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暗黙の了解、というものがある。
知りたいが聞いてはいけない、口にしてはいけないと了承し、みなが律儀に守っている事柄。
幼いころからそれを敏感に感じとっていたのは、なにも羽瑠ばかりではない。
事に関しては深水よりも、だれより先に問いただしそうな那都のほうが不思議なくらい口を閉ざしていた。
兄はいつも、粗野だとか飄々としているだとか、他人の心に土足で踏み込むような豪快な男だと思われがちであるが、彼はだれより繊細さを持ち合わせている。
すくなくとも羽瑠はそう思う。
普段は押し隠し垣間見ることさえかなわないが、ふとした瞬間、彼は遠くの虚空を焦がれるように見上げるのだ。
そうしたときに限って、彼の眼は赤く色づく。
気持ちが高ぶると色を為す眼であると思われているが、実は深い心情に関係しているのではないかと羽瑠は思った。
強い好奇心、激しい怒り、深い悲しみに焦がれてやまない郷里の念……。
そのまま鳥になってどこか遠くにいってしまいそうで、怖かった。
兄はなにを求めているのだろう。
本当はどこへ行きたいのだろう。
なにを、知っているのだろう。
何度も口に出して尋ねてしまおうかと思った。
けれどその度に、羽瑠のなかでの『暗黙の了解』が働く。
これは聞いてはならない事柄だ、と。
あまり動きのない表情の下、羽瑠の心は多彩な感情の色であふれていた。
「君はなにも聞かないんだね」
だから、そう青年がなんでもないふうに言ったとき、羽瑠の心臓はどきりとした。
はじめから答えなど期待していなかったのか、彼は問うたまま手際よく茶を煎れる。
きれいな手だ。
なめらかで、形のよい青年の手が、さらさらと物書きでもするかのように茶を煎れていくさまは目を引く。
「どうぞ」
「……ありがとう」
茶柱のたった、仄かに甘い香りのするお茶だ。
一口含み、飲み下す。
旨い。
ふと視線を感じ目をあげれば、期待に顔を輝かせこちらをうかがう青年の姿があった。
今、自分は常のように無表情であろうことは羽瑠にだって容易に想像できた。
彼はまるで気を悪くしたふうもなく、こちらの言葉を待っているものだから、羽瑠はたと動きをやめ、まじまじと見返す。
そうか、とひとり納得して、咳ばらいのあとに口を切った。
「とてもおいしいわ」
「よかった」
どうやら正解だったようだ。
途端に青年の顔は先程以上に明るくなる。
「じゃ、僕の話を聞いてよ」
唐突に、そう言われた。
青年は幼子のような無邪気な笑みを見せ、羽瑠の真向えに腰を下ろす。
「鴉の子は……彼らは人とはちがい、凶暴で純粋。普通の烏じゃない、特別な屋敷の鴉だよ」
わかる?と尋ねられたが、羽瑠は曖昧に頷くことしかできなかった。
要するに、この屋敷にいる鴉は特別ということだろうか?
それなれば、先ほど口をきいた烏がいたことからもそれは納得できる。
「屋敷の烏はね、本当はもっとたくさんいたらしいんだけれどね。とにかくまぁ、いろいろあって、今僕の知っているのは二羽だけだよ」
お茶を一口ごくりと飲み込み、ふっと目を細め、遠くを眺めるようにぼんやりしながら彼はつづけた。
「この屋敷の主になってからさ、気づいたことがあるんだ」
羽瑠は黙って先をうながす。彼は漆黒の瞳を和らげ、つづけた。
「屋敷の主は封じの存在。一瞬の呪いを生かしながら殺す役目……それはとても辛いようだけれど、実際は拍子抜けするくらい穏やかなんだ。とてもとても穏やかで――」
言葉を切り、暗紫はさみしそうに視線をはずしてから言葉を紡ぐ。
「――孤独」
さらさらと、一陣の風が屋敷の周りに立つ木々の葉を揺らす。
そこにはたったひとりで、どこか暗くやさしいだけの世界に取り残された少年の姿があった。
けれど羽瑠がまばたきした次の瞬間には、すでに彼の表情に陰りはなく、無邪気なものに戻っていた。
「それで、そもそも屋敷の呪いとはなにか。呪いならば解けぬのかと考えたんだ。幸運なことに僕は『マヨナカさま』の誕生秘話を知っていたし、時間はたっぷりあったから」
羽瑠は、青年の話を聞きながらも、いくつもの疑問が頭をもたげてきた。
『夜呂』という父の名を知っているのはなぜ?
母を『姫』と呼ぶのは?
どうして烏の『佐助』は『兄』と同じような気配がするの?
――この人は、いったいだれ?
「だからね、僕は考えたんだ……」
ねぇ、君は知っている?
喜助はどうして姫を助けたのか。
そこに感情はあったと思う?
姫はどのように受け取ったのかな。
僕はどうして屋敷の主になったのか、理由ははっきりしているんだ。
封じとしての役目が僕の生きる意味で、だからてっきりマヨナカさまの暴走とともに死ぬものだと思っていたのに生きていたんだ。
なぜか、わかる?
そう、鴉の王――喜助に救われたんだよ。
どうして彼は僕まで救ってくれたんだろう……ただの気まぐれかもね。
意味がわからないって顔をしているね。
でも、この場所で過ごすときっとわかってくると思うよ。
僕もそうだったもの。
「ところで、どうやら僕の周りは時の流れが他より緩やかみたいなんだ」
再び唐突に話を変えて青年が口を切った。
「もし本当に君が姫と夜呂のこどもならば、僕はもう五歳……八歳くらい、年老いているはずだもの」
君は十六、七くらいだよね?と小首を傾げて尋ねる彼に、羽瑠はますます混乱する頭で頷くしなかった。
夢をみているというよりは、まるで狐に化かされているような気分になる。
「僕の周り、というよりは屋敷の周りが、なんだけれど。つまり、ここで一日過ごして家にかえると、なぜか三日経っていたり……そんなことが起こるみたいなんだよね」
とたん、羽瑠はぎょっとして目をまたたいた。
といっても、もとより動きにくい表情であるため、他人にはそれほど動揺しているようには見えないのだが。
しかし青年はにこりと笑って「でも、僕も不思議な力が備わっているみたいだから、すこしならその影響も抑えられるよ」と言う。
「もともと屋敷の周りは歪な時空間だからね。いじって押さえておけば数日間はその歪みの影響を受けなくなるんだよ。こんなことも出来るようになって、僕も成長したってことかな?」
「そ、そうですか……」
「うん。まったく理解できていないみたいだね」
気を悪くしたふうもなく穏やかな表情のまま青年は頷き、まあいいや、と再び話題を変えた。
「先ほど……僕は自分が『封じ』のためだけに生まれてきたと言ったけれど……喜助の気まぐれで生かされたのだろうか、なんて言ったけれど……本当はね、ちがうんじゃないかと思うんだ」
羽瑠は、いろいろな疑問を考えるのをやめて、じっと青年を見つめた。
黒い瞳に翳りと光が同時に垣間見えた気がして、すこし落ち着かない。
「僕には、いまだ終えていない役目がある――そう、思う」
彼は、己をこの不可思議な屋敷の主だと言っていた。
そして、呪いがあるといっていた。
鴉の王が喜助であるなら、それは双子の兄・那都の魂に関する人物であるというのはわかる。
兄は……那都は、時折夢を見ては「鴉の王が」とつぶやいていた。
羽瑠は、己がこの屋敷に導かれたのだと、ようやく悟った。
なぜか足はこの地へ進み、無意識に目指していたのには、理由があったのだ。
「マヨナカさまは魔世という少女の歪んだ心がはじまりだった。彼女を好いていた少年の意志を受け継いだのが屋敷の主という役目。つまり、いまだ彼らの心は晴れず呪縛に苛まれているんだ」
青年は、真剣なまなざしで述べる。
「ねえ、もし君が運命を信じるなら……僕を助けてくれないだろうか」
いつの間にか、見つめられた眼はそらせない。
羽瑠は「はい」と諾を言う。
青年はしばしきょとんとしたあとで、柔らかく笑った。
自分から頼んでおいて承諾に驚くなどおかしなことであるが、彼の摩訶不思議な願いに即答した己も随分なものだと羽瑠は内心苦笑する。
だが、後悔はない。
これが兄に関係していることなれば、自分は知りたいと思う。
そして、彼が――目の前の青年が望むならば、力を貸したいと思ったのだ。
「はじめから話すよ」
僕の知っていること、朱楽から聞いたこと、すべてを――
ゆっくりと口をひらいた青年。
「改めて、名は暗紫。元幼皇帝、現鴉の屋敷主――僕は、暗紫」
あんし、と。
羽瑠は彼の名を、舌の上で転がすように、小さくささやいた。