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『……き』
――呼んでいる。
『……ぁ……き』
――ああ、だれが。
『あき』
――きすけ。
暗闇に、迎えがきた。
光がひとつ、あたたかな光がひとつ、ふりそそぐ。
少女はこのあたたかさを知っていた。
だいすきなぬくもりなのだ。
――やっと会えた。
だから、彼女はめいっぱいその光を抱きしめた――。
姫が目をあけて、いちばんはじめに見たものは、漆黒の涙に濡れた瞳であった。
なにが起こったのか、状況もつかめず、けれどそのあたたかさに安堵して、抱きしめる腕に力を込めた。
『姫……』
喜助が、少女を抱きしめていた。
腕にかかえ、病人を労るように、赤子をあやすように、彼女の顔をのぞきこむ。
周りはやはり、闇だ。
だが、あたたかな闇だ。
感覚でそれは察知できたものの、まだ完全に身体に力は入らず、彼女はどこかぼんやりとしていた。
辺りをながめる。
闇のなかにはなにもない。
あとは喜助が自分を抱いているだけだ。
――マヨナカさまは?
姫はゆれる視界に、異変を捕らえた。
「き……すけ……」
いやだ、と思った。
理解したくなかった。
「いや……ひとりにしないで……」
姫の声は震えている。
力なく伸ばした指を、彼の頬に触れさせた。
喜助は――闇に呑まれつつあったのだ。
身体のところどころが、黒く変色し、まるで蝕むかのようにわさわさとうごめいて闇が侵食していく。
顔の皮膚が剥がれ落ちた箇所は黒い闇で、彼の存在自体を飲み込もうとしているようだ。
それが怖かった。
喜助が闇に喰われてしまうことが。
喜助はそっと自身の手を彼女の伸ばされた手に重ね、軽く口づける。
『姫……お別れなんだ……』
「いや……どうして?喜助はわたしの兄でしょう?」
――たったひとつの、大事な、家族でしょう?
すがるように紡ぐ言葉も、闇をとめる効果にはならない。
「ずっと一緒でしょう?喜助は不死身なはずでしょう?!」
黒い瞳は静かにゆれる。
『ああ……けれど、もう鴉の力はない――オレは今、ただのニンゲンよりも脆い存在だ』
喜助は容赦なかった。
いつだってそうだ。
彼はあまえることを許さない。
妹に緩いようでその実、真実に対してはどこまでも厳しかった。
自分はニンゲンであると、さらわれてきた童子なのだと――喜助の本当の≪きょうだい≫にはなれぬのだと知ったときですら、彼はあまい嘘は言わなかった。
けれどやさしい真実を口にしてくれた。
『それでも、姫はオレサマの妹だ』
――と。
ぽとり、と一粒の雫が、喜助の瞳から姫の頬にこぼれた。
『もう終わったんだ……だから姫――おまえに本当の名をかえそう』
握られた手が熱くなる。
姫は歪む視界がうっとうしく、彼を引き止めることができない自分が憎かった。
認めたくなかった。
「いらない!わたしは姫だ!鴉の姫だ!喜助の妹……それで充分だ!」
涙が次から次へとこぼれてくる。
胸が熱く苦しくてたまらない。
ああ、これが感情か――涙とは、なんとうつくしいのだろうと、姫は場違いにも思った。
最後に泣いたのはいつだったろう。
喜助の涙など、それこそはじめてだ。
本当に彼はもう、鴉ではなくなったのだ。
『姫……』
喜助の声が響く。
腹にわずかなぬくもりが宿る。
彼は彼女を抱きしめ、ささやいた。
『おれ――生まれ変わったら、姫の子になりたいな』
姫の、命の繋がりになりたいな。
「喜助――」
目を見開く。
黒い瞳が黒い瞳を捕らえた。
彼の身体はもうすでに、半分以上が闇に喰われていた。
「きすけぇ」
だいすきだ。
一緒にいたい。
今まで、そばにいてくれた存在。
『姫、おまえの黒髪、好きだったよ』
フ、と目を細め、彼はバラバラな長さになった彼女の髪に触れる。
目をとじ、喜助がさっと手を闇に絡ませ伸ばすと、ややあって姫の髪が元のうつくしい長さになった。
『俺のことを、忘れないで』
視界が潤む。
もう、なにも言えない。
言葉が出てこない。
姫は、彼の在る身体にすがりつく。
それでも、時は残酷で。
彼の存在の大きさに、胸からせりあがる感情があった。
兄は、にっこりと満面の笑みで告げる――
『今までありがとう、鴉姫』
風が吹き抜けた。
伸ばした腕は空を切る。
闇はひと呑みで彼を喰ってしまったのだ。
そして同時に、悪意と狂気に満ち満ちていた闇の気配は消え去り、ただあたたかく、やさしい闇ばかりが残った。
なにかが弾けるように飛び、ぶわりと勢いをもった風が弱まり、穏やかだと錯覚するほどの心地よい気配に満たされる。
すべては一瞬のうちに終わったのだ。
彼が名をかえした、そのときに。
「……喜助……ありがとう……」
つぶやいた声は、届くだろうか。
だいすきな彼に、届いただろうか。
鴉の姫は――鴉姫はひとつ涙を流し、唇を噛みしめた。
闇が、やさしく、少女を包み込んでいた。
慈しむように、愛おしむように。
まるで、鴉の羽のように。