八 ハルの花嫁
【八 ハルの花嫁】
***
まばゆい光に目を細めつつ、羽瑠は兄たちが来る前、暗紫から聞いた話を思い出した――
「羽瑠は、すごいね」
すごい?と首を傾げる羽瑠に苦笑し、暗紫は言う。
「佐助のこと。よく気づいたなぁと思って。さすがは、鴉の姫の娘、だね」
羽瑠は曖昧に答え、うなだれた。
この屋敷にまつわる話はすべて聞いた。
歪に歪んだ空間のわけも、彼のことも、そして両親の過去も……
すべてを嘘だと言い切るには、あまりに現実的すぎて。
暗紫がなにを考えているのか知らないが、羽瑠はただ、悲しく感じる心に首を傾げた。
しかしなにを勘違いしたのか、彼はにっこり笑って的外れなことを言う。
「大丈夫、僕が【媒介】も【生贄】も務めるから。なにも心配はいらないよ」
そのときはどういう意味なのか知る由もなくて。
知りたいとも思わなかった。
胸騒ぎがした。
呪いは順調に解かれていったはずで。
それなのにどくどくと心臓が脈打ち、足元から冷たくなって、ぞくりと悪寒が走った。
――なにかに狙われているような。
そのとき、最後の最後に、五芒星の中央で暗紫が囁きた声がなぜかハッキリと羽瑠の耳に響いたのだ。
「生贄は、僕だ」
瞬間、目が合った。
儚げに笑う彼の顔。
先ほどまで感じていた悪寒は瞬時になくなり、それらは一気に暗紫の元へ向いているような気がした。
羽瑠は悲鳴をあげて手を伸ばす。
伸ばさなければいけない気がした。
――止めなければ。
暗紫の元へ駆け出すときには既に、理解していた。
夢で幾度も会った、紅い目をした少年のことを思い出したから……
ああ、そうか、と。
彼は兄の姿を借りた、その魂の欠片の主――喜助、なのだと。
夢で言われた台詞を思い出す。
『――を解放してやって』
え、と聞き返す羽瑠に、今度こそ、はっきりと通ったガラガラ声が告げる。
『布癒を、解放してやってくれ。きっと那都はそれを望むだろう。喜助は、もう、自由なのだから』
ゆっくりと、唇は弧を描く。
『屋敷の主のことは、おまえに任せよう。《呪いの悲劇》の避け方は、その記憶に入れてやる』
紅い目の少年は、八重歯を出してニカッと嗤う。
『よろしく頼むよ、姫の娘――羽瑠』
羽瑠なれば、きっと、死ぬ必要もないだろう。
だからそれまで、しばし待て。
時は必ず訪れる。
――すべての欠片が集まりし時、それは呪縛から解放されるのだ――
* * *
「魂の統合……?それは……つまりどういうこと?」
欠片を戻し、再び分かつということだ。
「欠片がばらばらになったままじゃないの?」
いや、ちがう。
魂は修正されたのだ。
割れるべくして別れた魂は、悪しきものとなるが、浄化して天に還り、再び現の世に戻ることは常の理。
なんらおかしいことはない。
「ふぅん、つまり、喜助の魂もマヨナカさまの魂も鴉の魂もみーんな一度天へ還って、再び那都たちに溶け合うってことね?『天へ還る』ことをせずに欠片となったから『呪い』に作用していたってことね」
まぁ、真実は複雑なのだが……それでも、間違いではないだろう。
「わかった。それじゃあ、わたしは行くね」
――暗紫を迎えに。
*
闇のなかに彷徨う青年の姿を見とめ、羽瑠はめいっぱい腕を伸ばした。
無重力のなかただ漂っている彼はそれこそつかみどころがなく、羽瑠に気づかず遠のいていく。
「暗紫!」
声を張り上げる。
何度も、何度も呼ぶ。
それでも彼の眼はぼんやりとしていて焦点があっていない。
挫けそうになりながらも、羽瑠は奥歯を噛みしめて声を発した。
「ねえ、暗紫。あなたは孤独だと言ったわ!でも、ねぇ、わかる?」
伸ばした腕は、彼の着物の裾を掴んだ。
力いっぱい引き寄せようとするも、再び見えないナニかによって離される。
「教えてあげる。わたし、わかったの――」
無反応な無感情の顔に向かって、羽瑠は涙をこらえて訴えた。
「孤独を知っていることは、絆を知っていることよ。暗紫、あなたは――」
儚く笑った彼の顔が頭から離れない。
どうしてあきらめたの。
どうして受け入れたの。
――【生贄】はわたしだったのでしょう?
「――あなたは、絆を知っている人よ。あたなが生まれてきたわけは、これからたくさん知る機会があるわ!」
「……は、る……」
ふ、と。
陰っていた瞳にわずかな光が宿る。
羽瑠は何度も彼の名を呼んだ。
少しずつ、覚醒する青年。
瞳をあけ、こちらに腕を伸ばす。
――つ、と。
ふたりの指先が触れ合った瞬間、まばゆい光がはじけ飛んだ――
次に目をあけたとき、ふたりは『屋敷』の一室に座っていた。
ぱちくりする羽瑠に反して、暗紫はぽろぽろと瞳から大粒の涙をこぼしていた。
仰天して羽瑠が声をかける前に、暗紫は震える声で切々と語る。
「僕は……『封じ』のために生まれてきたと思ってた。でも、どうしてか生き永らえてしまった……」
それは、喜助の気まぐれか。ただの偶然か。
「でも、他に役割があるなら、と……鴉の主を務めたけれど、君と出逢った。『呪い』が解かれるなら、【生贄】が必要だから……こんな僕でもいいなら、と。そう思ったんだ」
絶対に羽瑠にはやらせたくなかった、と彼は言う。
「もう僕は『主』じゃない。その役目も君のお母上に返した。だから僕の役目はもう終わり、世に戻る理由もないって、そう思ったのに――」
何故迎えに来たの。
羽瑠と暗紫の距離はちょうど人ひとり分離れていた。
その距離を保ったまま、ゆっくりと羽瑠は声を出す。
「なぜって、わからない。だけどわたしは、あなたと生きてみたいと思ったの」
言ってから、羽瑠は己の感情を知った。
不思議な、変わったこの青年を、もっと傍で見てみたいと思った。
知っていきたいと思った。
「あなたはわたしを助けた。それに理由はあるの?」
「それ、は……」
大きく目を見開き、呆然とする暗紫に羽瑠は目を細めた。
「わたしと、生きてはくれないの?」
しばし瞠目した暗紫。
やがて、すっと着物の袖をひき前へ身を乗り出して、彼は顔を近づける。
そして羽瑠の手をとり、軽く力を込めて握った。
「覚悟はあるの」
そして、懇願に近いささやきを落とす。
「獏はもう、手放せそうにない」
彼の頬にはうっすらと涙のあと。
声はかすれ、瞳の奥には不安の色が宿っている。
突然のことに驚いた羽瑠は、しかしいったん目をとじ、軽く息を吐いてから、ゆっくりと顔をあげてほほえんだ。
答えはすでに、決まっているのだから。
暗紫はそのままがばりと羽瑠を抱きしめ首筋に顔を埋める。
どうしたの、と尋ねれば、泣いた顔を見られては情けないと小さな声で答えた。
「ふふ、今更ね」
「本当に……。ああ、でも――僕は君に会うために生まれてきたんだね」
「そう。これからも、一緒にいるために、生きていくの」
ともに歩もう。
それがどんなに暗く出口の見えない闇だって、きっと光があると信じていける。
ふたりならば、孤独になるはずなどないのだから。
*
帰り道を教えてやろう。
耳のピアスが示す光に従ってゆけばいい。
紫のそれと、おまえの兄の赤がともに惹かれあって導いてくれるだろう。
「わかった。ありがとう。でも、あなたはだぁれ?」
――さぁ。
名前なんて、とっくの昔に捨ててしまったけれど。
ヒトはいつでも、好きに呼ぶ。
だからおまえも、好きに呼ばばいい。
「そうなの。それじゃあ、考えておくわ」
……さあ、もうお行き。
暗紫がおまえを待っている。
それに……おまえの母も、父も、兄も、みんなが帰りを待っている。
「……さようなら――鴉の――」
――鴉、の――
* * *
数年後、若君が花嫁とともにひっそり静かに生涯をとじ、彼らの娘が屋敷の主となったのは、また別のお話……