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『コッチダヨ』
意地の悪い、声。
虫唾が走る。
こんな奴に、姫を渡したくはなかった。
いや、本当は渡したくて仕方がなかった。
はやく、はやく、と急く気持ちを押しとどめて。
その方はそこにいた。
身体はなく、ただぼんやりと黒い霞がかったようなものが漂う。
なにも知らない人間ならば、きっとただ黒雲が闇のなかで浮かんでいるように見えるだろう。
もっとも、この深い闇のなかで目が見えればの話だが。
『連レテキタカ』
マヨナカさまはうれしそうな声を震わせた。
やがてそれは人間の手の形をとり、姫を愛しそうに撫でる。
虫唾が走った。
『コノ入レモノハ壊レナイダロウカ?』
高ぶる感情をどうにか押し殺して、おれは口を開く。
なるたけ不快感を口に出さぬよう気をつけて。
『大丈夫だよ。これは長い間屋敷の主を努めたんだ。不足はない』
『ソウカ。ナラバイイ。サッサト、ソレヲ渡セ』
うやうやとうごめき、黒いぼんやりとした霞はさっと手をのばしてきた。
それを肩でかわして、おれは姫を抱きしめたまま距離をとった。
『何事ダ、喜助』
『いや、待て。そう焦るな』
まだ、やらない。
そう易々と渡せない。
『取引しようぜ、マヨナカさまよ』
おれはずっとこいつのためにやってきた。
苦しみではなかったけれど、確実になにかを失ってた。
人間の最期の念がたっぷりつまった目玉を喰うごとに、その闇の念をマヨナカさまの一部にするごとに、おれはなにか冷たいものを取り込んでいるようだった。
彼らの最期の苦しみや嘆き、憎しみ、それから懐かしさや愛しさ……そういう感情を、まるで自分のことのように感じられた。
そうして沖聖との思い出を、あの彼との最後の記憶を胸に刻み込む。
やがておれは生きている人間の目玉まで喰うようになった。
生きている人間の目玉には恐怖がたっぷりある。
それは美味だった。
そう、たとえば……翠冷の目玉、とかな。
あいつは目の前で妹を殺されたから、信じられないくらいの怨みの念がつまってた。
屋敷に侵入した人間は烏に襲われるのがふつうだが、おれは翠冷を生かした。
例外だったが。
たぶん、期待していたんだ。
恨め、怨め、ウラメ……
そうしておれを追ってこい。
おれは逃げも隠れもいない。
ここにいる。
――奴はおれにたどりついた。
半分おれの方から行ったようなものだが、あいつとは偶然出会った。
運命かもしれない。
思ったとおり、翠冷は怨みを忘れてはいなかった。
あのまなざし――鋭く、冷たい、憎々しい目。
きらいじゃない。
あの憎しみに満ちた眼は、たまらなかった。
『取引キ?オマエ、ダレニ向ッテ口キイテル?』
『その言葉、そっくりそのままお返しするぜ』
笑みがもれる。
とめどなく、たまらなく。
『貴様は姫の身体がなきゃ復活できない。まだ微力な闇に過ぎないのさ』
カカカと笑ってやると、マヨナカさまはあからさまに不機嫌になった。
『契約違反ダ』
『ああ、別にかまわないね。おれは不死身が飽きてきたし……』
おれは姫を足元に下ろし、懐から小刀を取り出して、それを彼女の首に押し当てる。
『さあどうする。取引きするか、しないか』
黒い靄はうらうらと揺れていたが、やがて理不尽だというように唸ってから、やっと承諾した。
すべて、うまくいった。
『おれからの要求は、沖聖の魂の解放だ』
沖聖、今、自由にしてやるから。
言っただろ?
アンタには暗闇は似合わない。
安らかな眠りが似合ってるよ。
光に満ちた世界にいくがいい。
おれのことなんて、忘れてしまってかまわないから。
『姫を取り込んだら、アンタは沖聖の魂を解放する。約束だ』
『承知した』
小刀をしまい、もう一度姫に目を戻す。
長い睫毛が瞳をおおい隠し、白い肌に漆黒の髪がかかっていた。
繊細で、透明で、気高く、うつくしい姫。
おれはおまえを犠牲にしたなんて思ってないよ。
後悔もしてない。
ただ運命に任せ、任せながら自分で道をつくっただけ。
姫、運命はいつも足元に転がってるもんなんだ。
それを拾うも捨てるもそいつ次第だし、選ぶのも自分なんだ。
おれはおまえの運命に、良くも悪くもすこしばかり手をかしたに過ぎない。
さあ、選べ。
それとも、おまえが運命に選ばれるか?
奇跡みたいだった。
おまえと出逢えたこと、奇跡だと思った。
おれの心はいつも冷めていたけれど、烏の王は虎狼の心を持っていたけれど、姫に触れて心地よかったんだ。
あたたかく、苦しかった。
沖聖に求めてたものが、姫にはある気がしたんだ。
恋だとか、家族愛だとか、そんなのに比べられないほど大きい、無償の愛。
許してなんて言わない。
ただ、すこしばかりさみしいだけだ。
おれはかつてのおれになるから。
烏の王に、なるから。
この心が揺れぬよう、まっすぐに進めるように。
姫を抱えあげ、おれはそのまま彼女をマヨナカさまに放った。
黒い闇の靄は、獣が餌にたかるように、姫にのびていった。
……姫の身体が黒い煙に侵食されはじめるのを、おれはじっと眺めていた。
じわじわと姫を取り込み、それは大きくなる。
はじめ、そいつは姫を確かめるように触っていた。
入れ物の質を確かめるように。
それから満足したのか、そいつは姫の身体に溶け込むように入りはじめる。
正直、気味が悪かった。
姫はこのまま、魂をマヨナカさまに取り込まれ、身体をあけ渡すことになるだろう。
これで完全に屋敷の主が現れるというわけだ。
闇を力に持つ、烏の屋敷の主……
そいつはいったい、なんのために存在するのか?
姫が闇に呑み込まれるのをぼんやりと眺めていると、頭には走馬灯のように彼女との思い出が流れていった。
木の実とりに行ったこと、烏いじめを発見したこと、赤ん坊の烏をなだめたこと、紫のピアスをあげたこと……
思えば、いつだって姫は好奇心旺盛で、明るい娘だった。
屋敷の主になってからも、彼女はよく笑っていた。
いや、ちがう。
すこしずつ、彼女から笑顔が消えていったんだ。
派閥があり、辛さもあり、陰で起こる陰気な出来事に姫はうんざりしていた。
――彼女は独りだった。
おれを過剰に頼りはじめ、どこか自分から一線を引きはじめた。
真夜中には、夢で人間の母親の子守唄を聴いたらしい。
彼女はいつだってさみしかったんだ。
あれは、たしか南と北の国が戦争をはじめたころだっただろうか。
おれの留守中に、人間がふたり屋敷にあがっていた。
いやな予感はしていた。
なにか、なにかがあったと。
そいつらが屋敷を出ていった日、おれは彼女の指に光る銀色の指輪を見て、ぞっとした。
姫が、屋敷の姫ではなくなったように思えたのだ。
案の定、屋敷はときどき姫から離れるようになった。
そうして気がつけば、マヨナカさまは徐々に力を取り戻しつつあった。
――そのとき、黒い影がうめいた。
姫、沖聖……
どうかこの執着を赦して。
いつからか――沖聖を疑ってからか、烏になってからか、目玉を喰ってからか、姫と出逢ってからか――わからないけれど、おれはそれに執着してた。
なになのかはっきりとはつかめず、ただ漠然と望んで求めていたものだ。
ただ、わけもわからず、失いたくなかった。
そう、すべては……
だれかの寵愛を得たいから。