四 若君―ハルの花嫁―
懐かれるぬくもりに
花が散ったら 約束しよう
~花筏~
【四 若君―ハルの花嫁―】
***
それはほんの出来心だった。
自由奔放な兄を見習ったわけではないが、ちょっとばかり退屈していたのは事実。
両親からは「いつも真面目に考えすぎだ」と言われつづけ、それでも自ら動こうとしたことはなかった。
決められた道、決められた運命、それをただ歩いていくことに不満はなかったから。
兄が飛びぬけて自由人だったこともある。
父は国を治める主として日々活躍し、たくさんの人間を従えるにふさわしい立派な人だ。
母はそんな父を支え、いつもあたたかく見守っていた。
ただ、ふいに、本当にときどき、ふいに寂しげな顔をすることがある。
それは昔を懐かしむ表情に似ていて、目にするたび心がぐんと痛む。
母は孤独の人だ。
父を愛し、こどもを愛し、幸福にまみれた生活を送っているけれど、それでも、闇を抱きともに歩もうとする孤独のヒトだ――羽瑠はそう思っている。
だから、いつも一歩目が出ない。
新しいこと、はじめてのことに進もうとする意欲は、萎えるようにかき消える。
けれど――
この日、どういうわけか、ふいに思い立ったのだ。
わたしも、外の世界を見てみたい――ひとりで、知らない世界へいってみたい、と。
こどものころから、こんな童謡を聴いている――
山の奥にいくな。
鴉の子にさらわれる。
暗がりへいくな。
鴉の子に食べられる。
屋敷に近づくな。
鴉の子に殺される。
二度とは戻ってこれなくなるぞ……
はじめはただの噂だった。
それがいつしか畏れをともない戒めとなって歌われるようになったのだ。
たしかに、幼いころより聴かされてきたこの『戒め』は恐ろしい。
いつもの彼女ならば好んで近づくことはしないだろう。
けれど、この日だけはちがったのだ。
突き動かされるがごとく、惹かれたのだ。
ためしに足を向かわせてみた。
行くあてなど他になかったから。
空は曇天に包まれ、今にも降り出しそうな気配がする。
けれど、羽瑠は足をとめることはなかった。
急かされるように草木をかき分け、ずんずんと進む。
はじめて訪れる場所なのに、羽瑠の足は憶えていた。
この道を、この空気を、この場所を。
脈々と受け継がれた血が、記憶が、魂の欠片が知っているのだから。
ふいにひらけた空間に出た。
剥き出た岩肌、流れる砂地、そして広がる庭園……。
どっしりと構えられた館が忽然と姿を現した。
「あ」
気づけば涙を流していた。
ほろり、ほろりと雫となってこぼれたソレは、次第にとめどなくあふれ、どっとせきを切ったように流れてくる。
胸がぐんと引きつけられ、熱く、アツく鳴いている。
――わたしは、ココを、知っている――
なつかしい、という感情。
それがどっと押し寄せ、羽瑠はただ、泣いた。
――突然だった。
ぽん、と戸惑いがちに、あたたかな手が頭上に置かれたのは。
びくっとして顔をあげる。
泣きじゃくっていたせいで他人に見せられた顔ではなかったが、そんなことに気づく間もない。
黒い瞳と目が合う。
闇をたたえた、漆黒の眼だ。
「……大丈夫……?」
とても柔らかい声。
ひどく怯えているような気がする。
いや、むしろ歓喜に震えているのだろうか?
漆黒の瞳の持ち主は、ひとりの青年だった。
男にしてはやや華奢で、とても肌が白い。
これまた黒い髪が、その白い肌を引き立てている。
羽瑠は内心、驚いていた。
兄のような激しい内面を持ち合わせている男とよく接してきたせいか、目の前の青年がとても弱々しく見えたのだ。
加え、どちらかといえば可愛らしい顔立ちをしている青年。
自分のような無表情よりよっぽど柔らかくて、うらやましいと羽瑠はそんなことを思う。
「めずらしい」
二言目には先ほどの震えなど感じさせぬほどの声。
ぱっちりと目を見開き、二、三度瞬きしたあとで青年はゆっくりと言葉を発した。
信じられないものを見るように、けれどどこかうれしそうにこちらに目を向けてくる。
たとえば、どこにでもあるような大根を、だれも触れたことのない宝石でも見るように。
たとえば、とりとめのない言葉を、焦がれてたまらない人から囁かれたかのように。
そんな大層なわけではないのに、彼は羽瑠をまるで奇跡的な生き物とでも思っているかのように見てくる。
そうして、羽瑠の一挙一動に興味津々なのか、じぃと目を離さないのだ。
感情の読めない無表情と名高い羽瑠であったが、このときばかりは少々たじろいでしまった。
「あの、あなたは……」
「ああ、ごめん。僕はこの屋敷の主」
この屋敷、と示された屋敷は目の前に堂々と構えているうつくしい屋敷である。
思わず惹かれてのぞき込むように首を伸ばせば、青年は苦笑した。
「あがっていきなよ。庭園でも案内するから」
そう言い出し、羽瑠の返答など待たずにゆるりと歩きはじめる。
警戒することも忘れて、羽瑠はそのまま彼のあとを追った。
庭園には様々な植物が植えられていた。
石が敷かれたところには小さな川のように見立てた水の通り道がつくられていたり、薄紅の花が太陽の光にきらめく位置に置かれていたり、とても趣がある。
また、庭の風流を尽く楽しめるように、縁側は吊り欄間になっていて、その様子を一望できた。
時間を忘れてうっとりと魅入り、流れる水の音に耳をすませ心地好い気分を味わっていると、ふと庭に一羽の烏が舞い降りた。
黒いその鳥は一見不吉さを感じさせるようであったが、羽瑠には風流な庭に似合ういちばんの生き物のように感じられる。
ぼんやりと烏をながめていると、いつの間にか隣に腰を下ろしていた青年が口をひらいた。
「おかえり。今日はめずらしいお客さんがいるんだ」
きょとん、と羽瑠は内心首を傾げた。
表面上は無表情の彼女であったが、その心内ちは激しく疑問を抱いている。
言葉からして、青年はどうやら烏に話しかけたらしい。
冗談ではなく、真面目に、だ。
屋敷の主と言っていたが、屋敷には他に人影がない。
もしかすれば……もしかすれば、自分は来てはいけないところへ迷い込んだのではあるまいか。
昔聞いた童謡が頭をかすめ、ぞっとする。
「まさかここまでたどり着けるなんて驚きだろう?ねぇ、この娘はきっと彼女の血をひいているよ」
青年は、ちょっと……いや、かなり変わった人だ。
顔を青くさせた羽瑠に気づかず――といっても羽瑠の表情はわかりにくいのだが――さらに烏に話を振っている。
まるで会話しているように。
答えてくれると思っているのか。
烏は人ではない。
言葉を理解するはずは――
『たしかに姫にそっくりだね』
羽瑠は、無表情をかなぐり捨てて目を見開いた。
今の声はだれのもの?
『懐かしいよ』
どうしてあの黒い鳥から声が聞こえるの?
「どうかした?」
「からす、が」
きょとんと首を傾げ不思議そうにこちらを見やる青年をじれったく思いつつ、いましがたの信じられない出来事に羽瑠の声はわずかに震える。
「烏がなにか……ああ」
一声鳴いた黒い鳥が羽ばたいたことで、ようやっと羽瑠の疑問に気づいたのか、青年はぽんと手を打って顔を輝かせた。
「彼女は朱楽。とっても賢い烏だよ」
「彼女って……」
「僕の友人。よろしくね」
にっこり言い切り、手を伸ばして烏の艶のある黒い羽を撫でる男を前にして、とうとう羽瑠は頭を抱えたくなった。
人の気配などない山奥の屋敷で、烏を友人に過ごしているこの変わり者は何者なのだ!
しかもこの烏はただの黒い鳥ではない。
喋ったのだ。
(絶対おかしいわ……妖怪のお屋敷に迷い込んでしまったに違いないわ。はやく立ち去ろう)
兄の真似をして家を飛び出してみたが、いいことはない。
やはり自分は屋敷のなかでおとなしくしているのが性にあっているのだ。
さっさと帰ろう、そしてこの不思議な男の話を手土産に母をよろこばせよう、などと考え、そろそろおいとまします、と立ち上がった。
そのとき。
青年には似つかわしくない、あきらかに女性のものと思われる声がした。
『やめときな』
その声は、やはり黒い鳥から聞こえた。
我が耳を疑う。
信じたくはない。
ぎくり、として恐る恐る振り返り、羽瑠は青年と烏を交互に見やる。
青年は烏の言葉に首を傾げ尋ねているところであった。
「どうして?なにかあるの?」
『今の時間帯は山道は獣の縄張りだよ。娘ひとりならぺろりさ』
「それは大変だな……」
さも当然と烏と会話する青年。
こめかみを抑え、羽瑠はため息を飲み込んだ。
もし無事に家に帰れたのならば、もう二度と兄の真似はしないと心に誓って。
(わたしは夢でもみているのかもしれない)
しかし、やはりこれは夢幻などではないようだ。
ため息をなんとか飲み込み、さてどうしたものかと頭をひねる。
と、突如ツキン、とピアスをしている耳に痛みが走り、同時に頭上で間抜けな鳴き声がした。
「あ」
「わっ」
小さく黒い物体がいきなり羽瑠の頭に落ちてきた。
驚いて声をあげた羽瑠だが、呑気な青年はけたけた苦笑しながらその黒い物体をつまんで少女の手にのせる。
「こいつも家族なんだ。名前は佐助」
『佐助』という堂々たる男名にはとうてい思えない、小さく間抜けな声で啼く鳥が、黒い目をぱちくりさせて羽瑠を見上げた。
「この鴉――」
目が合った瞬間、羽瑠は黒い小さな烏に見入った。
つぶやいた言葉は最後まで発せられず、虚空に吸い込まれ消えていく。
黒く澄んだ丸々としたふたつの眼が、じぃっとこちらを見つめてくるのを黙って見返し、羽瑠は震える手をそっと伸ばしてみた。
根拠はない。
それなのに確信はある。
「兄、さま」
かすれた声は、一度言ってしまえばどうしようもない真実として羽瑠に突き付けられた。
「兄さま……?」
くしゃりと歪んだ羽瑠の顔を驚いたようにのぞきこみ、青年は気遣うように先をうながす。
羽瑠は無意識にこぼれ落ちそうになる涙をこらえ、ゆっくりと言葉をつづけた。
「ええ、兄さまと同じなの。この鴉には、兄さまと同じ気配がする……」
冷たいのにあたたかい、孤高としているのに人をひきつけてやまない、矛盾している魂の気配。
幼いころから兄は特別だった。
兄の従者である深水は、『その事実』を兄を信頼し信じていたが、羽瑠はちがう。
信じるもなにも、知っていたから。
羽瑠だけが知っていたから。
母親の腹のなかでともに生まれ育った羽瑠だけが、兄の異質さを本当の意味でわかり、『その事実』をまことのことと知っていた。
だから、解る。
今目の前にいるこの黒い鳥はまさしく、兄と同じものを秘めた一部であると。
兄のなかに、魂のなかに混ざり溶けたカケラと同じものが、この鴉にはあるのだと。
ただの烏ではない、特別な鴉……。
放心状態で鳥の黒い瞳を見つめていた羽瑠に、やがて青年が静かに声をかけた。
「君には、解るんだね」
彼女にとっては衝撃とも呼べる言葉とともに。
「やはり君が、鴉の姫の娘――」
「か、鴉の姫?」
なんとか言葉を紡いだが、若干喘ぐようになってしまった。
心臓がばくんばくんと強く鼓動し、掌にはじんわりと汗がにじむ。
逆に青年はどこか清々しい様子で、穏やかな笑みさえ浮かべて答えた。
「そう。鴉の姫と鴉の使者のこども……そうでしょ?」
わけがわからず口をつぐんだ羽瑠に、きょとんと首を傾げて彼は言葉をつづける。
「あれ、ちがった?姫と夜呂のこどもかと思ったんだけど……」
「夜呂、は、父の名前です」
「やっぱり」
君は目元が姫にそっくりだね、と、やはり彼は穏やかに、まぶしそうにこちらを見て微笑する。
(いったい、この人は何者なの……)
羽瑠の手のなかで、小さな烏がひとつ、カァと間抜けに鳴いた。