三 烏天狗―ナツの陣―
ひとりぼっちの夢をみて
醒めたらきっと トナリに
~玉霰~
【三 烏天狗―ナツの陣―】
***
『ケケケケケ!』
そいつはとても奇妙な笑い声をあげた。
「あったまきた!ようし深水、しとめろ。許す」
腕組みをして鼻息荒く命じる那都に、弓矢を構えていた深水はあわてて泣き声を出す。
「いやですよいやですよ?神殺しなんて呪われちゃいます!」
「神?」と首を傾げる主に、泣きながら、それでも命令通りいつでも射れるように矢の先端を『神』に向けつつ、説明する。
「そうです!こいつはきっと、いや、絶対に恰好からして烏天狗です。天狗は山の神ともいわれているの、ご存じでしょう?」
「そうだったかァ?」
「那都さまあぁああ!」
深水の悲鳴ももっともである。
今、ふたりの目の前、大木の枝の上に立ってこちらを見下ろしているのは、ちょうど深水より頭一つ分ほど小さい烏天狗であった。
真っ赤な顔をした、鼻の長い天狗の面をかぶり、動物の毛なのか藁なのかわからない薄汚れたものを着込み、両手ほども大きな扇をもっている。
なにより驚きなのはその身体能力で、烏天狗は那都らを嘲笑うかのように枝から枝に飛び移っては高らかに嗤うのだ。
それも、下駄をはいたまま。
妖怪のものの類いの出ると云われている山が、国からほどよい距離にある。
北と東の国の境にある山で、布癒の住む屋敷から獣道でつづいていた。
好奇心旺盛な若者である那都は、その噂を耳にするなり目指し出す。
いつもと同じように、従者である深水もともにきたわけであるが……
「山の神ならば殺生はいけないわ。それに、天狗はときたまこどもと相性がいいのよ」
男ふたりのものではない、女の声。
そう、今回の冒険には布癒も参加していたのだ。
「でも頭に『烏』がついているんだから」なんて屁理屈を言う主に加え、この要注意人物と記憶している女の存在にきりきりと痛む胃を抑え、深水はため息を飲み込んだ。
「ともかく!ぜっったいに余計なことはしないでくださいね!――あなたも」
引いた弓は今すぐ下ろしたい。
しかし、下ろしたが最後、那都自身が妖怪に飛び掛かっていきそうだし、なにより向こうがこちらに危害を加えないとも限らない。
もしあちらが主に牙をむけるようなら――牙があるかは置いておいて――たとえ神であろうと、深水は容赦しないつもりである。
ついでに、その主を煽りそうなのが、件の女だ。
先ほどの発言の「天狗はときたまこどもと相性がいいのよ」というのは、つまりは「あなたと相性がいいかもしれないわね」ということで、ようするに、「那都」は「こども」と言いたいのだ。
深読みではあるまい。
現に、ジト目で咎めた深水に彼女は肩をすくめ、「つまらないわ」とごぼした。
「じゃあ、深水、待機な」
「なっ、待ってくださ――」
「大丈夫、平気平気。おーい、からすてんぐ殿ぉ」
従者の声を無視し、なんの根拠もなく「大丈夫、平気」と言い切った那都は、頭上に覆い茂る木々の隙間から見えるあやかしに声をかけた。
応えるわけないだろう、とタカをくくっていた深水であるが、それは見事に裏切られた。
『なんだ、ニンゲンの小僧』
ひょい、と枝から枝に飛び乗り、ちょうどこちらを見下ろすような形で姿を現した烏天狗。
先ほどよりもよく姿が見える。
ものすごい形相の面は、やはり恐ろしい。
面の隙間から見える髪は淡い銀鼠色で、どこか神秘的だ。
また、獣の毛か藁でできた上着の下から、上等そうな利久色の衣が見えた。
ぶるりと震える深水とは反対に、那都も、それから布癒も恐怖は微塵にも感じていないらしい。
「俺の名は那都。こっちは従者の深水で――」
「布癒、です」
呑気に自己紹介なんて、とうなだれる深水に、那都は矢を下ろせ、と目で告げる。
渋々従いつつも、いつでも応戦できるようにして待機した。
「で、質問なんだが。どうしていきなり石を投げてきたんだ?」
そう、噂の山に差し掛かったところで、いきなり無数の石や枝が投げられたのだ。
そして彼らを嘲笑うかのように、烏天狗なるものがケタケタ声をたててからかってくる。
挑発には例外なくのっていくのが那都だ。
今回も「頭にきた、しとめろ」と、正体不明の神に類するものに対してとは思えぬ思考で応じたのである。
那都の問いに、烏天狗はしばし首を傾げたあと、ぽつりと言った。
『ふむ。そのような問いかけをしてきた者ははじめてだ』
そのまま、すたっと地へ降り立つ。
『我が名は紅蓮。この山と鴉の屋敷の守護を務めているのだ』
ふふん、と鼻を鳴らして自慢げに告げた。
真っ赤な顔の天狗の面をとって露わになった烏天狗の素顔は、まだ年端もいかぬこどものようであった。
「それにしても、烏天狗なんてはじめて見た」
『そりゃあ、人間どもはみな怖がりだからな。思うに、我とそなたは似ているのかもしれん』
その後、ふたりは互いに肩を抱き合うまで意気投合し、互いに酒を酌み交わしていた。
酒といっても、山の恵みだという果実からとれた果汁で、それを烏天狗は『酒』と呼んでいるらしい。
なるほど、その芳香は思わずうっとり酔いつぶれそうなほど芳しい。
深水は「主をお守りするため、醜態をさらすわけにはいきません!」と口をつけるのを断固拒否し、那都の後ろに張り付いている。
布癒はちびちびと飲んでいたが、その顔はどこかほころんでいる。
己を烏天狗の紅蓮と名乗った少年は、とてもハツラツとしており、自分を山の守護者と自負するところからも、やや高飛車な物言いをするものの、悪い気はしない。
会話してみればとても親しみやすい性格のようで、那都はすぐに好意を抱いたらしい。
もともと深水以外に友人らしい友人のいなかった那都のことだ。
まるで同等の存在ができたようでうれしいのだろう。
那都の最初の「どうしていきなり石を投げてきたのか」という質問に、紅蓮は『山と鴉の屋敷の守護者だから、侵入者は成敗するのだ』と答えた。
互いに警戒も解けてなじんだ頃、「では鴉の屋敷とはなにか」と問えば、紅蓮は片眉を器用にあげて、一行を一瞥し、ふふんと鼻を鳴らした。
『ふん、そなたらは気づいていないのか』
「なにが?」
『偶然ではない。そなたらは集められたのだ』
彼の口の端を引き上げる微笑は、なにやら悪巧みをする輩に見えなくもない。
ジト目で深水が見やると、紅蓮は肩をすくめ、意地の悪い笑みを深める。
『だが、そこの従者はおまけらしいがな』
「……どういう意味ですか」
『そのままだ。那都と布癒は、もう気づいただろう?そなたらの共通点を』
銀鼠色の髪をかきあげ、紅蓮は愉快そうな声をたてた。
細められた深緑を思わせる瞳は神秘的で、髪をかきあげたことで露わになった額には赤い爪痕のような印象的な痣がみっつついている。
唸り声をあげそうな勢いで警戒心むき出しの深水を諌めつつ、那都は横目で布癒を見た。
彼女もこちらを見ており、刹那の瞬間、ふたりの目が合う。
感情と連動する、紅い瞳。
前世の記憶のような、夢。
闇とぬくもりの狭間。
呪いの行方。
強く儚い、絆の在り処……
――鴉の王の魂を継ぐ者と鴉の覇者の娘――
『屋敷の主は、我の恩人なのだ』
唐突に、紅蓮は口を切った。
『鴉の屋敷はいまや、時空のひずみに呑まれているのだ。だからきっと、姫は闇に感化できなくなったのだろう……』
「どういう、意味だ」
困惑の色を浮かべる那都をまっすぐに見すえ、紅蓮は言った。
『我は因縁の解放を求めている』
それは、永久につづく繋がり――
『そうすればきっと、そなたらの呪いも解けるのであろう』
布癒は、成彰の娘であった。
鴉の王から受けた魂の呪いは、血をめぐって彼女へ継がれてしまったのだ。
だから彼女には、父の、先祖の罪がまるで己のことのように解ってしまう。
その呪いを断ち切るには、呪いをかけた張本人の許しが必要であった。
だから――
「鴉の王の魂は、いまは欠片となってそれぞれ受け継がれている……」
それまで一言も話していなかった布癒が口をひらいた。
「そのひとつが、那都にあるのはわかっています。紅蓮殿、あなたは他の欠片もご存じだということですか……?」
烏天狗は、くすり、と妖艶にほほえんだ。
『ああ、わかっているとも。すくなくとも、ひとつは確実に――』
両手を広げた烏天狗。
その背から、黒く大きな翼が広がった。
『案内仕ろう。我が誘導者になってやる』
ついでに深水も来い、と言って紅蓮は立ち上がった。
「な、那都さま……!どうするおつもりですかっ?」
「深水、おまえは不思議に思ったことはないか」
「えっ」
当惑する深水とは対照的に、那都は恐ろしいくらい落ち着いていた。
そっと諭すように、尋ねる。
「俺の父も母も、いつもなにか隠しているような気がしてた。昔……この眼がはじめて紅くなったとき、母さんはなぜか、泣きそうな顔になったんだ」
「那都さま……」
「俺は、この眼の秘密を知りたい……夢のなかの鴉の王は、いつも俺に言っているんだ!」
夢から目覚めた那都は、いつも口走っていた――
「『そろそろ自由にしてやろう。絆は永遠につづいてゆくのだから』」
それは、鴉の王となった、喜助という名の者の願い。
那都も、布癒も、そして深水も、各々の目に意志の光を宿す。
紅蓮は天狗の面をかぶり、高らかに告げた。
『さぁ、行くぞ。屋敷がそなたらを呼んでいるのだ』
――このとき、気づいている者はいなかった。
呼ばれているのは、鴉の王の魂をもった者だけではないということに。
集められているのは、王の呪いを受けた者だけではないということに。
屋敷のはじまりは、ひとりの少女。
人々が崇める『ヌシ』という神に見初められた不思議な力をもつ少女。
彼女を好いたのは、なんの力もない少年。
そしてその少年を気に入ったのが、『ヌシ』の守人・呉蓮。
すべては、そこからはじまった。
屋敷のハジマリは、マヨナカさまという、不可解で歪で、闇より深い、その存在――
鴉が守っていた、それは……
ひとつ、ひとつ、集まってゆく。
そのつながりは、とても儚く脆いけれど。
巡って、繋がって、そうして現在に辿りつく――。