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空を仰ぐ。
このところ、ずっと夜空しかながめていなかったような気がする。
夜空はきらいじゃない。
暗闇といっても月光があり、星々はきらきらと輝き、なんとも言えぬ美しさをかもしだしているのだから。
それに、闇自身にはどちらかといえば好意的であると思っていたし、闇を忌み嫌うことなく、恐れもないと自負していた。
昔は、なにも見えぬことが恐くて仕方がなかった。
見えぬものは恐怖であり、脅威であり、自分を脅かすものであると思っていたし、なにより暗闇は暗黒の誘いであるとともに、敵を隠してしまうという恐れもあると考えていた。
そういう頭ごなしの概念が消えたのは、きっとあの闇の虜となった少女のせいだ。
彼女は人間であり、そして人間ではなかった。
矛盾しているが、していない。
彼女はどこか、特別に感じられた。
『夜呂』
はっとした。
たしかに今、聞こえた。
……姫の声だ。
どこだ?
姫!!!
そして気づく――自分はまだ、夢をみているのだと。
そこはやはり夢のなかで、辺りは再び闇に包まれていた。
『夜呂……わたしは、大丈夫』
また、かすかに声がした。
夢中でその声にしがみつく。
『けれどわたしはしばらく、力を回復しなくちゃいけない。だからしばし眠ることにするよ……ああ、だけど夜呂のせいじゃないから』
たしかにこの手で殺した姫……
けれど彼女は生きている!
のろのろとしか感情は動かなかったが、ただ姫の声だけが、熱く心を動かしていた。
だが、“眠る”とはどういうことだ?
『闇がわたしの味方をしてくれた。幸い、闇は屋敷の一部……わたし自身。わたしは死なない』
淡々と彼女は言葉をつづける。
『気をつけて、夜呂……敵は裏の裏にいるはず。わたしもわからないけれど、きっと。まずは気をつけて。成彰が動き出すだろうから。もしかすれば、もう、すでに……』
姫はいったん言葉を切ったようだった。
おれは言葉を失った人形のように、ただその声にすがる思いで耳を傾けていた。
『真実の光は暗い厚い闇の雲に隠されている。敵はそうとうな手だれを連れているだろうから、やすやすと見えてこないだろうけれど……とにかく、気をつけて』
「……わかった」
なにか言いたい。
喉まで出かかるのに、それを言葉にできなかった。
もどかしくはがゆい最中、はっと思いついて口から声を出した。
「姫、交換しよう!」
言ってからあわてて付け加える。
「――ピアスを」
『ピアス?』
声だけが響く。
ゴクリと生唾を飲み込みながら、おれは自分の耳に触れ、そこにある固く冷たい感触を確かめる。
「たしか、姫もしていただろう――紫のピアスを。だからおれの赤いピアスと交換しよう」
ピアスはもともと、守護を意味するものであり、お守りとして親が子供につけさせたりするものだ。
昔からつづく古い家柄の出の人間や、由緒ある貴族などは、そんな習慣があった。
ピアスはとても高価だったため、なかなか手に入りにくく、今では一般の人間で身につけている人物は少ない。
だが、はじめて会ったときから、彼女は紫に輝く光るピアスをつけていた。
たぶん、喜助がどこからか盗んだのだろうけれど。
『これを……?』
姫はすこし渋っていた。
おれは夢中で声を張り上げる。
「そうだよ。約束のしるしに!」
『約束?』
「また、再会できるように。直接あって、互いの守りを返しあえるように」
約束しよう――再会を。
しばし沈黙が広がり、だめだったかとがっかりしたそのとき、にわかに姫はふっと笑い声をあげた。
『ふふ、いいよ。では、交換だ――』
ちりっと耳が焼けるように痛んだ。
悲鳴をあげそうになったが、次の瞬間には何事もなかったかのように、なんともなかった。
首を傾げると、天から姫の笑いが飛んできた。
『成功したよ!わたしの耳には夜呂の赤がある。夜呂の耳には、わたしの紫がある』
うれしそうに言う姫とは逆に、おれはまだ驚くことすらできなかった。
これは夢だ――
夢だが、意識のなかだ。
たぶん、おれは呉の言うとおり、意識のなかへ入り込めたのかもしれない。
だが、現実じゃない。
それなのに、物質の移動ができるはずはないではないか。
提案したのは自分だが、それは実際には不可能なはずだったのに……
――いや、相手は姫だ。
鴉の屋敷の、気高き闇の姫。
一筋縄ではゆくまい。
この際、小難しい話はなしだ。
おれは気をとりなおして頷いた。
「じゃあ、約束だよ。必ず、逢うと。それから――」
それから……
あの約束は、憶えているだろうか。
三年前に交した、あのくるおしいほど切なく、愛しい思い出のなかの約束は。
指輪にかけた、おれの幼い思いは、まだこの胸にしっかりとあるのに。
彼女に面と向かって言えず、くすぶるように燃える想いが、あるのに。
姫は憶えているだろうか。
――迎えにいく、といった約束を。
「姫、おれは――」
『待っているよ』
言葉が遮られ、やさしい声音で彼女は言った。
待っているよ……。
おれの思いが読めたかのように、姫は汲み取って言ってくれた。
姫も、忘れてはいなかったんだ。
拳をつくり、ぎゅっと力を込めて握る。
夢ではない。
今度はちゃんと、君のぬくもりに触れたい。
だから――約束は、ふたつ。
おれは戦う。
まだ見ぬ敵が障害になるならば、自ら切り捨てる。
謎は解き明かし、必ず姫のもとへゆこう。
すべては、君にもう一度、逢うために。