に滑り込んできた一機のノーフに、彼等は気付かなかったのだ。
内部が密閉され、大気と重力で満たされていく。すると自動でアルカの側部が開き、九体の胎児が入った容器が動き出した。レール沿いに音もなく静かにスライドしていき、駐船室を抜けて広間の右側面へ滑り込むように装着された。これが終わると反対側面の搭乗口が開き、彼等に降りるように促した。
彼等は嬉々として先を争うように出た。バドルはモントに肩を借りながら降りていき、ヒラールは嫌がるイエレアスを降ろした。アルカに残したら操作されて飛び立っていってしまう可能性があり、そうなれば彼等がアルカを使用できなくなってしまう。ルーヌラは出て右側にあった個室に閉じ込めておいた。
パンセリノスの中央広間は広く、円の間の三倍はありそうであった。彼等の想像より煌びやかではなかったが、白銀で統一された内部は細かな部分で趣向が凝らされていた。正面奥はコントロールエリアになっており、巨大な操作盤とモニターが並んでいる。左右には別室へ繋がる扉があり、右中央には九体の胎児が設置されていた。磨き上げられた床には滑らかな透明の布が敷かれている。
カマルとリュヌは喜々として操作盤へ歩み寄り、矯めつ眇めつ見た。とにかく精密な機械類が所狭しに並んでおり、外部モニターは180度視界があって設定により背後の情景や分割して映すことができた。子供達は中央で座り込んで、次々に変わる景色を楽しそうに眺めている。数日前までは基地から出たことすらなかった彼等。ルーナは何名かの子供と遊び、モントはフォルを抱きながらバドルの傍に座り、穏やかな表情で仲間達を見ている。バドルも疲弊しきって壁に身体を預けてはいたが、嬉しそうに表情を綻ばせていた。ヒラールは物資の点検の為にあちこちを覗いていた。
「フォル、見て。私達の星よ」
モントはエスフェラが映っているモニターを指差した。無機質に塗り固められた白い星。二度と還らない拒絶された故郷。フォルは視覚的な場景に目を奪われ、笑顔で両手と羽を伸ばした。母の手を離れて彼はモニターに近付いていく。
突如、機械音声が一本調子に告げた。
『恒星間移動まで――あと三分。速やかに座席にお座り下さい』
彼等は顔を見合わせる。銀河を飛び越えて未知の領域へ転移する、恒星間移動。
いよいよエスフェラから離れて見知らぬ銀河へ飛来するのだ。本来ならイエレアスを乗せての計画なので、難しい処理も危険もないと思われるが、初めての事態に彼等は緊張した面持ちを浮かべた。カマルは難しい顔をしてリュヌに聞く。
「これって……メインコンピュータを壊したけど、大丈夫なのかな?」
「独立したバンクだから影響ないよ。エスフェラを離れても操作できているし。それに、恒星間移動にはスキャンデータはいらないと思う」
「あ、そうか。座標はどれかな?」
操作盤をまた覗き込もうとするカマルを、ヒラールが押し留めた。
「安全だと思うが、着席して待機した方がいい」
「……ねぇ、イエレアスがいない」
モントの言葉に、全員がはっとした。彼女の茫然とした視線の先。扉が開け放たれ、施錠部分に広い穴が空いている。紛れもなくヴァッフェの弾痕だ。ヒラールは鋭く叫んだ。
「その場から動くな! 身を護れ!」
『恒星間移動まで――あと一分』
パンセリノスが小刻みに振動する。移動の態勢に入ったのだ。ヒラールは武器を抜き、駐船室へ走ろうとした。
刹那、扉が開かれた。一斉に視線が集まる。
エクェスの司令官だった。
その者は凄まじく豹変していた。右腕は肩口から先がなく、羽も失われていた。切断面からは出血が夥しく、全身が朱に塗れていた。一同を血走った目で睨む。左手にはヴァッフェが握り締められていた。
「カーリド、死ね!」
その標準は、最も異型の者。
ヒラールが心臓へ引き金を引いたが、一歩遅かった。
「バドル!」
立て続けに閃く光弾。咄嗟にモントがバドルを突き飛ばす。火花が迸り、甲高いショート音が響く。バドルは倒れ込んだ。胸に神聖な光を受けたクスーフは苦悶の表情を残したまま崩折れ、徐々に消滅していった。血痕を除き、後には何も残らなかった。
激しい揺れが起こった。視界がぶれ、機械から断続的にスパーク音が出ている。この振動は明らかに異常だった。画面上にエラー表示が成されるも、一度された命令は消えなかった。恒星間移動が起こるのだ。
それに構わず、一同は掛け替えのない者へ走り寄った。
「バドル、死ぬな!」
俯せに倒れたバドルは意識を失っていた。右の羽が崩れかけている。分解の兆候だ。羽ならばまだ間に合う。ヒラールは目を強く瞑り、レーザナイフを抜いた。
「許せ……!」
それを根元へ振り下ろした。反射で痙攣する身体。辺りに赤が広がっていく。これで分解は抑えられた。直ぐに傷口を塞いで血を止めようとする。
その時、立ってもいられない重圧が押し寄せてきた。
ヒラールは無意味と知りつつも、バドルに被さって庇おうとした。意識が漂白されそうになる。脳が掻き乱され、自己が分解されるような感覚。掠れる視界で外を見ると、宇宙空間は高速回転しているように映った。目まぐるしく点滅し、線状の光が飛来する。皆も一様に頭を抑え、苦しんでいた。ヒラールが吐きそうな重圧に耐えていると脳内の回転が次第に弱まり、やがて自由になった。ルーナの呟きが船内に漂う。
「……終わったの?」
「そうみたい」
リュヌも強ばった声音で返した。ヒラールはバドルの容態を見て、ぞっとした。殆ど呼吸をしていなかったのだ。床には大きな血だまりができている。
「手当を!」
幸いパンセリノスに救命道具が置かれていた。ルーナが中心となり、仲間達は直ぐさま切断面を直接圧迫して止血を行った。床にぶつけたのか額からも出血があったので、手当を施す。化学的製法の血液製剤を投与し、微弱な呼吸を助成する。一連の救命を終え、彼等は刺激を与えないよう安静な場所へバドルを連れていった。ルーナはバドルの頬にそっと触れる。
「手を尽くしたわ。でも……危険な状態」
処置は迅速に行われた。だが、バドルの血の気は恐ろしい程に失せ、弱々しい心臓は辛うじて拍を重ねている。虚弱体質で力を使い過ぎた上に、この怪我だ。先程の移動の重荷も加わり、助かる可能性が低いことは明白だった。
ヒラールはバドルに目を向けたまま、モントに礼を言った。彼女がいなければ光弾が直撃していただろう。モントは「いえ」と首を横に振り、思い付いたように零した。
「……でも、エクェスの司令官はどうやって侵入したの?」
その言葉にヒラールは眉間に皺を寄せ、その者が消失した箇所を見た。駐船室へ続く扉を早足で通る。自分達が乗ってきたアルカは依然停められている。しかし、船の背部へ回り込んでみると床に点々と血痕が残っていた。考えられることは一つ。気付かれぬようにノーフで侵入したのだろう。ノーフはアルカの三分の一程の大きさ。アルカにレーダー装置が付いていなかったことを考えると、不可能なことではない。
エクェス司令官は幽閉されたルーヌラを助け出し、乗ってきた単体用宇宙船に彼女を乗せた。そして、残った司令官は使命を果たす為にバドルを撃った。
ヒラールは手を強く握った。迂闊だった。成功の油断が仇となった。バドルの警告を無意識に当てにしていたのかもしれない。彼は後悔の念に苛まれながらも、独り呟いた。
「今は、少しでも先へ進むべきだ」
ヒラールが広間に戻ってみると、現実に返ったリュヌとカマルが呆然と機械を見やっていた。
「さっきの攻撃で壊れたかも……」
放たれた光弾が操作盤の一部を直撃していた。金属が捲れ、回路が融解している。分解は途中で抑えられたようだが、画面の幾つかは黒くなり、エラー表示となっていた。外部確認ができるモニターには線が入り、途切れ途切れになっている。計測器も正常なのかが怪しい。リュヌはモニターとパネルを凝視し、幾つかコマンドを押してみた。反応はない。違う部分を押してみる。何も変化ない。
「駄目だ。完全にいかれている」
リュヌが青ざめた様子でパネルを叩いた。隣でカマルも恐怖に歪んだ顔で画面を見つめており、震えた声を出した。
「どうしましょう。現在の位置が特定できません。いえ、方向支持すらできません。幸い、生命維持の方面は問題なさそうです。……ですが、操縦は全く効かないです」
外装はどんな外圧にも耐えられるよう強固に設計してある。ただ、内面の考慮はされていなかったのだ。そこで始めてヒラールは宇宙船が恒星間移動したことを思い出した。
「移動は成功したのか?」
「分かりません。何処にいるかも、何処へ向かう予定だったのかも。違う銀河へ移動したのかもしれません」
座標は明らかに狂っていた。数字は高飛びしたり、逆戻りをしたりする。ルーヌラなら予定を知っていただろうが今やいないし、いたとしても問う気にはならなかった。
「修理はできそうか?」
ヒラールの問い掛けに、リュヌは気難しい顔をした。
「やってみる。でも複雑で、替えのパーツもないし……。ああ、もう!」
彼女は原子となった者を睨む。憎んでも憎み足りないくらいであった。操縦ができなければ漂う宇宙の塵と等しい。明確な意志も与えられず、永遠にさまようだけの亡者だ。
「でもさ、場所が分からなくても俺はあそこにいた時より断然良いと思う」
「そう。私達はエスフェラから抜け出せたのよ。――皆で」
カマルとルーナの言葉に、不満げながらも彼女は頷いた。誰もエスフェラに未練はなかった。とにかくパンセリノスは新しい場所へと彼等を運んでいるのだ。
ヒラールは広間に座り込み、深く息を吐いた。どっと疲れが襲ってきた。嘗て心底から安心したことがあっただろうか。心配事は数多あったが、長年思い描いていたことが実現し、パンセリノスは彼等を乗せて宇宙を飛んでいる。その事実が頭を巡り、全身が脱力していく。失われた右手が疼き、鈍く脈を打った。
隅の方でフォルと共に座っていたモントはやわに此方へ歩み寄ってきた。ヒラールが面を上げると、思い詰めた表情の彼女は口を開いた。
「……ねぇ、聞いて」
「なんだ?」
「私達、ファダーのことなのだけど。いえ、エスフェラかしら……。とにかく、全員に聞いて欲しいの」
ヒラールは詮索せず、皆を呼び集めた。カマルとリュヌは顔を見合わせつつも、中央の円に座り込んだ。バドルの様子を看ていたルーナは片手を上げ、その場所で聴覚を研ぎ澄ます。物心付いた子供達は首を傾げて彼女の話を待った。
モントはフォルをあやしながら、話し始めた。
「救世の間の奥。社会の根源であり、アサナト神であると言った女性の姿を持ったコンピュータデータ。私はその者に、真実を知りたいと言った。アサナト――いえ、メスィは私に触れ、ファダーの真実を知らせた。私は彼女に、知識を与えられたの」
静まり返る船内。誰も口を挟もうとしない。頭を抑え、モントは低い声で話し続けた。
「何処から話せばいいのか……。メスィは全ての情報を私に与えた。ファダーの由来に関する全てを。何処から発祥し、何があってこのようになった経緯を。これは推測に過ぎないのかしら。過去を夢想しただけ? いいえ、これは現実。まだ信じられない。この知識は本当に私達の過去だというの? 彼はエスフェラを創った。彼女の智慧を使って。9体の胎児。そこから始まったファダー。神話と同じに。でも違う。アサナト神はいない。神事なんてない。全ては彼が行ったこと。私達は意図的に創られた存在だったの?」
彼女の呟きの意味を誰も汲み取れなかった。顔をしかめ、ヒラールは息を付いた。
「順を追って話せ」
フォルを撫でてからモントは立ち上がり、行きと戻りを繰り返した。話が莫大過ぎて容量を掴めず、彼女は物事の始めから話し始めた。
「……無機物ばかりの小惑星で有機体が生じた。何故こうなったのかは知らない。無からの有。たった一つの有。微細なそれは果てしない流れの間に緩慢に分裂していき、鉱物の中で静かに息衝きだした。まだ生命体とも呼べない至極単純な物体。ただの分体する細胞の塊。やがて、ばらばらに存在していたそれらは生命の構成物質として目覚め、徐々に複雑な体系を象っていった。細胞は個々の役割を見出した。細胞のコロニーに過ぎなかったものは再び統合されようとしていた。それらが育っている間に、小惑星は流れ流れて惑星に衝突した。衝撃は激しいものであったにも関わらず、それらは生き延びた」
此処でルーナが口を挟んだ。
「エスフェラへ?」
「いいえ。確か――フォラーズという名。惑星にはそれらと同レベル程度の固有生物が存在していた。小惑星内部に付着していた生命体は時間を掛けて惑星に適応し、数を増やしていった。小惑星の割れ目からそれらは這い出し、大気に触れた途端、格段に成長スピードを上げた。生命体として機能し始めていた細胞群は体内の社会体制を構成していき、秩序だった編成を作り出していった。その生物は固有種と共に育った。単純な生物から始まり……より高みの生物へと。此処辺りは簡略するわ――恐ろしい程の時間が経っているの。把握しきれないくらいに」
モントは歩行の向きをかえて話を続けた。
「とにかく小惑星から飛来した生命体は年月を経て、より高度な結び付きを行い、動きやすく、新陳代謝が行える身体を手に入れ、大地の窪み――洞窟と言うようだけど――で暮らし始めた。この頃には私達と殆ど同様の姿をしていた。そう、生物は私達の姿形に変化していった。生存の為に固有種を栄養源にして、薄暗闇の中を羽で滑空して生活していたようなの。視界が不十分な場所で危険もあった。だから眼球が三つとなり、ユドラが発達した。ユドラは視覚を補う為のコミュニケーション手段。私達が使えるのは、その残滓だと思う。ファダーがまだ〝進化〟を経ている段階の名残。進化は良く分からない単語だけど、きっと環境変化によって適応していく力――いえ、代を経る中で生命体の形質が変わっていく現象……かしら」
モントは自らの羽を横目で見て、口を動かした。
仲間達は混乱し気味の表情をしている。
「彼等は多種多様な生物がいる中を生き延び進化していった。高度な意思疎通を覚え、様々な道具を利用することによって課題を解決していった。固有生物は命を脅かす存在ではなくなり、天敵はいなくなった。やがて彼等は惑星内唯一の知的生命体となった。それに勝る生命体はいない。彼等は洞窟から身体を出し、惑星の頂点に立つ者として協力して文明を興した。しばらくの間は上手くいった。だけど、様々な弊害が生じるようになった。同じ細胞群から産まれた同士。それなのに個体差が生まれ、思考の隔たりが露わになってしまったの。鮮明に思い出せる――」
苦しそうな表情を浮かべ、彼女は言葉を探しながら紡ぐ。
「同種族間の争い。世界は混沌に覆われた。――エスフェラと全然違う。対立が激化し、融和することは叶わず互いを傷付け合った。始めはまだましだったわ。一部の諍いはやがて全土に広まった。一部の者が財産を抱え込み、それを奪い合った。戦いが蔓延し、武器が生活圏を蹂躙し、大規模な殺戮が行われた。劣悪な環境。一般者は省みられずに貧困に喘いだ。物資が激減して不衛生となり、微細な細菌が原因で多くが命を落とした。常に死が隣にあった。誰もが苦しく無慈悲な死に怯えていた。ああ、見るに耐えない光景ばかり。完璧な秩序は何一つない。不動の循環は捻くれている。建物は崩れ、地は穿たれ、空気は毒に侵された。大部分の者は他に疑いを持ち、自分の立ち位置を気にしていた」
リュヌは眉根を寄せ、首を傾げた。
「どういう意味?」
「他の者より自分が上に立ち、支配したいという欲求。意のままに操りたいという欲望。入手したいものは力尽くでも手に入れる。国――分からない単語だけど、区と似ているものだと思う。――は分裂し、互いに土地を奪い合った。惑星は共有の財産であるのに……。国の支配者は時によって変動する。確定はない。エスフェラのように平和的継承ではない。大概他の者が頂点を蹴落とし、権力を横取りした。その為に多くの同族を死に追いやろうとも。死は死を呼び起こし、収拾が付かなくなった。実際、彼等は己の欲望の為に有害な兵器を開発して大量死を生み出した。挙げ句の果てには無害な民衆を巻き込んで。中にはそれを楽しんでいる者さえいたの」
仲間達は気分が悪そうに口を引き結んだ。
リュヌもその思想を理解できないように不快を露わにしている。想像の範疇を超えていた。彼等は自己防衛や目的の為に命を奪うことはあっても、無意味な殺害を望んでいなかった。成り行き上、彼等の行動はエスフェラの社会を崩壊させることに繋がった。だが、大量死は彼等の意図することではなかった。
モントは話を進めた。
「とにかく、彼等の行為により惑星フォラーズは荒廃したわ。全ての命が削られていった。誰もその戦いを止めようとしなかった。いえ、止められなかった。最も混乱していた時期に、彼と彼女――タグイェルとメスィは生きた」
此処で一旦区切り、モントは周囲を見渡した。
質問が飛んでこなかったので、話を再開する。
「メスィは特殊な能力を有していた。彼女に内包されているあらゆる智慧を――いえ、媒介しているのかしら。どちらにせよ、それを少しだけ分けてもらえるの。彼女に質問をすると、どのような問いでも正しく返答した。また、その手で額を触られた者は知りたいと思った智慧を授けられた。接触するだけで、あらゆる知識を与えられるの。理由は分からない。一種の突然変異ではないか、とタグイェルは推測していた。私は何らかのユドラを使用しているのだと思うけれど、確かなことは分からない。メスィはただ智慧を伝えるだけで、自らを語らない。基本的生活はしても意思はない。自己を持っていないの。受け答えはできる。けれど、何事も機械的に行われる。何も表さない。何も感じない。何も考えない。受動的で、問いがあれば答えるだけ。相手に智慧を授けるだけの存在。それは余りにも異質で他とは常軌を逸しているわ。但し、予知的なことはできない。未来は語れないの。返答はあるけれど、支離滅裂な言葉となる。彼の予想では、未来は無限の可能性の中から現実として選ばれるから、真実を語れない――と言っていた。答えが得られるのは過去のことや専門的技能、様々な事象における見解、またはその実用的な理解。私に授けられた智慧も驚くべきものだった。まるで何もかも眺めていたかのようなの。脳裏にファダーの過去のあらゆる情景が閃光のように映った。一瞬で全ての時を見つめていた。客観的な目線で。本当に不思議。メスィが知らないことはないと確信できる――。なんとなく、バドルのユドラと類似しているような気がするわ。彼女は――私達ファダーの観念で言ったら、カーリドということになるのでしょうね」
此処まで一気に言い切り、モントは息を吸い込んで続きを始めた。
「タグイェルはある理想を抱いていた。決して乱れることのない不変社会を造ることを。彼はこの混沌と死に満ちた星が耐えられなかった。粛正された世界を望んでいた。でも、その大望は不可能なことだった。この惑星の文明水準はエスフェラよりかなり低い――殺戮兵器はあるのに、宇宙船すら開発されていなかった。スピラルもない。マラークもイクトスもない。彼等は管理されることなく数を増やし、食糧を奪い合っていた。食糧難の地もあって、飢えで亡くなる者もいたのよ。分け合えばいいのに……。コンピュータはほんの初歩的な計算でも施設を占領した。通信機器は発達しておらず、覚束なくなったユドラを使う方が早かったくらい。大容量の機器類ですら夢のまた夢であった彼等は、恒星間移動なんて想像すら付かなかったでしょうね」
真剣な顔付きで聞き入っている仲間達に目をやり、モントは手と羽を後ろ手に組む。
「タグイェルはメスィと出会い、彼女の異質な能力を知った。試しに彼は機械を彼女の言った通りに設計した。コンピュータの心臓部は指程の大きさになった。驚異的なことだった。次に、彼はデータ容量を増やす方法を聞いた。大きさはそのままで、コンピュータは数千倍の容量を得た。タグイェルは彼女の能力を利用して、理想社会を形作ることを思い付いた。彼は自ら思い描く社会を現実に表そうとした。彼女の手から智慧が移行されることに気付いた彼は、益々その知識に執着した。フォラーズは始めから見捨てるつもりだったみたい。彼は一から、何もないまっさらな所から社会を作りたがっていた。戦いの起こらない、永久的に続く非の打ち所のない世界を。彼が必要とした理想実現の智慧を彼女は授けたわ。彼はそれを利用して、あらゆる問題を解決していった。高度なコンピュータを開発し、転移装置や浄化槽システム、天候の制御、遺伝子の操作、細菌類の選択と死滅、食糧カプセル、老朽化しない様々な施設の設計を行い、宇宙船だって創り上げた。果てには引力や重力など星の運行も制御し、恒星間移動の原理と方法も会得した。全ての知識的障害はメスィが取り払った。志を同じくする者達との協力を経て、計画は着実に進んでいき、彼の目的は完璧に再現可能な段階となった。でも、中に彼の計画を快く思わない者がいた。その者は国のリーダーに密告した。タグイェルは国を脅かす不遜な者として追われ、同士は殺された。その時に、メスィも」
リュヌが咎めるような口調で言った。
「おかしいよ。中枢制御を担っていたのがメスィだったんじゃないの」
「エスフェラにいたのはスキャンデータよ。彼女の肉体はフォラーズで死んだわ。彼女の智慧を使えばデータから肉体を再生することも可能だったかもしれないけど、彼はそうしなかった。全てはデータ化され、彼女はコンピュータに内蔵された」
仲間達は納得できないような表情を浮かべていたが、構わずモントは言葉を続けた。
「タグイェルはアルカを使って逃走した。国の者は勿論追えなかったわ。双方の技術的格差は開きすぎていた。彼はメスィのデータを内蔵したコンピュータと、遺伝子操作を加えた9体の胎児を連れていた。――私達の祖先。理想に適った進化を行わない不変の遺伝子。それらを彼はファダーと呼んだ。彼は恒星間移動を行い、銀河を飛び越えた。目的地はかねてから決めていた惑星――エスフェラよ。彼はそこへ降り立ち、大規模な改革作業を始めた。礎は殆ど決められており、後は着手するだけだった。アルカに多くの開発品が乗せられていたし、メスィという膨大なバンクに入れられた設計図があった。それを元にして、彼は着々と事業を進めた。此処も初期のフォラーズと同じでごく単純な生物が生息していたようね。土着の固有生物を全て死滅させ、体内で共生する有益な細菌は残して、病を引き起こす有害なものは尽く滅菌された。平坦な地へ降り立ち、後のハラムとなる建造物を建てた。共に降り立った9体の胎児は育てられ、後に彼の作業を手伝った。足りない智慧はメスィのデータによって補われ、改革が進められていった。自然現象も管理下に置かれ、どのような災害も姿を消した。大地も削られ埋め立てられ、広大な水を湛えていた窪地も白石の平地となった。不変の空を生み出す為に技巧の照明や遮光を作り、昼夜の区別は消えた。温度も改変を加えられ、重力でさえも調整された。その徹底的な変更で、星の働きは彼の意のままとなった。マラークやアポストル、ファクル、イクトス、ラウフ、ノーフやアルカ工場、アルツナイ工場などの建築物を建て、土地の連結にスピラルを設置していった。近隣の三惑星も理想実現に利用した。マラークと9体の性細胞によって、次代の者が産まれた。彼等はアポストルでタグイェルの教えを受け、事業を全土に拡張していった」
徐々に一同の表情が固くなってくる。
この長大な話の先が予測できるのだろう。
「完全で構成された計算し尽くされた社会。目的の達成が確実となった折、彼は老齢で亡くなった。彼は自らをデータ化しようとしなかった。その代わり、9種の遺伝子の中に彼のものがあった。メスィのコンピュータは二度と目に触れないよう、入口を閉ざした。必要部分はメインコンピュータにデータを移行させ、何かがあればメスィが補助するよう設定した。彼の死後もファダー達はその言い付けを順守した。住居や連結、施設を拡散し、コンピュータ通りの世界を設計し、同じ遺伝子の者達を増やしていった。何の疑問も持たず。それを真実と盲信して。――当たり前よね。産まれた時からそう教え込まれたから。私達はこの社会しか知らなかったのだから」
モントは悲しげに目を伏せ、長く息を吐いた。
話もそろそろ終着点に付きそうであった。
「時間を経るにつれて、ファダーは彼に〝神〟を見出すようになったわ。自分達を導き、完璧な惑星に据え置いた者。初めは種族の頂点として崇拝されていた。けれど、長い時が経って彼の正体を知らないファダーは、いつしか彼を神とすり替えてしまった。神格化された彼はアサナト神として祀られるようになった。恐らく、アサナト――不滅は彼がよく用いた言葉だったのね。また、社会基盤であるコンピュータは神の御陰であるとし、彼と神とメスィを混同してしまった。メスィのコンピュータの付近を聖域として崇めるようになり、宇宙全土をアサナト神の住む場とした。彼が亡くなって約1000年後、アサナト信仰が本格的に惑星に広まり、彼が中心の場として建築した場所は最も広大な神の信仰の場となった。区の連絡拠点であったファクルは教会に姿を変えた。900年後には最初のイヨルティが催された。その頃にはタグイェルとメスィの存在は完全に忘れ去られていた。彼が故意に証拠を消したからだと思う。過去を払拭して跡を残さず、永遠の不変が確立するように。ただ彼の偉業と思想だけが根付いた。それからは私達の知っている歴史よ。約5000年の完璧な社会が続き――ある時不具者が産まれた。神が据え置いた理想社会に欠陥はあってはならないから、排除する。――そうファダー達が思うのも無理はないわね。でも……」
モントは彼等を見て、静かにこう言った。目には微かな悲しさが宿っていた。
「エスフェラは、完全者がカーリドを利用して創ったとも言えるわ」
周囲から逸脱している異質な者。その能力を使ってタグイェルは自らの理想を果たした。8000年以上隠されていた遥かなる過去。その真実は、社会から排斥された者のみが知り得たのだ。
「私達は故意に創られた存在だった。総てに手を加えられている理想社会。確かにそれによって幸福は長く続いた。フォラーズの状況は悲惨で、余りにも耐え難い。あのような状態が正常とは思えない。けれど、私達の立場も――。やっと分かった。私達の立場も異常よ。私達は余りにも……そう、生命体としては不変すぎる。制御されすぎている。混沌と秩序。何が正しいかは分からない。いえ、そのようなものはないのでしょう。理性の枠組みが固定化されていたとしても、総ては生命の流れから起きた事象。どちらにせよ、私達は循環の中にいるのだから」
モントは悟ったような呟きを最後にして口を噤んだ。
しばらくの間皆は黙り込んでいたが、リュヌが口火を切った。怒りを含んだ声音を発す。
「じゃあ、どうして僕達が産まれたの? それに気に入らない者を消すなんて、前の惑星とやっていることは同じじゃない。それの何処が理想社会? おかしいよ!」
「確実的な答えはないわ。タグイェルさえも予期していなかったことだと思う。複製される遺伝子であっても、変質は起こる。進化が起こるということは。彼が予測できなかったことをファダーが対処できる筈がない。彼等は排除するしか方法が見つからなかった」
モントの落ち着いた返答に、彼女は納得できないように両羽を腰に当てた。横からカマルが新たに質問をする。
「フォラーズはどうなったんですか?」
「分からない。メスィはその過去まで見せてくれなかった。滅びたかもしれないし、まだ争い続けているのかもしれない。手を取り合って新しい社会を作り出している可能性もあるわ。けれど、混沌は簡単にはなくならないでしょう」
ルーナはバドルの手を握りながら、ほっと一息付いた。
「……本当に抜け出せて良かった。私達の居場所はエスフェラになかったから」
モントは一つ頷き、尚も憤りの感情を見せているリュヌに話し掛けた。
「貴女の御陰よ。貴女がメスィのコンピュータを探らなければ、きっと作戦は成功しなかったと思うわ」
聞き方によっては皮肉にも取れる言葉。リュヌは一瞬口角を下げたが小さく肩を竦め、微笑みを浮かべた。
「あんたが思い付かなければ、どうなるか分からなかった」
モントは彼女の心理的障壁がようやく融解したのを感じた。両端にそびえる垣根は取り払われたのだ。密かに目を周囲に配らせると、彼等が此方に向ける瞳は優しかった。
遥か彼方の惑星へ、モントは思いを馳せた。
「エスフェラはこれから変化が起こっていく。私はこれで良かったと思う。――けれど、一体どうなるのかしら」
ヒラールは背後の瞳でちらりと外界を見やり、素っ気なく返した。
「さぁな」
ルーヌラは司令官が搭乗したノーフへ乗り、今頃母星へ還っていることだろう。秩序が崩壊した世界。スピラルは寸断され、胎児の生誕は管理できない。他惑星の循環システム、温度と気候変換、建築などあらゆるものを再建しようにも、メスィが遺したデータはない。与えられたデータは消滅し、今ある残骸を材料にして一から創り上げることを余儀なくされる。
忌み嫌う混沌へはまり込む哀れなファダー達。突然降り立った者によって完全な秩序を与えられ、段階を知らない者達。与えられたものだけを真実とし、自らの創造を放棄した者達。
もう二度と完璧な社会を形成できないことは容易に想像された。ルーヌラは変わり果てた故郷を知って、どう思うのだろう。次代のイエレアスはどう治めていくのだろう。
惑星を離れた彼等には、知りえないことだった。