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時代背景について。
ここはたぶん日本ですが、時代は不明です。
冒頭でも述べましたが、未来か過去かはわからない、
≪どこかわからないところ≫
になっています。
・・・ということで、よろしくお願いします。
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目が離せない。
吸い込まれて、目を離すことはできない。
口が開いて、言葉を発しようとしても、なにも言葉が出てこない。
朱楽が横で、ふふっと笑った。
『びっくりした?』
わたしはまじまじと出てきたその少年を見つめながら、朱楽の言葉に耳を傾けた。
『あの小僧なら、くるって思ってたよ』
まさか、朱楽が彼を呼んだのだろうか。
そこには確かに、息を切らした夜呂がいた。
全速力できたのだろう。
肩で息をし、顔は紅潮していた。
わたしは呆然として彼を見つめていた。
ふっと短く息をはき、夜呂はどんどんわたしに近づいてきた。
その顔にはかすかに笑みさえ浮かんでいた。
彼が目の前にきたとき、ようやく我にかえって数歩後退りをする。
「さっさと逃げればいいものを」
わたしは刀を構える。
柄に力を込める。
喜助のつけた左手の傷が痛んだ。
刀を持ちかえ、両手で構える。
どういうつもりで彼は戻ってきたのだろうか。
じっと見つめ、すこしの変化も逃さないように神経を集中させた。
夜呂は黒い髪を風に揺らしながら、その表情からはなんともとれない、あいまいな態度であった。
沈黙を破ったのは朱楽だった。
『アタシは高見の見物でもしてるよ』
朱楽は屋敷の屋根まで飛んだ。
そこからわたしたちの行く末を見ているのだろう。
そんなことを考え、かつ夜呂から目をはなさずにいると、唐突に朱楽が口を開いた。
『早くしないと、死ぬぞ』
その声はおもしろがるような、忠告するような、よくわからない調子であった。
どんな意図があって彼女がそう言っているのか見当もつかなかったが、とりあえず彼女には予見の力があることを思い出した。
今のは、予見?
死ぬのは、どっち?
わたしに対してなのか夜呂に対してなのかよくわからなかった。
そうこうしているうちに、わたしは新たな気配に殺気立つ。
これはだれ?
高安?
それだけではない……人間のにおい。
近い……
わたしは刀を持ちかえ、夜呂を通りすぎ、茂みに走った。
二、三人が近くにいる。
あと四、五人が、また新たに屋敷の領域に踏み込んだ。
これ以上のまねかれざる客には容赦しない。
するわけにはいかない。
わたしの主としての自尊心が戻ってくる。
屋敷は不安定。
夜呂もそばにいる。
力がうまく働かない。
それでも守らなければ。
刀をキラリと動かした――直後、スッとした感触、冷たい感覚が左腕に走った。
遅れて、鋭い裂ける痛み。
血が空に舞った。
息を呑む痛さだ。
よろめいたものの、反射でかわし、致命傷にはいたらなかった。
体調が万全でないのを忘れていた。
切られた腕から、血がしたたる。
大きなかすり傷程度だ。
大丈夫。
わたしは人影から離れ、現れた人物を観察した。
大柄な男がひとり、銀髪の男がひとり、それからやや遅れて高安がやってきた。
わたしの腕を切ったのは、大柄な男だった。
「夜呂さま!」
高安はわたしの後ろにいる夜呂を見つけると、駆け寄ってこようとした。
しかし、夜呂はそれを許さなかった。
「下がれ!姫を傷つけるな!」
その剣幕に負けず劣らず、高安も声を荒らげる。
「あなたは王です!だれよりも上にたつ存在です!逃げないでください」
夜呂は見たこともないような怖い形相で睨みつけた。
「そんな権力なんていらない!お前がおれに敬語を遣ったり、お前から一歩下がった状態で付き合いたくはない!」
その言葉に、高安は一瞬揺らめいた。
言葉にできないでいる高安を見かねたのか、銀髪の男が口を開いた。
細い目に、ねっとりとした口調は蛇のようだ。
「夜呂さま、それではしめしがつきません。わたくしどもは、だれよりもあなたを崇拝する。あなたはみなを平等に見なくてはならない」
「お前……辰迅か」
「いかにも」
銀髪の男が軽くお辞儀する。
寒気がする。
闇を知らない連中が、中途半端に闇に染まっている。
汚らわしい。
わたしは着物の裾を口に噛み、引っ張った。
ビリビリと避けた布を包帯代わりにして、止血を試みる。
ギュッときつくしめる。
痛みに顔が歪んだ。
「女、動くな!」
大柄な男が吠えたが、わたしは無視を決め込んだ。
今、なんとなくわかった。
夜呂は人間でも、こいつらと同じではない。
この大柄な男たちは、母さんと父さんを殺したやつらと大差はない。
だから、吐気がする。
嫌悪感に包まれる。
こんな卑屈な人間に、屋敷の領地を踏まれたことが許せない。
ビュッと鋭い音がした。
大柄な男が矢を放つ。
しかし、今度は完全にかわした。
ひらりと身も軽やかに跳ね、岩の上に着地した。
ここは屋敷の前。
広い庭が広がり、その前には砂地が広がっている。
砂地にはごつごつした岩があった。
その砂地をすぎると、茂みが広がっているわけだ。
これ以上、彼らを屋敷へ近づけるわけにはいかなかった。
「黙れ。ここは我が領地――去れ。お前たちの仲間が食われてもいいなら、もうすこし相手をしてやろう」
わたしの冷たい声に、高安がたじろいだのがわかった。
わたしは嘘は言っていない。
実際、こうしているうちにも喜助は彼らの仲間を襲っているだろう。
辰迅という銀髪の男が、小バカにするように笑った。
「それは好都合だ。おかしな狂った烏どもは助けにこない。小娘ひとり始末するなど簡単なことだ」
そのねっとりした言い方に嫌悪感が募る。
と、高安は身を翻して、走り去ろうとした。
制止する辰迅に向かって、高安は睨みきかせる。
「今戦っている中にはおれの部下もまじっている」
「捨てておけ。今優先すべきことをしろ」
眉をひそめる辰迅に、高安は唇をかみしめ、反論を飲み込んだ。
かすかに体が震えている。
部下を見捨てるなど、彼にできるわけがない。
それは容易に想像できた。
「高安、行け」
そのとき――夜呂の声が響いた。
「これは命令だ」
でも……と詰まる彼に、夜呂はにこりと笑う。
仕方のないやつらだ。
「おい、高安」
わたしは呼びかけ、言った。
「今すぐ攻撃を中止し、姫のもとへ戻れと――喜助に言え」
驚きに目を見開き、高安はまじまじとわたしを見つめる。
「喜助はいちばん高く飛ぶ烏だ。すぐに見つけられる。喜助は賢いから」
にっこりと笑う。
ややあって、高安は小さく頷くと、部下たちのいる方へ駆けていった。
その背中は、とても頼もしかった。
残ったわたしたちは、辰迅らを睨みつけた。
チッと舌うちして、彼らは刀を構えた。
「夜呂さま、そちらがそういう態度ならば、わたくしたちはあなたを反逆者と見なします」
そう言った辰迅の顔は、妙に狂喜じみていた。
弓矢を背負い、細長い刀を持つ彼は、どこか自信に満ち、また卑しかった。
闇は闇でも、堕ちた闇だ。
「国は滅びた。あなたが死ねば、次期国王はわたしかな」
ふふっと不気味に笑って、彼は夜呂をなめるように見た。
夜呂は観察するように相手を見ていたが、やがてゆっくりと言った。
「お前に王座など無理だ。お前にそんな力はない」
きっぱりと言い切った。
そんな夜呂の瞳は、いつもよりずば抜けて輝いているように見えたんだ。
辰迅はしばらく睨んでから吐き捨てるように言った。
「あの老いぼれ国王にそっくりだな」
「貴様……まさか父上を裏切ったのか」
夜呂の眼が見開かれる。
おもしろがるようなせせら笑いを顔中に浮かべて、銀髪の男はつづけた。
「制裁を加えたまでだ。弱いくせに吠える。だから、早く死んだ方がいいと思ってね」
ぎゅっと夜呂は拳をにぎった。
「お前がこの屋敷で生きていると聞いて驚いた。どおりで刺客が帰ってこないわけだよ」
ということは、しょっちゅう現れた侵入者は、辰迅の送ってきた刺客だったのか。
みなわたしたちが始末したけれど。
「疲れた。もううんざりだ。だから、さっさと死んでくれ」
そう言うと、辰迅は大柄な男に合図をよこす。
すぐに大柄な男は矢をつがえ、夜呂に向けてひいた。
なんて馬鹿なんだろう。
夜呂は反応が遅れた。
矢はまっすぐに彼の心臓めがけてとんできた。
だから、馬鹿なんだ。
なんで戻ってきたんだ……
わたしは夜呂の前に飛び出した。
彼に抱きつくかたちになった。
瞬間――背中に熱い衝撃が走る。
うっと詰まる感覚。
痛みという感覚とはまるで別物。
切なくて涙が出そうになる。
血が口から吐き出された。
夜呂の浅葱色の衣を紅く染めてしまった。
息が思うようにできない。
声の出しかたがわからない。
あのときと同じ、幼いころ人間たちに首を絞められたときと同じだ。
力が入らない。
ただただ死ぬのが切なくて、泣きたくなった。
「……ゃ……ろ……?」
彼は微動だにしなかった。
口を開けたまま、目を見開いたまま、動かなかった。
「ばか………死ぬ…だ……ろ」
ぐっと詰まる。
呼吸が乱れる。
「――姫……どうして」
やっと夜呂がつむいだ言葉は、わたしの耳に心地よく響いた。
「死なないで!お願い!おれ、姫のことをもっと知りたい。たくさん話したい。
おれのことも知ってほしい……だから……」
もう声は出せなかった。
視界がぼやけた。
だから、かわりに笑った。