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深水に言わせてみれば、彼の主は、主と仰ぐには実に適していない人物だとか。
曰く、従者となる者がかわいそうだと。
曰く、つまりは自分が本当に労しいのだ、と。
「わかってますか」
この日も幾度となく口にした言葉を、深水はあきることなく連ねた。
「あなたはだれです?皇子ですよ、お・う・じ!今や知る人ぞ知る、立派な大国の世継ぎでいらっしゃられます!」
うんざりしつつも、那都は努めて平静に頷きかえした。
ここで嫌な顔をしようものなら、即、口煩さが増すことを身をもって知っていたからだ。
「いいですか?こんなに宮をあけていいはず、ふつうならありえません!無断で、それも、女子のもとへなど……!」
将来はいかがするのです、婚約者にもふられ、どうするのです、と口をすっぱくしてまくしたてる従者に、ほとほと那都はうなだれた。
婚約者、といっても、まだ十にも満たないころだ。
親同士が勝手に盛り上がり、そして勝手に結ばれ、勝手に解かれた、他愛もない話。
たしか、父王のかつての友人の娘だったはず。
今は周辺諸国を回り、腕を磨いているのかもしれない。
建築家だったか、薬師だったかは忘れたが、たしか、その道に有能で、それを理由に腕を磨き道を究めたいからと、早々に婚約を辞退されたのであった。
幼いころの、酒の席での冗談ごとで、今では笑いの肴になる話であったが、深水はことあるごとにぶりかえし、なんとか那都を諌めようとしているようであった。
健気なことである。
「ああ、今頃きっと、羽瑠さまもご心配あそばされているにちがいありません!おいたわしゅう……」
よよよ、と貴族の女のように、大げさに泣き崩れる従者を冷たい視線で一瞥し、那都はそのまま足を進めた。
自然の多いところは、空気もうまい。
胸いっぱいに吸い込み、鼻腔に新鮮な酸素を満たす。
「……那都さまは、あの女子を好いているのですか」
唐突に、深水が生真面目な声で問うてきた。
「藪から棒だな。どうした」
「心配な、だけです!俺は、那都さまの従者だから――」
真摯な瞳を受け、那都はめずらしく、柔らかにほほえんだ。
深水が父にあこがれ、そして那都に忠誠を誓ってくれていることは重々承知しているつもりだ。
深水の父親は、今や那都の父、つまり王の右腕といわれるほどに名実ともに力のある男である。
そんな男を父ともてたことを誇りに、深水は仕事を全うしようと、そして兄弟のように育ってきた自分を大事に思っているのだと、那都は感じていた。
「大丈夫だ」
前を見据え、止めていた歩を再び進めて、那都は強く言う。
「俺は、決して、揺らがない」
まるで自分に言い聞かせるように。
那都の瞳が、らん、と赤く色づいたことを、深水は知る由もなかった。
絶世の美女・布癒と出逢ってから、かれこれ数十日が過ぎた。
はじめは連日彼女のもとへ馳せ参じていた那都であったが、深水の小言も増す一方で、自国へ帰ったりもしながら、しかし必ず数日後には彼女に顔を出すようにしていた。
それはひとえに、興味から。
はじめこそつれない態度を貫き通していた布癒であるが、那都の人懐こい顔や邪気のない話し方に感化されたのか、次第に笑みを見せるようになっていった。
そのうち彼女の母親ともお目通りし、布癒の那都に対する態度は見るからに柔らかくなっていった。
それを那都は、まるで気性の荒い珍獣を手懐けたがごとくよろこび、そして深水からすれば、絆されていったのだった。
たしかに、彼女の纏う色香はさすが元遊女の娘だけあるのかもしれない。
時には穢しがたい純白の雪を思わせ、またある時にはその白を己の色で染め上げたいような欲を那都に抱かせている――と、深水は勘ぐっていた。
なにしろ、彼女の母親が、この生真面目を自負する従者には天敵であったのだ。
それなりの年だろうに、肌はきめ細やかでうつくしく、化粧っ気もあり、朱い紅をひいた唇でにっこりと笑みを形をつくられれば、思わず「うっ」とつまるほどの色香が漂う。
目の毒だ。
次第に仲睦まじい様子になっていく主と少女に、深水は言いようのない不安を覚えてしまったのは致し方のないことだ。
布癒が那都の『傾国の美女』にならなければいい、と、それだけが心配であった。
そういえば、と布癒がその話題をふったのは、ぎらぎらした太陽がわずかに優しげになったころだ。
軒先で冷たい水をもらい喉を潤していた那都と深水に、少女は一瞬戸惑ってから、しかしどこか決意した面持ちで口をひらいた。
「あなたは、北の皇子さまでしょ?」
「ああ」
即答する主に、いつものことながら深水はため息をつきたくなる。
隠していたわけではないが、こうもあっさりと己の身分を明かすものだろうか。
布癒は特に驚いた様子もなく、そう、と頷いたあとにつづける。
「じゃああなたのお母上のお兄さまについて、聞いたことはある?」
奇妙な話であった。
北国の王には、見目麗しい黒髪の女が嫁いできた――そういう話は国でも有名な話である。
しかし、彼女のことについて、その情報を知る者はほとんどいない。
ただひとり妹がいて、いまは東の国にいるのだと、深水もそれしか知らなかった。
当然、こんな国はずれの屋敷に母娘で住まう少女が后の家族を知るわけなどなく、深水の視線は険しくなる。
さすがの那都も眉間にしわを寄せた。
「母の兄上って……」
「つまり、あなたの叔父さんね」
じっと探るようなまなざしで那都は布癒を見つめたまま口をとざした。
ふたりはしばし沈黙を守ったままだったが、やがて布癒がしれっとして口をひらく。
「別に変な詮索はしなくていいのよ。ただ、あなたは思い出しているのかしらと思って」
「思い出してる……?」
怪訝な顔のままオウム返しで尋ねると、やはり彼女は感情の見えにくい表情で答えた。
「あなたは鴉の王の魂を有しているでしょう?」
ひゅっ、と深水が息を呑んだ音が聞こえた。
那都は顔から表情を一切殺し、警戒の色だけを強めた。
それは那都と双子の妹の羽瑠、そして幼きころより乳飲み子同然と育ってきた深水だけが知っている、秘密だったからだ。
父と母は気づいているかもしれないが、ともかく出会ってそれほど経っていない娘が知り得る話ではないのだ。
深水はあからさまに狼狽し、動揺を隠すことができずにいた。
一方那都は警戒しながらも、心のどこかでは解っていたのかもしれない。
ずっとずっと。
出逢ったころから、ずっと。
それは直感に似た、魂の叫びだったのだろうか。
鴉の王――それは、那都の魂のなかにある、いや、混ざり合った『モノ』なのだ。
那都であって那都ではない、彼の欠片であって彼のすべてである『モノ』。
輪廻をめぐることなく、飛び散った欠片のひとつ。
他よりずっと大きな欠片の破片。
那都の魂と混ざり合い、彼自身となった、もうひとつの那都。
はじまりは、闇だった。
夜にはひとより目が見え難い、いわゆる鳥目であったのに、より濃く深い闇のなかでは真昼のときと同じくらいものが見えた。
赤子のころから獣くさいものに好かれた。
とりわけ凶暴だといわれている山の烏には。
幼いころ、ふと目を離した隙にいなくなり、翌朝にはふらりと帰ってきた。
どこにいたのかと問うても、「欠片を探して」としか答えない。
そうしてある日、深水は見たのだ。
王族を狙う刺客に襲われ、那都をかばって怪我をした深水を目にしたとき、空気が震えた。
そうして、一瞬で世界は闇に、血の海に。
そのあと駆けつけた那都の父や深水の父たちにより始末はつけられたが、那都の力が明るみに出た。
その場にいる者に口止めをし、広がりはしなかった秘密。
暗黙のうちに知れた、『那都の不思議な能力』。
そうして、深水と妹の羽瑠だけが知る、秘密。
たしかに深水は見たのだ。
怒り、刺客をにらみつけた那都の眼が、紅い色を放っているのを。
それから時々、那都が興奮したり、感情を激しく変化させる際には瞳の色が変わることに気づいた。
はじめはわずかな、次第に大きな変化となって。
紅い色は、年を重ねるごとに濃さを増したのだ。
夢を、みていたのだ。
自分の前世のような記憶。
疲労困憊な生活。
激しい嵐のような日々。
ふいに訪れた光。
あこがれ。
慕情。
嫉妬。
怒り。
報われない想い。
嘆き。
痛み。
ささやかな倖せ。
唐突な事実。
後悔。
振り回され、苦悩に沈む。
闇のなか。
暗い、深い、闇。
どこまでも深い。
――それなのに。
いとしいぬくもり。
大切ななにか。
ひとつではなかった。
いつの間にか増えた、あたたかいモノ。
そうして、吠えるように訴えかけてくる。
清算。
解放。
繋がり。
強く、どこまでも強く、鳴いている。
目覚めたとき、那都はいつも口走っていた――鴉の王は……
一度目をとじ、深く深く息を吐き出す。
血が巡り、どくんどくんと脈打つ心臓の音が近く聞こえる。
しんと水を打ったように静まり返る世界。
瞼の裏の闇。
その奥の、もっと奥の、さらに奥の最奥の間……
ゆっくりと目をあける。
「改めて、はじめまして――覇者の娘」
声は低く、かすかな震えを伴って。
固唾を飲んで深水が見守るなか、じっと見つめていた目をふせ、布癒もわずかに頭を下げた。
那都の瞳が、紅く色を染めていた。