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姫は、喜助のことが大切だったんだ。
裏切りだとか、憎いだとか、そんなこと、これっぽっちも、思わなかったんだよ。
喜助、それに気がついて。
周りをよく見て。
ひとりなんかじゃ、ないんだよ――。
ぼくは、できるだけゆっくりと、語りかけるように心で云った。
伝わればいいと、想いを込めて。
「きすけ、きいて」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「もう、泣かなくていいんだ」
黒くて、怖い闇のなかだけれど。
「喜助は、姫のことが大事なんでしょう?」
だけど、ここには、たくさんのあったかいものがあるって、信じているから。
「だから――鴉の姫を、助けてあげよう?」
――瞬間、闇はとまった。
『貴様になにができる』
ガラガラした声がする。
『貴様に、なにがわかる』
それは怒りや悲しみというよりは、戸惑いに歪んでいるようだった。
ぼくはひとつ呼吸をすると、言葉をゆっくりと噛みしめてから口をひらく。
「……好きって気持ちは、とても苦しいもの。大事だって気持ちは、とても難しいでしょう?」
ぼくはわかる気がするんだ。
幼皇さまと呼ばれ、ぼくはみんなから大事に、それこそ壊れ物みたいに扱ってもらっていた。
なに不自由なく、みんなやさしくて……。
だけど、怖かった。
だってみんなは、ぼくを見てはくれなかった。
『幼皇』という名前だけに固執して、『暗紫』というぼくを見てはくれなかった。
それはとても寂しくて、向けられる笑顔は憎悪よりも恐ろしくて。
だけど、加世はちがった。
幼皇じゃないぼくをまっすぐに見てくれたんだ。
――それから出会う人たちはまるで不思議。
夜呂も『暗紫』を見てくれる。
同じくらいの歳の空弥と友達になれたことは、奇跡みたいな気がする。
華虞殿も『暗紫』として接してくれたし。
空っぽの笑顔はとても寂しくて怖い。
だからぼくは、ぼくに本当の笑顔を向けてくれた人たちが大好きだ。
大好きだから、大切なんだ。
でも、大切だと思ったら、それはとても難しい。
大好きな人と接するのは、なんだか勇気がいることだったから。
喜助は姫のことが大事。
だけどなにか譲れないものがあったんでしょう?
だから大切な姫を陥れてしまったことに悲しみを感じているのでしょう?
「喜助には、仲間がいるんだよ」
心臓がどくどくする。
こんな気持ちははじめてだった。
「喜助のことが大切な仲間たちが、たくさんいるんだよ?そろそろ気がついて……」
闇がさぁ、と割れていく。
いや、まだ濃くて暗い闇は立ち込めているけれど、喜助の姿が見えるようになった。
呆然とする喜助に、ぼくはにっこりと笑いかける。
「ほら、喜助の周りは、こんなにもあたたかい」
そう、気がついて。
さっきから、喜助の周辺には闇にまぎれてあたたかい光があったこと。
その光は徐々に形を為しはじめ、やがて彼らの見知った顔ぶれになる。
ぼくははじめて見るものもいたけれど、なんとなく、彼らがだれなのか知っていた。
喜助の周りに集まったのは、無数の烏たち。
それから額に赤い鳥の足跡のような傷のある少女と、利休色の衣を身にまとい、赤い天狗の面をかぶった銀髪の少年が立っていた。
『喜助……おまえには苦労をかけたな』
銀髪の少年が、ゆっくりと顔にかけていた鬼の面を取り外して口をひらく。
喜助は大きく目を見開いた。
それからやっとのことで言葉を紡ぐ。
『ど……どうして……ここに……?』
『終わらせにきたのよ』
答えたのは、銀髪の少年に寄り添って立っていた少女だ。
たぶん、彼女は――烏。
喜助は複雑な表情で、その娘を『黄祈』と呼んだ。
『今、マヨナカさまの力は荒れ狂っていて、外の世界にも影響を及ぼしかねない状況なの』
ゆっくりと少女は説明していく。
『だから、だれかが止めなくちゃならない――不思議な力を持った烏たちならば、束になればそれも可能なの』
黄祈と呼ばれた少女は軽く笑うと、それにね、とつづけた。
『この人と一緒にいたいし、この人の愛する世界を守りたいの。』
この人、と称された少年は、見た目に似合わず、随分とおとなびた顔をする。
その瞳にはやらねばならぬ使命と、そして穏やかな色が浮かんでいた。
『すべてわたしが引き起こしたことだ。わたしは、杜彦たちを、マヨナカを救わねばならない……』
少年は、「呉」と呼ばれていた。
僕は知る。
ああ、この人が話に聞いた、呉蓮さんなんだって。
*
からすのこ、からすのこ。
ひとりぼっちのカラスのコ。
あなたの名前は、なぁーに?
*
『呉……黄祈……』
喜助の烏羽色の瞳が揺れた。
『貴様ら――』
幾羽も集う、黒い烏たち。
上下に羽ばたき、とどまりながら、みな喜助を見つめて合図を待っている。
『ま、どうせ従うならイカレタ化け物より、馴染みの化け物のほうがいいってことさ』
軽く肩を――烏なので羽であるが――すくめるそぶりを見せて、一羽の烏が言った。
つづいて、どっしりとした威厳を持った烏もつづける。
『仕方ねぇな。最後はてめぇについてやるよ――鴉の王さまよ』
それを聞いて、フン、と喜助は鼻をならす。
しかしどこかうれしそうで、口元にはうっすらと柔らかい笑みがのぞいていた。
『玄緒に蒼於……貴様らみんな、マヨナカの狂気に喰われたってわけか』
『まぁな。あの狂気に魅せられない化け物はいねぇよ』
『結局、力は取り込めなかったしなぁ』
『喜助は選ばれたんだもの。お兄ちゃんたちはいつまでも固執しすぎなのよ』
黄祈が嫌味っぽく笑ったが、それでもその笑みにはやはりあたたかさがあった。
呉と呼ばれた少年の声が響く。
『では、いざ』
時がきた――賽は投げられたのだ。
『鴉の王よ。我らはあなたに従います』
『みなで守りましょう』
『あの山を』
『あの屋敷を』
『あの人間のきょうだいを――』
次々に集まった烏たちの声が響く。
喜助は深く頷き、顔をあげた。
そこにはもう、絶望に歎く彼の姿はなかった。
心がいななき、奮えた――。
ぼくは、なにも知らない。
烏たちの絆も、これから起こる本当の意味も。
だけれど。
たしかに、あたたかかった。
今、この瞬間だけは。