ワ・タ・シ・ハ・コ・コ・ヨ
『私はここよ……』
暗闇の中に、声だけが響く。
それは、今にも消え入りそうで頼りない。
『私はここよ……』
男は、目を覚ました。
「どうした? 元気がないじゃないか」
社内の廊下で同僚に肩を叩かれて、木下祐司は恨めしそうに首を回した。
「最近、変な夢を見るんだよ。おかげで……寝不足」
「へぇ。どんな夢?」
「う~ん。それがさ、暗闇の中で、声だけが聞こえるんだ。『私はここよ』って、女が繰り返して言ってる夢」
社員が行き交う中、同僚は妙な笑みを浮かべて、祐司を小突いた。
「それ、昔の女かなにかじゃないのか? おまえがフラれて、未練が夢になったとか?」
「まさか。やめてくれよ」
不機嫌に言ったものの、ここ何日か、同じ夢に悩まされている祐司はやはり元気がない。
大体、フラれるもなにも、女と付き合ったことがほとんどないのだ。
中学生の頃にクラスメートになった友人の方が女性に人気があり、大学四年まではいつも、その友人を含めた男四人で遊んでいた。
友人は大層モテていたが、自分たち三人は、あまり女っ気がなかったのだ。
今、付き合っている彼女は、もちろん社会人になってから知り合った。
「眠いけど……。食欲はあるんだよなぁ」
「なら、一緒にメシ、行こうぜ。俺、出るとこだったからさ」
同僚の目の高さに、祐司はビニール袋を上げて見せた。
「今、買ってきたとこだったんだけど」
「じゃ、それは夜の分だ。行こ」
強引な同僚に、眠い目を擦りながら祐司は後に続いた。
『私はここよ……』
暗闇のなかに、二つの光が見えた。
『私はここよ……』
光が、少しずつ大きくなってくる。
いや、そうではない。
近づいてくる。
その時、電話が鳴った。
「もし……もし?」
寝不足の上に、夜中の電話かよ……。
重そうに体を捻り、祐司が電話に出ると、聞こえてきたのは友人の一人だった。
『祐司、大変だ。琢磨が死んだ!』
「たく、……ま……?」
って、誰だ?
「琢磨……? 死んだ?」
眠っていた意識が唐突にはっきりと戻り、飛び起きる。
「死んだ? どうして?」
『詳しくはわかんねぇ。俺も、今聞いたところだ。四郎が警察に行く前に電話をくれたんだよ』
「警察?」
『自殺の可能性があるらしくて、呼ばれたって』
「なんで四郎が?」
『多分、琢磨の親父の会社で働いてたからだと思う。未だにツルんでたし』
「そうなのか?」
知らなかった。
もっとも、それも当然か。
大学最後の夏休みが終わったころから、祐司は琢磨たちと距離を置きはじめていたからだ。
別に、ケンカをしたわけではない。
ただ、その頃から琢磨たちに違和感を持った。
今、電話で話している忠直と四郎が、琢磨に擦り寄るように見えたのだ。
その時は、就職のことで琢磨に媚を売っているのだと思っていた。
なにしろ、琢磨は中堅の会社の息子だ。
友人たちがコネで就職を希望していたとしても不思議ではなく、琢磨も持ち前の優しさで、なんとか力になろうとしていたようだった。
祐司自身は、琢磨に頼ろうとは思わなかった。
結果、ケンカをしたわけではないが、何となく疎遠になっただけである。
「忠直……。その……なんて言っていいかわかんないけど……。知らせてくれてありがと。詳しいことがわかったらまた、教えてくれないか。すぐに会いにいくから」
『あ、ああ。真夜中にすまなかったな』
「いや。こっちこそ……。まだ友だちと思ってくれてたのが嬉しいよ。……って……不謹慎だったな」
『相変わらずクソ真面目なやつだよ。って、俺も不謹慎か』
辛い知らせなのに、自然と笑いあって電話を切った。
“……自殺……?”
冴えてしまった頭のなかに、忠直の言葉が蘇る。
中学の頃から人気があった琢磨が?
社長の息子だということを鼻にもかけず、明るくて優しかったあいつが?
“自殺……。……なにかに悩んでいたのか? 琢磨?”
琢磨の自殺は確かだった。
ただ、遺書の類いはなかったらしい。
葬式のあと、祐司は久しぶりに忠直と四郎に会った。
楽しい再会、とはいかず、重い空気を間に挟んだまま、目についた居酒屋に入る。
最初、三人の口調は重かった。
それでも、何年かぶりの再会は、中学の頃からの思い出話がきっかけで次第に緩んでいった。
「四郎、琢磨はなにか悩んでたのか?」
酒の助けもあり、ようやく祐司は切り出した。
再び、四郎の表情がしんみりと、沈みこむ。
「悩みっていうか……。不眠症に近かったみたいなんだ。多分、ノイローゼだったんじゃないかな」
「ノイローゼ……。なんでまた……」
「なんか、変な夢を見るって、言ってた。それが毎日だったから」
「夢だって!?」
思わず声が上ずった祐司に、二人が眉を寄せる。
「どんな夢だったんだ?」
目の前の器を乱暴によけて身を乗り出した祐司の目は、真剣そのものだ。
逆に、問いかけられた四郎が背中を仰け反らせた。
「な、なんだよ? そんなに怖い顔して」
「……あ、……ごめん。ちょっと……」
と、言いあぐねたものの、もう一度同じことを問いかける。
四郎は、雰囲気に気圧されながらも、ポツポツと話しはじめた。
「最初は、女の声が聞こえてたって言ってたんだ。毎日、暗闇の中から声がするって」
「その声、何て言ってた?」
「『私は、ここよ……』って」
『私は、ここよ……』
「僕、最初からかってたんだ。琢磨、モテるから、悪いことのひとつや二つ、やってるんじゃないかって」
それは、長年付き合いのあった四郎だからこそ言えた冗談だったのだろう。
すかさず、忠直が否定する。
「あいつはそんな奴じゃなかっただろ? 金持ちを鼻にかけることだって、一度もなかったようなやつだったじゃないか」
「それは……そうなんだけど。……確かに、最初は琢磨も笑って受け流してたよ。でも、毎日、同じ夢を見続けるって、おかしいじゃないか。それで……だんだん元気がなくなっていったんだ。そのうちに会社も休みがちになって……」
忠直と四郎のやりとりが、祐司には遠くの会話に聞こえた。
“同じだ……。俺と同じ夢を……”
一体、あの夢はなんだ?
“そういえば……”
「なあ……」
呆然と、二人の話を聞いていた祐司の呟きに、会話が止まる。
「おまえたちはそんな夢、見たことなかった……のか?」
妙な問いかけに、二人が顔を見合わせて頷く。
祐司は、震える手で顔を覆った。
「なんで……琢磨と俺なんだ……?」
「……え?」
「俺も、見てたんだ。その夢」
「なんだって?」
「けど……。考えてみたら、琢磨が死んだことを知らされた日から、見なくなった。……一体、あの夢はなんだったんだろう……」
『私はここよ……』
結局、その日はそれ以上の会話が続かなかった。
四郎と忠直は二人でこそこそと耳打ちしあって、申し合わせたように解散になってしまったのだ。
祐司には、彼らの心情がわかった気がした。
別れ際、おまえも気を付けろ、などと声をかけて帰っていったが、彼らは間違いなく、祐司と琢磨のなにかを疑ったのだ。
琢磨が死んだ日からちょうど一ヶ月後、祐司の元に一通の手紙が届いた。
差出人は━━
「琢磨?」
表には、日付指定のスタンプが押されていた。
焦る手で封を破り、中身を取り出す。
『木下祐司様』
手紙は、そこから始まっていた。
『突然のことですまない。本当なら、死ぬ前にもう一度くらい会いたかったが無理みたいだ。
だから、こうやって君に書き残すよ。
これは、遺書だと思ってくれ。
君は忘れてしまったかな?
十二年前のひき逃げのことを……。』
“ひき逃げ……?”
十二年前……。
記憶を呼び起こすように視線をさ迷わせ、祐司はあっ、と声をあげた。
“思い出した”
そろそろ高校受験のために、二人で本屋に行った帰り道で、ひき逃げの瞬間を目撃したことを。
もちろん、すぐに救急車と警察に連絡をした。
あの日は、けっこう長い間、警察で事情を聞かれたのだ。
すぐに、手紙に目を落とす。
『最近、変な夢を見るんだ。
最初は女の声だけだった。それが、ある日、二つの光が見えてきて、僕に近づく。それが何日も続いた。そして、先日から夢が変わった。
女が言ったんだ。
私はここよ。私は名取美冬……ここに来て……』
“名取……。そうだ、確か、そんな名前だった”
『僕がひき逃げしたわけじゃないのに、もしかしたらとり憑かれたのかな?
なんで僕なのかな?
でも、もう、そんなことはどうでもよくなった。
これから死のうと思ったら、なんか、気が楽になって、最後に君に伝えておきたかったんだ。
僕は恨まれる覚えはないけど、彼女のところに行くよ。
できれば、君も、彼女の墓参りにでも行ってあげてくれ。
最後に、僕は君との友情を忘れていなかったよ。本当に、君に会いたかった』
「琢磨……!」
今になって……!
祐司はその場に泣き崩れた。
十二年も前のことだぞ!
なんで今、なんだよ!
悔しそうに、祐司は何度も、床に拳を打ち付けた。
ある意味、遺言のようなものだ。
琢磨の最後の頼みだ。
祐司は、休暇をとって実家に戻った。
友人の死に気落ちしている彼を両親は気遣ったが、生返事をしただけですぐに、当時事情を聞かれた警察に向かった。
まさか、夢にとり憑かれたとは言えなかったため、十二年前の目撃者として気になっていた、という理由を持ち出し、名取美冬の家族に会おうとしたが、とりつくしまもなく追い返される。
しかたなく図書館で、当時の新聞をあさり、住所を探しだしただけで一日を費やしてしまった。
翌日、花を買って、彼女の家に向かった。
対応に出たのは、父親だった。
「あの……おれ……いえ、私は木下祐司と申します。十二年前、あなたのお嬢さんのひき逃げを目撃した者です」
言った途端、父親の顔が変わった。
「あ……あんたが……。そうですか」
泣き笑いのように顔を歪め、父親は安堵したように深々と頭を下げた。
「よかった……。やっと……やっと礼が言える……」
「礼……?」
「どうか、娘に線香をあげてやってください」
通された仏壇の前で、長い間、祐司は手を合わせていた。
「娘はひと月前に息を引き取りました」
「……え……?」
ずっと、生きていた……のか?
「ひき逃げのあと、娘は植物状態でした」
「そう……でしたか。それはご苦労をなさって……」
「いえ。どのような状態であれ、娘は十二年、生きていられたんです。苦労ではありませんでした。それに、半年ほど前にやっと、ひき逃げ犯も捕まえることができたと知らされました」
「……」
祐司は、返事もできなかった。
犯人が捕まったのは朗報だったに違いない。
だが、娘を植物状態にされた、この父親にとって、手放しで喜べることではなかっただろう。
父親は、そこでふと、思い出したように言った。
「そういえば……。捕まったことを報告してから、娘は時おり、何やら口走るときがあったんです」
……まさか……
「医者はありえないと首を捻っていましたが、やはり同じ言葉を何度か……」
『私はここよ……』
「娘の最期は、穏やかなものでした。微笑んで死んでいきました。多分、あんたがたに礼をいいたかったんでしょう」
久しぶりに、祐司は夢を見た。
暗闇の中に、声だけが響く。
『ありがとう』
それは、手塚美冬が最期に言いたかった言葉だったに違いない。