4
******
目をあけたとき、目の前が異様に明るくて驚いた。
暗闇しかないそこからまばたきした次の瞬間には、強すぎるくらいの配色に彩られた部屋に出た。
色とりどりの着物がところせましと並べられ、化粧の品や髪飾りが散乱している。
ぎょっとしたのも束の間、今自分が立っているのは彼女の部屋であると知った。
いつもきれいに整えられ、片付けられているはずの彼女の部屋が、今は見違えるほどに散らかっていたのだ。
――なにかあったのか?
不安が胸をよぎる。
しかし……
「ぐっ」
思わずうめき声がもれてしまった。
どくどくと腹から赤い液体が流れている。
熱く、ぬるぬるとする。
――行かなくては。
あいつに、会いたい……。
どこだろうと身体をひねった途端、自分の血液で足が滑り、その場に崩おれてしまった。
情けない。
もう立つことすらままならない。
……会えないのだろうか。
このまま、ひとりで死ぬのだろうか。
あいつが部屋に戻ってきたとき、血だらけで息絶えたおれがいたら、どう思うだろう?
泣いてくれるだろうか。
怖がるかな。
……迷惑はかけたくないな。
死ぬなんて、考えなかった。
自分がいなくなる……物理的ではなく、意識的に、自分というものが死ぬという瞬間、おれはなにを思うのだろう?
そんなこと、今までこれっぽっちも考えなかった。
ありえないと思っていたから。
どうなるのだろう?
魂となるのだろうか。
意識は残るのだろうか。
沖聖のように、ああやって愛しい者のもとへ来れるだろうか……?
――無理だろうな。
たぶん、そんな気がする。
はっと息を吸い、再び地に足をつける。
がくがくと視界は震える。
膝が情けないくらい笑ってる。
せめて、おまえの面影だけでも、見たかったんだ……。
「華虞殿……」
ぽつりとつぶやく。
それだけで、胸に熱い広がりが生まれる。
雫が湖面に波紋をのせるように、ゆっくりと、一瞬のうちに。
――ああ、もう……
「な……な、り……あき……ら……さま?」
ハッと顔をあげる。
幻聴かと思った。
けれど、たしかに見たかった顔がそこにあった……!
戸口に目をぱっちり見開いて立っていたのは、妖艶な女だった。
しかし、いつもは頭の上に結っている髪も、今日は飾られることなく下ろされている。
いつもは紅い唇も今は薄い桃色で、化粧もなにもしていない。
それが逆にうつくしく、儚さを伴わせていた。
「華虞殿」
その名を呼ぶ。
着飾っていない彼女を見るのは、はじめてかもしれない。
瞼が赤く腫れている……泣いていたのだろうか?
胸が唸る。
切なさと苛立ちがわいた。
「だれが泣かせた?」
今の状況さえ頭から吹っ飛び、低く唸るように聞く。
彼女はびっくりとしていたが、やがてゆっくりと唇に弧を描いた。
「いつ来たんでぇす?うち、知らんかったぁなぁ」
ぱたぱたとうれしそうに駆け寄ってくる。
それはまだ幼い少女のようで、なんだか笑みがもれた。
華虞殿はすぐそばにくると、さらに笑みを落とす。
いつもどこか探れないような印象を与えていたが、なぜか今日は素直な気がする。
化粧の皮をはいだからだろうか、などと無粋なことをちらと思った。
「でも、うれしいわぁ……うち、アンタぁはもう来てくれなぁいかぁとおも――」
彼女の顔色が一瞬で変わる。
表情をなくし、やがてみるみるくもり、衝撃を受けたように目を見開いた。
――おれの腹部から流れる血を見て、震えていた。
「……な、成彰さま……そ……そんな……!」
ぶわりと涙が散る。
次から次へと、歯止めがきかなくなったかのように、彼女の目からはらはらと涙がこぼれた。
かすむ視界をなんとか堪え、おれは彼女に触れた。
その白い頬も、ふっくらと柔らかい唇も、見た目よりずっと指通りのよい髪の毛も……すべて愛しい、おれのもの。
「泣くな」
ささやく。
どうか、笑ってほしい。
「あ、あんたぁが!うちを泣かせてるぅのは、あんたぁのせい!」
彼女らしくない。
ぽかぽかと力なくおれの肩を叩きながら、まるで赤子のように泣きじゃくる。
年上のはずなのに、幼く見える。
頼れるはずなのに、脆く思える。
ずっとそばに、いたかった――。
「もう……なんでぇ、いなくならぁんでぇ!」
――あ。
ぐらりと揺れた世界。
力が抜け、彼女に寄りかかるように倒れた。
息が苦しい。
呼吸が荒い……。
――いやだ。
死にたくない。
おれをその場に寝かし、華虞殿は手をぎゅっと握った。
「おれは……もうすぐ、消える」
口に出した声は、思いの外か細い。
「時空の……歪みから、移動し、てき、きた……だから……たぶん、もう、もたない……」
この身体はもうすぐ消滅するだろう。
えぐられた腹部からは、大量の血が流れている。
華虞殿は震えた。
「あんたぁは、ばかだ!」
ぽたぽたと、彼女の涙がおれの頬に落ちる。
握られた手に、さらに力が込められる。
「うちはもう、あんたぁを忘れられぇない!」
そのぬくもりがあたたかくて。
なぜだろう。
目頭が熱い。
「愛してぇる」
――気づけば、涙が頬を伝っていた。
唇にあたたかく、そっと触れられる。
手をのばし、彼女の頭をぐっと引き寄せた。
……ずっと、寂しかったんだ。
呪いもすべて、人のせいにして。
ずっとわかっていた……おれのしていることは過ちだと。
けれど、今更引けなかった。
もう、なにをすればいいのかわからなかった。
心に空いた孤独の穴は、いつもおれを苦しめてた……。
――だけど。
いつの間にか、穴は埋まっていたんだ。
意地をはって見なかっただけで。
……華虞殿……おれは――
その瞳を見つめる。
吸い込まれてしまいそうだ……。
華虞殿はそっと目を細め、やがてゆっくりとその柔い唇を動かした。
「……ここには、あなたさまの御子がいますのに」
その言葉に、ハッと顔をあげて目を見張る。
女はただ自身の腹を押さえ、柔く儚くこちらを見ている。
聞こえた言葉を何度も頭のなかで反芻し、それがもたらす驚きに呆然とする。
そして、頭にある光景が幻のごとく映り、鮮明に蘇る……。
「――フユ」
口から出た言葉に戸惑ったが、次の瞬間には自分でも驚くほど穏やかな表情を彼女に向けていた。
「娘ならいいな」
ぽつりとつぶやく。
心は不思議なほど晴れていた。
「男は血生臭いだけだから。娘なら、ただ幸せになればいい」
いつしか口元を緩ませ、笑みを浮かべていた。
おかしなものだ。
死をまえにして、こんなに幸せだなんて。
なにもないと思っていた。
けれど、おれにはなにかがあったのだ。
遺してゆける、そんなものがあったのだ。
「成彰さま、うちはあんたぁが好きですぅえ」
華虞殿がはらはらと涙を散らしながら言う。
おれの手をとり、自身の腹にやさしくもっていった。
新たに宿る命。
おれの欠片もあるのだろう。
愛しく、苦しいほど胸にせまる――そんなものたち。
この心臓を熱くしてやまない、この感情を知った。
おれのこども。
華虞殿との、欠片……。
守りたい、と思った。
思ってから、彼女のまなざしがさめざめと思い出された。
――早良。
あいつも、守りたかったのだろうか。
沖聖という、愛しい者の遺した欠片を。
いつか子は大きくなって、力をつけて、考えることを知って……
抱きしめてやりたい。
この手で、力強く。
なあ、だめかな。
もう、無理かな?
華虞殿。
おれも、おまえが好きだよ。
口をぱくぱくと動かしてはみても、そこから聴こえるのは妙に儚く薄い息の音。
もはや声すら、出せぬのか。
熱い雫が頬を伝う。
これが涙なのだと、感銘に近い気持ちで思った。
きれいだなぁ。
目をあければ、涙に濡れた頬を赤らめている華虞殿。
瞳の奥にやさしい光が見える。
想像してなかったよ。
この命が尽きるとき、こんな想いをするなんて。
なぁ、思ってもみなかったよ。
涙がこんなにあたたかいなんて、はじめて知ったよ。
「なっ!成彰さま!」
引きつった声がする。
華虞殿がつかんでいたおれの手が、その指先がぼろりと砂になって崩れる。
さらさらと消え失せていく。
――ああ、時間だ。
ごめんな。
もうガタがきたんだ。
マヨナカの力は強大で、おれなんかがどうこうできるもんじゃなかった。
時空の歪みから無理矢理ここへきた身体は、もはやもたない。
けれど最期に、ここへ来たかった。
彼女の顔を見たかった。
「成彰さま……いやぁ……うちは……うちはあんたぁを愛してぇますぅ」
ふっと笑みが浮かぶ。
そっと手をのばし、彼女の髪に触れた。
「華虞殿」
かすれる声で、やっとささやいて。
おれは彼女に口付けた。
柔く、ただ、軽く触れるだけの。
ふっと目を閉じた世界は闇だ。
ああ、だけど。
知っているか?
……ふとあたたかさを感じて目を横にやると、きゅっとおれの手を握る者がいた。
浅黒い肌の、目ばかり大きな子供――嶺遊だ。
「おれを待っててくれたのか?」
驚いて問うと、子供はふっと柔い笑みを見せた。
「ありがとう」
逝こう。
ともに、天へ。
華虞殿、その腹の子を頼むよ。
どうか幸せにして。
――目を閉じた世界は、はてしない闇だ。
堕ちるのか昇るのかわからない、そんな闇に身を委ねる。
だけど、知っているか?
あたたかい心臓に、その渇いていた心臓に、今は熱い潤いの感情が宿っている。
それを感じて、ぎゅっと胸に手をあてた。
なぁ、知っているか?
闇だ。
死んだらそこには、闇が生まれる。
そして――見えるのだ。
光が、見えるのだ。
暗闇に輝く、あたたかい無数の光が――。