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幼皇さまは、ハツラツと、それでいて雅な方だった。
彼を見れば一目でわかる。
彼がいかに優秀で、心優しく、天の気質をもっているか。
おれは幼いころより、拾われた命を彼のために使うべくしてきた。
兄弟のような、強い絆の主従関係だった。
幼皇さまが二十歳になられると、戴冠式と時を同じくして、宮でいちばんの美女とされる早良さまが嫁がれた。
晴々とした祭りがつづき、宮はいつになく活気づいたものだった。
「喜助。今夜は付き合え」
その日……結婚の祝いの席で、幼皇さまは隠れておれにそう言った。
承諾の意を込めて軽く頷いたが、正直わからなかった。
仮にも妻になられる早良さまは幼皇さまと一緒にいたいはずだろうが、いいのだろうか。
ここ最近表に出してはいないものの、どうも幼皇さまは早良さまから逃げたいらしい。
なんとなくそれが読み取れ、心配はしていたのだった。
夜になり、月は雲の影に隠れてしまった。
幼皇さまの自室にお邪魔する。
人払いされており、なかにはおれと幼皇さましかいなかった。
黒々とした眼をあげ、彼はこちらを見つめた。
ヒスイの首飾り、玉を連ねた帯飾り、滑るような生地で仕立てられた衣……きらびやかな衣装に包まれ、頭のてっぺんには黄金に輝く冠をしている、幼皇さま。
そんな飾り立てられた衣装のなかにいたのは、今にもその重圧に押し潰されそうな少年に見えた。
その豪華すぎる衣装ゆえにか、歳よりはるかに幼く見えたのだ。
「……どうするか」
彼はぽつりとつぶやく。
そこで改めてハッとさせられた。
彼は幼皇の位についてまだ一年とたっていないのだ。
不安も、責任も、やることなすことすべてを見られる地位は、彼にとって重荷のほかならないはずだ。
ただでさえ、父上さまが他界したのはだれかの陰謀だと噂されていたというのに。
揺らがないはずはないのだ。
おれはすばやくその場にひれ伏し、頭を地にこすりつけた。
「……なんのまねだ」
頭上からは、あきれた幼皇さまの声がした。
「はっ。面目ございませぬ。この喜助、幼皇さまの苦しみに気づくことができませんでした」
まだ顔はあげない。
胸ははりさけそうだった。
彼の喜びはおれの喜びであり、彼の苦しみはおれの苦しみのはずだった。
けれどおれは彼の悩みに気づかず、のうのうとしてきたのだ。
彼の右腕になりたかった。
「ちがうぞ。喜助はやや、せっかちなところがあるようだ」
くくっと含み笑い、彼はそっと頭から冠をはずした。
長く伸ばされた髪が揺れ、闇に溶ける。
それから彼はにっと笑むと、口調をやや弾ませて言った。
「顔をあげろ、喜助。今日は兄弟として、おまえと話がしたいのだ」
……どんなにうれしかっただろう。
まだ十五だったおれは、はじめてあこがれの幼皇さまから認められた気さえしたのだ。
自負かもしれないが、彼のおれに対する信頼は絶大だった気がする。
たとえ周りの人間がいかにおれを薄汚い、だれの血ともわからない下種のように扱っても、彼だけは変わらぬ信頼をくれた。
だからおれも、全力でそれに応えたかった。
――おれが、幼皇さまのいちばんの側近だから。
「どうもあの女は好かん。気に入らないのだ」
彼はおおげさにため息をつき、うなだれた。
「でも、かなりの美人だよ。いいじゃん、それで」
おれはさっそく口調を壊し、なれなれしい調子で彼を見つめた。
陰で彼からの許し――もとい命令――が出れば、おれたちはいつだって昔のように慣れた関係をつづけてきたのだ。
「そんなことではない。わたしはあの女を見ていると、どうも能面と話をしている気になるのだ」
「能面だって?沖聖、いくらなんでもそれはないよ」
沖聖とは、幼皇さまの真名である。
「いいや。言い過ぎなものか。あやつはやはり、師実のさしがねであろう……」
沖聖は目がしらをおさえると、唇を噛み締めて、まるでなにかに耐えるように黙ってしまった。
月光が部屋に満ち、青白く発光している。
彼の白い頬にあたり、幻想的な雰囲気できらきら光っていた。
沖聖は指先で黄金の冠をもてあそびながら、しばらく思案していたが、やがて意を決したのか、眉根を寄せて話しはじめた。
「師実がな」
という、つぶやきのような声からはじまった彼の話は、次第におれを窮屈な世界へと追いやっていった。
「師実がな……第二の位にふさわしいというのだ、あの女は」
あの女とはもちろん早良さまのことである。
そして師実というのは、彼女の実の兄であり、宮でも若くして重職につくという実力者であった。
ごくりと生唾を飲み込む。
「あの女は、自分の兄上ならば頼りになり、失敗もせず、安心して政治をまかせられる、と。だから第二位の地位に、とな」
第二位……それは実質、裏の権力者だ。
第一位が幼皇さま。
もしも、その次の位が師実にいくのだとしたら?
彼は理想的な幼皇さまの右腕となるだろう。
そして――おれはどうなる。
「沖聖は、おれがいらないのか!」
我慢ならず、強い口調で彼に言った。
いつだっておれをいちばん近くにおいてくれたのに。
おれはもう、不要なのか?!
「ばか。そんなことはどうでもいいのだ」
あきらかに呆れた様子で言うと、沖聖は闇に呑まれそうな瞳をわずかに歪めた。
そして、恨みがましくこちらを見据え、突如厳しい声音で言った。
「おまえはまだ、そんなことを考えるのか。わたしはおまえを手放さない。おまえは唯一のわたしの信頼できる人間だ。どうしてそれがわからないのだ」
ハッとする。
途端、威力をなくした台風のごとく、おれはしょげきって目を伏せた。
「ごめん。そんなわけないのに……おれは、沖聖のいちばんの側近になるから」
「期待しているよ」
ふっと笑んで、沖聖は顔を緩めた。
次の日。
おれは真意を知るべく、師実の近辺を探った。
「政治をまかせられる」
という早良后の言葉は、よく読み取れば、
「政治はしなくていい」
ということだ。
つまり、政治の実権を師実に渡し、幼皇さまはお飾りでいろ、と。
……許せない。
そんなこと、させるものか。
師実の屋敷に忍び込むと、運よくすぐに目的の人物を発見した。
師実の部下である。
彼らがいちばん多く警護にあたっている部屋が、きっと師実の部屋であろう。
どうやら早良后の来客のようだった。
屋根裏に入り、そっと耳をすます。
会話ははっきりと聞こえた。
「……好調に進んでおりますわ、兄上さま」
板の隙間からそっとのぞくと、彼らの姿が見える。
「ぬかりなく、な。まだ青二才といっても、やつは仮にも幼皇だ」
「ええ……けれど、あやつの下には、信頼できる部下などほとんどいませんのよ。幼皇とは、まさしく孤独の王。幼き皇子ですわ」
卑劣な笑みをもらす女。
まっしろい肌に、長く垂れた髪。
輪郭がぼやけたような、そんな神秘的なうつくしさをもつ女だった。
早良后は桃色の着物を滑らせ、ゆるゆると笑いながら男に近づいた。
「お兄さまも、意地の悪いお方。あやつはわたくしの好みではありませぬのに」
師実は早良后の顎に手をかけ、くいっと持ち上げる。
紅すぎる唇が弧を描いていた。
「食わぬというか」
金色に見える髪の、不思議ないでたちをした男は、おもしろがるようにそう問う。
彼女はさらに笑みを深めると、軽く舌舐めずりして言った。
「あの子供も、食ってよいのですなら」
「あの子供?」
「幼皇のそばにいる、あの邪魔坊主のことでございますれば。いやに陰陽の激しい人間と見えますわ」
師実も納得したように唸る。
「あの餓鬼はたしかに邪魔だ。たしか、名は喜助……」
うれしそうに声をあげ、彼女は笑う。
化け物か、人間か。
もはや区別は難しかった。
「次の満月に。その子供を呪ってごらんにいれましょう」