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「“食う”とは“呪う”ことでございます」
彼女は悪びれる様子もなく、淡々とそう言ってのけた。
「だから、貴様は呪術師かなにかか。狐か狸が化けているのか」
イライラしながら、刀の切っ先を女の目の前にまであげる。
突き刺すぞと言わんばかりに詰め寄るのに、彼女はすこしも動じなかった。
ただニヤリと不気味に笑むだけ。
それが異様にぞっと恐怖を覚えさせた。
おれは早良后と師実の話を聞いた翌日、すぐに早良后の部屋を訪れた。
そして今は彼女を問いただす真っ最中である。
薄紅や緋色の着物を何枚も重ね、彼女は悠々と座ってこちらをながめていた。
「正直に言え。なにが狙いだ」
早良后はにっと赤い唇を横に広げ、猫のような笑みをもらす。
「わたくしはなにも。ただ、幼皇さまを愛しているのですわ」
「うそをつけ。ふざけるな!」
だんだん腹立たしさが込みあげてくる。
憎らしい女はなおも愉快そうに笑うだけだ。
焦り出す自分が情けない。
この女は妖術を使えるのではないだろうか?
「……魂胆をはけ。さもなくば、おまえの命はないぞ」
唸るように脅しをかけたが、その効力はないに等しく、彼女はとうとう声をあげて笑い出す始末だ。
「ふふふ。なにをおっしゃるかと思えば……ふざけているのはあなたの方。命が危ういのも、あなたさまのほうではございませぬか」
「なんだと」
眉をひそめる。
早良后は目を細めてほくそ笑む。
「だってそうでしょう。わたくしはすでに幼皇さまの后。そのわたくしを侮辱したのはあなた。わたくしの一言で、あなたの首はどうにでもなりましょう」
にっと唇を横にあげる。
おれにはどうしても妖狐に見えてしまうほどの黒い笑み。
じっとその瞳を見つめていると、彼女は愉快そうにつづけた。
「幼皇さまはわたくしを愛していらっしゃる」
「そんなはずはない。おまえたちはただの政略結婚だ」
「あなたさまこそ、本当のあの方を知らないのですよ……あの方はいつもひとり。信頼できる者など皆無」
キッとにらみつける。
本当の幼皇さま?
そんなの、おれがいちばんよく知ってるに決まってる。
彼のよさは、おれがいちばんわかってる。
「幼皇さまは、おれを信頼していてくださる」
自信はある――それだけ強い絆のつもりだから。
「本当に?ならば、どうしてあの方は、もっとも重要な仕事を忍にさせているのでしょう?」
くくっと女は笑った。
忍?
そんなもの、いない。
幼皇さまは、忍なんてもってない。
むっと顔をしかめたおれをあしらうように笑顔で丸めこみ、早良后は小首を傾げた。
「わたくしはあなたを気に入っているのよ。だから教えてあげたのに。“食う”ことはすなわち“呪う”こと……本当のことよ」
「ならば」
逃がさぬように、その瞳を捕える。
真意はなにか、見逃さぬように。
「ならば、呪うとはなにか」
早良后は表情を変えず、衣ずれの音もさせず、いつの間にか近づき、おれの頬にその白い手をそえていた。
ひんやりとした冷たさに身がすくむ。
「……“呪う”とは――」
彼女の唇が弧を描く。
白き指先はおれの頬をすべり、髪を這い、額へと導く。
そしてそのまま、女はおれの額に口づけした。
「――“虜”とすることですよ」
「なんなんだ、あの女は!」
絶対妖怪にちがいない!
すくなからずそんな考えに陥ったおれは、やはり動揺しながら足早に彼のもとへ向かっていた。
早良后はとんでもないやつだ。
それだけは、よーくわかった。
おれは絶対に色仕掛けなどには堕ちない。
それだけの自信と信念はあった。
それに、幼皇さまへの忠誠も。
部屋につくと、待ってましたとばかりに彼が顔をあげる。
その瞳は不安と期待に揺れていた。
「幼皇さま、あの女はだめです。やはり、師実の手先です」
幼皇さまはため息をつき、おおげさに首をすくめた。
「やはりそうか。だが……こちらには動きようがないな」
髪を軽くかきあげる彼をぎょっとしてながめる。
どういうことだ?
「ああ……わたしの部下は、すでに師実の息がかかっているらしい」
「なぜ?!そんな情報、知らなかった」
「確信がなかったのだ。だが、先ほど最も信頼できる忍に調べさせてやっと証拠もつかんだ」
最も信頼できる忍……?
かすかに震え出す。
早良后の言った言葉が、頭のなかで何度も反響する。
幼皇さまは、おれなんか頼りにしていないのか?
忍なんて、なんの感情も読めない人形みたいなやつじゃないか!
昔から、その生い立ちやお立場から、幼皇さまは人を信用できない方だということはわかってた。
おれ以外には、心から信用などしていないと……
そう、自負していた。
けれど、ちがったのか?
幼皇さまにはおかかえの忍がいて、きちんと筋のある情報を手に入れられて……
本当はおれは不要なんじゃないか?
「……でな、周りは師実の手が回してあって、どうにも動けない。わたしには、味方はいないようだな」
さみしさをたたえる幼皇さまの瞳を、おれはぼんやりと見ていた。
いつものように、励ますこともなく。
「どうした、喜助……?」
顔をのぞきこんできた幼皇さまを見る。
「おれ――いや、師実の周辺を探るよ」
振り切るように顔を背ける。
しかし、次の瞬間、幼皇さまの厳しい声が響いた。
「それなら忍にやらせている。おまえはもう、下がっていろ」
驚き、彼を見る。
その顔は無表情の仮面に覆われていた。
おれはやはり、用無しか?
苛々とした感情が込みあげる。
嫉妬のような苛立ちを抑えられぬまま、おれは部屋を飛び出した。
――なんだ、これ。
どうしてこんな……。
こんなの、あの女が正しいみたいじゃないか。
結局、どちらにしたっておれはもう幼皇さまの力にはなれぬということ。
それが痛いほどわかった。
「おまえはもう下がれ」
幼皇さまの声が、頭を締め付ける。
おれに、仕事をくれないのか。
おれは、あんたのために働きたいのに!
拳をつくり、壁にぶつける。
けれど、どうしたって高まった感情を静めることはできそうになかった。
「おや。だれかと思えば、幼皇さまの付き人ではないか」
ふいに声がかかった。
金髪に近い髪色の、堂々とした男――師実だった。
「喜助……です」
じとっとにらみながら言う。
そもそも、元凶はこの男である。
師実はカカッと豪快に笑うと、そのままなにか含んだ様子でこちらに近づいてきた。
「そうだ。おまえも、我が妹・早良と幼皇さまを祝福してくれ。なんとめでたいことか」
おれはなんの感情も見せず、ただ軽く頷く。
「ええ。早良さまはたいへんうつくしいお方。幼皇さまにはお似合いかと」
「そうであろう……なにしろ、幼皇さまから婚約を申し込まれてなぁ」
その言葉に思わずぎょっとして、おれは取り乱してしまった。
――幼皇さまから?!
そんなばかな。
彼は……
彼と早良后は、政略結婚のはずではなかったのか。
「互いに好いている者どうしでよかったではないか。おふたりにははやくお子を授かってもらいたいものだな」
師実はそう言うと、おれの肩をばしっとたたいて行ってしまった。
呆然と立ち尽くすおれを残して。
……お互い好いていた?
どういうことだ。
おれは――幼皇さまは、嘘をついていたのか?
言葉が出なかった。
今、自分がどんな感情なのかもわからない。
ただ、自信がなくなった。
自分にも、絆にも。
あまりに脆く揺らぐ自分が、いちばん信じられなかった。
……それからだ。
おれがどことなく幼皇さまと距離をもったのは。
溝ができたのは。
今思えば、すべて師実の策略だったというのに。
そのときのおれは気づかず、それから数年後、幼皇さまのもとを離れた。
しばらくはただ呆然としていたが、やがてひとりが身にしみて、ようやく自身のおろかさに気づく。
――たとえ幼皇さまが信じてくれなくとも、おれが彼を信じればよかったのだ。
もっといえば、おれは幼皇さまなんかじゃなく、沖聖を信じればよかった。
師実によって謀反の疑いをかけられたおれの命を救ってくれたのは、他のだれでもない、幼皇さま――いや、沖聖だった。
おれは、ひとり。
たったひとりの大事にすべき人を見失ったおれは、ひとり。
それもそれで、当然だと思った。
……烏と契約を果たしてからしばらくして、おれは西の国の事件を耳にした。
それは、幼皇さま暗殺計画の情報だった。
もう別になんの未練もなかったが、興味がわき、おれはひとり、屋敷の主探しも含めて旅だった。
そこで起こったことは――今でもこの目に焼きついている。
決して忘れることなどできない。
忌々しく、切ない、身を切り裂かれるような、記憶の欠片……。
――いちばんの追憶。