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たとえこの地を追放されようと。
たとえこの先苦しみしかなくとも。
たとえ神から裏切られたとしても。
彼はそれを絶望と思うことはないだろう――決して。
不敵ともとれる笑みを浮かべて、呉蓮は自身の羽織っている着物に指を滑らせる。
いつでもさらりといい肌触りの、決して汚れることのない着物。
錆びることのない、刀。
そして皺を増やしては年をとることのない、老いない身体……。
どれほどこうして過ごしてきたのか、時間の感覚が彼にははっきりとわからなかった。
呆けていれば、すぐにでも杜彦はその命を枯らしてしまいそうだ、と思う。
自分と彼の時間はちがう。
自分にとって一瞬の出来事であったとしても、杜彦にとっては長い年月になってしまうのだから。
呉蓮はふいに、自嘲的な笑みをもらした。
――決して人間になど揺さぶられることなどないと、信じて疑わなかった。
そんな自分が今、たったひとりの少年のために禁忌を犯そうとしている。
これは恋とか、友情だとか、そんなものではないとわかっていた。
ただ、目が離せない。
そしてこのまま、ただ時間ばかりを過ごすことに飽き飽きしてきたのもまた事実。
だったらいっそ、かき回してやろう。
そして、自分のお気に入りの人間を救うことは、どれほど快楽的なのだろう――?
呉蓮は今、いつになく満たされた気分であった。
烏たちが守っているもの、そして自分が今まで護っていたもの……それがなんなのか、呉蓮自身計りかねるのも事実。
神とはなにか?
力か?
力であることは確かだ。
確かに自分はその力の意志を護ってきたのだから。
いつか杜彦は言った。
『人を不幸にする神なんて、神じゃない』
呉蓮は汚れない純粋な瞳でそう言った少年を思い出し、含み笑う。
彼には決して言えないが、『人を不幸にする神などいない』というのは人間の傲慢なものだ。
神と人間が崇めるのは、人にとって都合のいいものばかりだ。
畏怖の念を抱いて奉るのは、人が勝手に決めたものばかりだ。
人は人間にとって善いものを神だと崇め、強大な力を恐れて神とする。
神とはなにか?
力か?
では力とはなにか?
力をもった人間ははたして神か?
アヤカシか神かそれとも……
「化け物、か」
半ば自嘲的に笑い、呉蓮は立ち上がる。
烏たちは自分を疎んでいた。
けれどそれは『力があるから』ばかりが理由ではない。
呉蓮は頼りないほどに人間に肩入れしていたのだ。
生贄もなるたけ邪心を持った人間を選ぶよう仕向けていたし、なにより烏たちが心底きらう『あの子』を逃がそうとしていたから。
烏たちは呉蓮を疎んでいたし、きらっていた。
けれどなかには、それと同じくらい好意を持っていた烏もいたのだ。
「鴉の王よ……いずれこの地は変わってゆくだろう……おまえたちにもそれが悟ることができたなら」
『約束通り、人間を知ってやろう』
呉蓮のつぶやきに、どこからともなく飛んできた大きな黒い両翼を広げた烏。
その烏はひどくしわがれた声で応じると、ひとつカァ、と鳴いた。
おもしろい――呉蓮はついと笑うと、その言葉を飲み込む。
力より自分はもっとも頼りなく、不確かなものを選ぶのだ。
なんと浅はかで愚かで、甘美な選択だろう。
このとき、彼は気づいていなかったのだ。
神の力にも匹敵するものがあることを。
目にも見えない、不確かなものは、たしかに大きな力を秘めていた。
魔世に「逃げよう」と伝えたとき、彼女はなんとも言い難い表情を浮かべた。
予想もしていなかった反応に杜彦が戸惑うと、少女はチラとごまかすように笑う。
「ありがとう。でも、無理よ。神さまに逆らうことなんてできないわ」
杜彦の腕をやんわりと拒絶し、彼女はふるふると頭を振る。
「逃げちゃいけなかったのよ。それはズルイもの」
「生きたいと思うことがズルイはずないだろう?どうしたんだよ!」
せっかく呉蓮にも協力してもらえるのに。
杜彦はぐっと奥歯を噛みしめ、なおも食い下がる。
「おれが助けるよ。絶対助ける。生きようよ……」
「悲観しないで、平気よ」
魔世は柔らかい笑みを浮かべて、杜彦のうなだれる顔をのぞき込んだ。
「わたしは神さまの一部になるの。そうして、ずっとこの土地にいるのよ……呉蓮さんに、守ってもらいながら」
最後のほうは、声が震えていた。
悲しみに?
恐怖に?
いや――喜びに。
愕然として、杜彦はしばらく顔をあげることができなかった。
おそらく、今、彼女の顔は晴れやかで、幸せに満ちていることだろう。
ああ、どうしたって彼女は自分なんかよりあいつを選ぶのだ。
それが悔しくてたまらない。
自分はいったいなんなのだ。
なんのために恋敵に願ってまで彼女を救おうとしたのか?
なら、もういい。
彼女が望むなら、いっそ神の生贄となってしまえばいい。
そうすれば呉蓮は神を裏切ることもなく、魔世は永久に恋い慕う者のそばにいることができるのだ。
ただ悲しむのは、自分だけ……嘆くのは自分だけなのだ。
杜彦はガタガタと震え出す足をなんとか踏ん張り、ひとつ呼吸する。
「おれ、ここを離れるよ」
声は冷たく震えていて、自分のものではないみたいだった。
「……杜彦?」
「ちがう場所で生きていくんだ――呉蓮兄も、一緒に」
まっすぐに彼女を見つめる。
不思議そうに見開かれていた眼は、今や驚愕に染まっている。
ずるいことだってわかってる。
けれど――。
「呉蓮兄から誘ってくれたんだ。一緒に、別の場所で生きていくんだ」
杜彦は唇を噛みしめた。
そして思わず目を背ける。
自分が仕掛けたとはいえ、少女の顔が苦悶に歪んだところなど、見たくはなかったから。
「……知ってたわ」
「え」
白く冷たい指が自分の頬をなでた。
びっくりして顔をあげると、いつの間にか近づいていた魔世の顔がそばにあり、杜彦はあからさまに顔を赤くする。
少女はうろたえる少年に構わず、彼の頬に指を滑らせながら、再度口をひらいた。
「なにもかも、わかってた。わたしには不思議な力があって、だから呉蓮さんはわたしをいやがるだろうってことも」
杜彦の顔をそっと包むように、彼女は手を広げる。
「わたしは知ってた。あなたの気持ちも、最初からすべて……だから教えてあげる」
そのまま少女の腕は少年の首に回された。
「わたしには魅力があるの。不思議な……人間ではないものを惹きつける力が。わたしはヌシさまたちを惑わす存在なのよ」
魔世は一瞬、苦しそうに顔を歪めたが、すぐににっこりとして杜彦の顔ににじり寄る。
そう、彼女には不思議な力があった。
力が開花すれば、いずれヌシさまを惹きつけ狂わせ、烏たちを支配することも叶わず、村は崩壊するだろう――彼女がそう告げられたのは、十歳のころだった。
呉蓮は言った。
そうすればおまえは死なねばならない。
だから、死にたくないなら力が開花する前に村を出ろ、と。
しかし魔世は村を出なかった。
呉蓮と離れたくなどなかった。
彼ほど美味そうなアヤカシはそうそういまい……。
魔世には欲があった。
いつか呉蓮をものにして、いっそヌシを狂わせて、力をいただいてしまいたい。
そうだ、屋敷の主になろう。
烏たちを従えて、人間どもを遣ってやろう。
貧しい暮らしなんてしないですむ。
我慢なんかいらない。
自分の世界をつくりたい!
だから……≪麗しき神々の使者≫という名ばかりの生贄に決まったとき、焦りを覚えた。
まだだ。
力が開花するにはもうしばらくかかる……。
そうだ、あいつを使おう!
自分に惚れている、杜彦を使って生きながらえよう。
「……だからおまえも」
魔世はケタケタと笑いながら、そっと少年の顔をのぞき込む。
「わたしの一部となれ」
――そうして、呉蓮を、呉蓮の力を取り込もう!
まずい――杜彦がぞわりとし、あわてたときにはすでに遅かった。
桃色の艶やかな唇が迫り、動くことなどできなかった。
逃げようと伸ばした腕は無残にも少女にとらえられ、唇をふさがれた。
杜彦は混沌とする意識のなかで、声を聴いた気がした。
必死で自分の名を呼ぶ、やさしい声を。
それがだれのものなのか、はっきりとはわからない。
呉蓮か魔世か自分自身か……。
ただ、ただ、涙が出て。
杜彦は意識を手放した。
鴉の子・第六部・第一章を、
【苦悩】→【由縁】に変更しました。
お久しぶりです。
本当に長々と凍結状態、すみませんでした!
これからはちょくちょく更新できるだろうと思われます。
どうぞ最後までお付き合いくださるよう、よろしくお願いいたします。