3
******
「わたしね、呉蓮さんが好きなの」
そう言われたのは、いつだったろう。
そのときにはすでに、彼女に心を奪われていた。
呉蓮が杜彦のもとへ帰ってきたのは、翌日の真夜中のことだった。
杜彦がいつになく神妙な面持ちで彼をじっと待っているのに対し、呉蓮はいつものようにゆったりとした足取りで、顔には笑みさえ浮かべていた。
「まだ起きていたのか」
「寝ていられるかよ」
フンと鼻をならし、じろりとにらむ杜彦をよそに、呉蓮はふっと笑うと、縁側の隣に腰掛ける。
「……今からわたしがすることは、禁忌だ」
唐突だった。
なにかと思えば、呉蓮は笑みを消し去り、いやに生真面目な様子でこちらを見つめてくる。
やや気おくれしたものの、杜彦はごくりと生唾を飲み込むと、静かに頷いた。
呉蓮はそれを確認し、またいつもの柔らかな表情に戻ると、そっと異色の眼を細め、静かに口をひらく。
「わたしが話すことは、絶対に他言してはならぬこと。さすればわたしはこの命を枯らし、おまえや村人たちの身体を八つ裂きにし、消し去らねばならない……言っていることがわかるか?」
鳥肌がたつ。
ああ、本当にこの人物はただものではないのだと改めて知り、杜彦はわずかに身震いした。
だが、引き下がるつもりはさらさらない。
自分には、大事なものがある。
なにを犠牲にしたって、守りたいものがあるのだから。
「わかった。呉蓮兄の言うことは、掟にそむくことなのだろう?」
少年がキッとした目つきでそう言うの聞くと、彼は満足そうに口の端をあげて、こっくりと頷く。
「ああ。わたしが話すことは、禁忌。そしてこれを今から耳にするおまえも、また掟破り――命の保証はない」
「それでもいい」
それでも、魔世さえ守れれば――。
杜彦は小さく手を握り、力を込めた。
この決意だけは、揺らがないと、自信がある。
呉蓮はどこか楽しそうに声をあげると、遠くを見つめながら、そっと話し出した。
その土地には、その土地の神様がいる。
昔から、そうだった。
ただ、それを神と呼びはじめたのは人間で、もともとは『ヌシ』と彼らは呼んでいたんだ。
命というものは、様々なものに与えられている『時間』だ。
無限ではない。
いつしか、朽ちてしまうし、けれど、その有限を延ばしていくことは罪ではないと、彼らは思っていた。
土地にも命がある。
『ヌシ』の命が尽きれば、その土地も死んでゆく。
人間がこの土地で生活していこうと決めたとき、『ヌシ』は気づかなかった。
自然の生き物の感覚はゆるやかで、いつも気づくのが遅いから、たとえ人間たちが彼らを傷つけていたとしても、それに気がついて怒り出すのはだいぶ後になってからだ。
それに彼らは根が優しく慈悲深いから、なかなか怒りはしないのだろう――ただ、一度その怒りを発すれば、人間などひとたまりもないのだが。
人間が『ヌシ』に気づいたときも、『ヌシ』は人間には気づいていなかった。
ただ、彼らには守り人がいて、守り人は人間をどう扱おうかと頭をひねっているところだった。
駆除すべきか、共存すべきか。
それは大いなる問題であった。
ただ、人間たちは『ヌシ』を『ウジ』と呼んで祀った。
そうして『ヌシ』を敬う人間を見た守り人は、人間を生かし、共存させてやることに決めた。
――それがそもそも、間違いだったのだ。
調子にのった人間どもは『ヌシ』の生命を削り、とうとう滅ぼしてしまった。
『ヌシ』の怒りは深く、人間たちが後悔したとて、とうていおさまるはずもない。
人々は『ヌシ』に――『ウジガミ』に生贄をささげることで、怒りを緩和しようと試みたのだった。
強力な怒りの力ばかりとなり、本体をなくし、滅んだ『ヌシ』のその怒りだけは生きつづける……それを緩和するため、人間は彼らのなかから生贄をささげる。
そうやって今まで、つづいてきた。
そして、それを見守るのは、守人――希少な能力を持った、イキモノだ。
それが、呉蓮。
『ヌシ』の守り人のひとりである。
「だから、生贄は絶対だ」
呉蓮は生真面目な顔で言う。
震えだす少年に構わずに、つづける。
「そして生贄を選ぶのは、人間じゃない――守人だ」
杜彦は息を殺す。
呼吸の仕方など、忘れてしまったように。
つまり、魔世を選んだのは、呉蓮だというのか?
彼女の命を差し出せと命じたのは、この目の前にいる男なのか……?
杜彦はハッとひとつ息を吐いて、なんとか自分を落ち着かせようと試みる。
怒りか、虚しさか、なにかわからない感情に呑み込まれそうで、自分が恐ろしかった。
そんな少年を、異形の守り人は感情のない目で見ている。
そしてやがて静かに、そっと口をひらいた。
「……たしかに、わたしは守り人だ。『ヌシ』さま亡き今、この土地でいちばん不思議な力を秘めているのは、人間が脅威と考えるのは、守り人という存在……だが」
いったん言葉を切り、じっと杜彦を見つめる目に力を込めて、呉蓮は言った。
「守り人はわたしだけではない」
杜彦は浅い呼吸を繰り返し、静かに頭のなかに彼の言葉を反芻させる。
そうでもしないと、理解が追い付かない。
落ち着け、と何度も自身に言い聞かせ、そうしてやっとのことで、言葉を紡ぐ。
「では……他にはだれがいるというんだ」
呉蓮の眼は、冷たい。
というよりも、どんな感情を彼が抱いているのか測りかねる。
それでも彼の口元だけは、ひっそりと笑みに歪んでいた。
「――鴉たち」
山の烏たちが守り人であるなど、信じられようか?
しかし、実際に呉蓮には不思議な力があるわけだし、その呉蓮の住まうところには烏たちが群がっている。
その光景を思い出し、杜彦は静かに震えた。
山の御堂、その裏庭、細い木の枝、そこには黒い花――烏が集う。
ぞっとした。
では、あの黒い鳥たちは、不思議な力を持ち、そうして何気ないそぶりで自分たちを観察していたのだろうか?
「いいのかよ。あの烏たちに、おれたちの会話は筒抜けだろう?」
恐怖を押し殺したせいか、幾分怒ったような声音になってしまったが、呉蓮は構わずに、軽く笑って応えた。
「構わん。奴らはわたしよりも力がない――だから日々、わたしに不満を抱いている」
「なんだって?」
呉蓮は唐突だ。
杜彦は彼の銀色の瞳を見つめながら、いったいこの男はなにを考えているのかと頭をひねった。
異形の少年は、目をとじて、また静かに口をひらく。
「……もし、わたしがおまえを助ければ――それはおのずと、魔世の命を救うということになるのだろうが――掟を破ることになる。絶対の条件を破ることになる。『ヌシ』さまの意向を断ったとされ、わたしは守り人の座を奪われるだろう」
目を見開き、淡々と語る少年を見つめ、杜彦はどんな顔をすればいいのかわからなかった。
まさか、自分のためにそこまでしてくれるというのだろうか?
「そうしたら、呉蓮兄は死ぬのか?力を失って……」
「いや、死にはしないよ。ただ、この土地での力を剥奪されるから、もうこの土地にはいられない……ただ、そうなると」
呉蓮の目が細まる。
軽く笑っているのに、なぜか言いにくそうに一回息を吐く。
それを見て、杜彦は彼が言わんとしていることがわかる気がした。
「そうなると――魔世は、わたしについてくるだろうな」
そんなの、わかってる。
「ああ」
杜彦はぶっきらぼうに言葉を落とす。
だれにも渡したくはない。
けれど彼女は、自分を求めることはない。
いつもいつも、その大きな力を求めている。
「それでもおまえは、魔世を助けたいというのか?」
「助けたい」
少年の答えは即答であった。
それだけは、揺るぎがなかったから。
ただ。
「でも、それでは呉蓮兄が損している。なんの得にもならないじゃないか」
ちょっと眉根を寄せ、そう心配する少年に、呉蓮はにやりと口元をあげた。
「幸い、おまえは魔世のことを好いている」
なにをいきなり言いだすのだろう。
杜彦は怪訝な顔をして、彼を見つめる。
「そして、幸か不幸か、魔世はわたしを求めている……」
「なにが言いたいんだ」
呉蓮がわからない。
自分が魔世に好かれていると気づきながら、彼は彼女をきらいだと言いきった。
なぜかは知らないが、まったく不可思議なことである。
呉蓮はにっこりと笑うと、おもしろそうに声をたてた。
「では、おまえもわたしについてくればいい」