七 ナツの陣
【七 ナツの陣】
***
屋敷に立ち込める、闇と光。
矛盾しているようで、それは正しかった。
突如地に浮かんだ五芒星の陣。
やがて周囲はどっぷりと濃い闇に包まれた。
瞬間、陣から無数の光が飛び出す。
強すぎる光は、肌を突き刺した。
五芒星の頂点に、それぞれ円が描かれている。
ひとつに那都と龍楼、ひとつに薬丸、ひとつに布癒、ひとつに呉蓮、ひとつに佐助とそれを肩にのせる羽瑠。
そして中央にひとり、暗紫。
他の者、つまり朱楽や深水は陣の外にはじき出されている。
背後で「那都さまぁ~」となんとも情けない従者の声が聞こえたが、那都は無視して目の前の光景に集中する。
暗紫という男。
警戒したが、それほど危険な男ではないと那都は心のどこかで思っていた。
ただ、羽瑠がいることに、むしろ彼女がなにもわかっていない表情でいることに憤りを感じた。
なぜ思い出さない?
なぜ屋敷の主は教えてやらない?
否――知らぬのか?
そこまで激情した瞬間、そっと肩に触れてきた冷たい手、布癒の手に、なぜかほっとした。
まるで己の感情ではないものが暴れていたようで、気持ち悪い。
けれどそんなことなどおくびにも出さず、那都はともかく、さっさと忌まわしき『呪い』というものに取り掛かった。
隣にいる龍楼も、妹の方にいる佐助という鴉も、その存在に身体中の血を巡り歓喜していた。
本能よりもっと奥深く、魂の宿命とでもいうのだろうか。
まるで欠けていたなにかを補うように。
喜助、という男の魂の欠片が自分たちに分配されたということはわかる。
布癒がいわれのない罪のために呪いにさらされていることもわかる。
この歪な空間の『鴉の屋敷』が、異様な気配を放っていることも、わかっている。
だから一石二鳥。
すべての呪いも、憎しみの連鎖も、根源ごと断ち切ってしまおうというのだ。
那都には怪しむ気力などなかった。
己の身体が、心が、これに従えと言うのだから。
『【器】【理】【結】はそろいし時』
『巡る呪縛を解き放て』
中央の暗紫が呪文を唱える。
光と闇は呼応し、五芒星の陣から立ち上がり、塊の玉となってはじけ飛ぶ。
『狂気を【器】にて浄化し』
『解放を【理】によって許す』
『すべてを【結】が継ぐ繋ぐ』
心臓が熱い。
那都は己の眼が興奮に赤く色づくのを悟った。
傍らで龍楼が膝をつくのが視界の端に映ったが、那都自身も立っているのがやっとだ。
どくどくと心臓は脈打ち、脂汗が浮かび、光と闇の入り混じった塊が風を起こし五芒星を描いている。
ふいに、見えない糸に引っ張られ、心のなにかがもぎ取られた。
思わずうめき声を上げてその場にうずくまり、心臓をかきむしる。
熱い頭のなかの一部冷静なところで、周囲に悲鳴や叫び声が満ちているに気づいた。
そして那都は己の口からも痛みに対する悲鳴が出ているのを知る。
どれくらい経ったろう。
『ハジマリへ戻せ!』
そんな呉蓮の声が聴こえたと思えば次の瞬間。
『赦そう』
と朗々とした声が轟いた。
地を震わせるほどの大音響のあと。
那都は耳元でささやかれる、やさしいガラガラ声を聴く。
『赦そう』
刹那――音も光も闇もない世界が現れ、時が止まる。
呪いは解かれたのだ、と本能的に悟った。
同時に。
「主はここだ」
陣の中央から――暗紫の声が聴こえた。
とても小さな、けれど強い声音が。
「生贄は、僕だ」
あ、と思う間もなく、一気に風が渦を巻いて五芒星の端から飛び立ち、中央へ襲いかかる。
そのままの勢いで角度を変えて天へ昇って行った。
妹の悲鳴だけを、妙に生々しくその場に残して。
*
「……か、母さん……?」
ふ、と薄目をあける。
目の前に漆黒の瞳をした見慣れた顔を見とめ、那都はかすれる声で呼びかけた。
母はゆっくりと頷き、那都の額に冷たい手をのせる。
誘われるように、目をとじた。
とてつもなく身体はだるく、睡魔が襲ってきて勝てそうにない。
頭もどこかぼんやりして、まるで夢のなかのよう。
けれど耳だけはしっかりと周囲の音を拾っていた。
『やぁ姫。久しぶりだね』
「朱楽も……」
『大丈夫なのかい、屋敷に近づいたりして』
「屋敷なんて跡形もなく消えてしまったけれどね……」
母と、鴉の会話だろう。
苦笑した母の声はつづける。
「喜助がね、導いてくれたの。きっともうすぐ、夜呂と……心配した高安も来るはずだ」
『へぇ。あのニンゲンたちも久しいな』
カァカァと、鴉は笑い声をあげた。
『それで、アンタは我が子が心配じゃないのかい?もちろん、娘の方だけど』
「もちろん心配。だけど、信じているんだ」
どうして五芒星の陣に、今回の呪いには関係ない羽瑠が入っていたのか。
那都もどこかで気づいていたのかもしれない、と自嘲的に思う。
けれど『喜助』という者の魂の断片が大丈夫だと断言するから、那都はそれに従うしかなかった。
呪いはたしかに、解かれたはずだ。
けれどそのあとはどうなったのだろう。
皆は無事なのか、羽瑠は、深水は、布癒は……無事なのか。
那都の心に苛立ちが募る。
けれど身体は非情にも言うことを聞いてくれず、ぴくりとも動かない。
『ああ、姫。たしかにアンタは喜助の妹で、鴉の姫だ』
「それから鴉の主、よ――」
ドタドタと、激しく煩い足音がする。
同時に地面も振動し、那都は目をつむったまま顔をしかめた。
「那都!」
「那都さまぁあ~!」
「こら、おまえは大人しくしてなさい」
声はいずれも聞き慣れたもの。
父と従者・深水、息子を諌める父の従者・高安の声だ。
「よっよかったぁ!まさかみんな死んでしまったのではと……この深水、那都さまの後を追う覚悟でございました……」
「ったく、おまえは昔から突っ走るクセがある。主を護りたくば、まず己の精神を――」
「これ高安。説教は勘弁してやれ。……鴉姫、那都の様子は?」
「意識はあります。ただ、呪いの解放に膨大な体力と精神力、そして魂の力を使ったようだから……しばらく安静にしている必要があるみたい」
そうか、という父の声とともに、その場に静寂が訪れた。
ややあって、父は問う。
「羽瑠は、どうした」
「あのこは……今、狭間にいるの」
狭間?
那都は疑問を口にしたいのに、唇も舌も喉もうまく起用してくれず、問いかけることもできない。
悶々としたさなか、母は言う。
「時間の狭間、生と死の狭間――暗紫を、迎えに行ったのよ」
そして淡々と告げた。
「本当は呪いを解くには【生贄】が必要で、それが姫の娘である羽瑠だったの。けれど『精神世界』で会った暗紫は笑って……心配はない、――――――と、言ってた……」
――だからわたしは、【主】を務めに来たの――鴉の姫はそう締めくくる。
真実はとても残酷な運命を鮮明に表していたけれど。
母の声にどこか喜ばしい色を感じ、那都は深い意識の淵まで下りて、そっと妹につぶやいた。
ああ、羽瑠。
必ず帰ってこいよ。
*
「姫、心配はございません。この暗紫、【媒介】も【生贄】も、両方努めましょう」
だからどうか、残ったモノのことをお願いします。
屋敷の暴走を修正し、運命は輝いているのだと……そう、皆にお伝えください。
僕の運命は、ここで終わってしまうけれど。
それでも、あのこが生きてくれるならば喜んで。
喜んで【媒介】も【生贄】も引き受けましょう。