2
******
梔子色の衣をまとった女が泣いていた。
彼女は会いたがっているのだ。
だれなのかよく思い出せないが、おれは彼女のことを知っていた。
一目だが見たことがあるはずだ。
どこかで目にしたはずだった。
なのに思い出せない。
顔にもやがかかってしまったかのようにぼやけて思い出せなかった。
彼女は泣きながらおれに訴えていた。
――暗紫に会いたい、と。
夢だ。
目が覚めるとかなり体力を消耗していることに気づき、驚いた。
まるでだれかと意識のなかで会話したかのようで、どっと疲れている。
「だれだったんだろう……」
今も耳に、彼女の泣き声が聞こえるような気がした。
「夜呂さん……?」
ふいに声をかけられて我にかえる。
心配そうにこちらを見やる加世と目があい、はじめて自分の息が荒々しいことに気づいた。
「大丈夫?汗もびっしょりよ……うなされていたみたいだし」
言われ、額にかいた滝のような汗を腕で拭う。
悪夢をみたような気分だった。
「ああ、うん、平気。すこぶる調子がいい、とは言い難いけれど」
おれは今、山小屋にいた。
そこで加世、空弥、暗紫、それから山の神である天狗の呉と、彼に嫁いだ烏の黄祈とともに生活している。
山のなかはとにかく寒かったが、呉のおかげで小屋のなかだけは暖かい。
本格的な冬が到来し、おれたちはこうして一旦山に引き込もる感じとなった。
吹雪はひどいが、これを利用して敵から姿を隠せている。
本当はすぐにでも喜助を救出しに行きたかったのだが、相手に妖術を使うトカゲや烏の仲間がいることや、相手はおれが死んでいると思っていること、季節や人数不足、その他諸々を考慮すると、すぐには動けないのが現状だった。
呉が言うには、夜桜方についた烏は蒼於という名で、なんでも黄祈の兄貴らしい。
『彼は喜助の価値を知ってるはずだ。そう易々、喜助の身体をどうこうしようとはしないだろう』
呉は神妙にそう告げた。
それからにわかに表情を和らげて言った。
『あいつは伊達に不死身じゃないよ』
それから蒼於たちは三人兄弟で、蒼於の兄にあたるのが玄緒といって、喜助に反発しているらしい。
その結果、玄緒につく側と喜助につく側でわかれてしまったようだ。
「でも、待てよ……夜桜やトカゲは南国とつながっているのか?」
思案したあげく、おかしなことに気づく。
夢――悪夢だった――のなかで姫が言っていたことを、おれは一言だって忘れてない。
烏は南国の成彰にも味方にいったはずだ。
『真の支配者は、だれか……それが鍵になりそうだ』
「ああ、そうだね。夜桜か、トカゲか、成彰か……はたまた烏か」
どこかですべてはつながっている。
今はよくわからないけれど、きっと裏で、その高みから、糸で人形を操るように、おれたちを動かして笑っている人間がいるはずだ。
そうやって、暗紫や夜桜という駒を使って……。
『今はまだ危険だが、もうすこししたら宮に探りを入れよう。もしかすればなにかわかるかもしれない』
呉はそう約束した。
冬は厳しさを連れてやってきたが、そう悪いことだらけでもなかった。
なにしろ、小屋に篭るということで、そこに集まるものたちの姿が見えてくる。
どんな生き物か、性質か、性格か、考えか……互いに絆のようなものができてくる。
そうしていろりを囲んで笑いあっていると、幸せですべてを忘れてしまいそうだった。
……忘れたかった。
おれはちゃんと笑えているだろうか。
ふと自分の掌を見ては思うのだ……ああ、この手は汚れている、と。
恐い。
いつまただれかを襲うかしれないその恐怖に、悪夢をみない夜はなかった。
姫は……
正直、姫がどうなったのかはわからなかった。
知りたくないというのが本心かもしれない。
呉に聞いた話では、おれは意識のなかで姫を殺したらしい。
おれが姫と会った場所――それは姫の意識のなかだった。
彼女に巣食う、闇のなかだった。
直感だが――そこはきっと、あの烏の屋敷の最奥の間なのかもしれない。
なんとなく、そんな気がした。
そこへ飛ばされたおれは、トカゲに身体を奪われ、姫に手をかけた。
だから、意識のなかで姫は死んだのだ。
あそこへひとり残したまま、去ってきたのだ……。
結局彼女がどうなったのか、知る術はない。
春になれば、そして蒼於や夜桜からの警戒が薄れれば、黄祈が屋敷まで飛んでいってくれる。
『大丈夫。屋敷からは音沙汰ないもの……姫さまは生きてるわ』
黄祈はそう励ましてくれたが、自信はなさそうだった。
おれは、考えないようにした。
気にしないようにした。
今は他にやるべきことがあるのだと。
そうしなければ……きっと立つことすらままならない。
崩れてしまう。
闇にのまれてしまうだろうから。
「夜呂さん、どうぞ」
いつの間にか加世がそっと包み紙を差し出していた。
「呼び捨てでいいよ」
それを受け取りながら苦笑して言ったが、彼女は小さく首をふるだけだった。
ここ最近、彼女はやたらと尊敬してくれる。
たぶん、今までのことや、烏たちとの出会いを話し、それからどうして加世たちを見つけたかを詳しく聞かせたときからだ。
加世曰く、命の恩人、になってしまったらしい。
「そういうわけにはいかないわ。あたし、やっぱりあなたを尊敬しているもの。それに、いずれは王さまになるのだし――さ、それを早く飲んで」
促され、包みを開けて粉薬を喉に落とした。
苦味が広がったが、もう慣れている。
精神安定剤……とでもいうのか、毎日飲むようになっていた。
「あと半月で、春がくるわ……」
ぽつりと加世がつぶやき、かすかな緊張を覚える。
あと半月……そうすれば、いよいよだ。
喜助救出の際、加世の弟・空弥と暗紫は近くの山寺へ預けることになっていた。
寺には位高き僧侶がおり、彼ら一族はずっと呉の治める山を守ってきた。
それに最近では人間に化けた黄祈が寺に偵察にいき、僧侶は信頼できるらしいということを確証していた。
『お寺のお坊さん――護然さまっていうのだけど、すごく素敵な方!他にも孤児を養ってるみたいだった。それに、とても不思議な人間ね。怒ったときは、もう何年も修行を積んだ人間のようにいかめしい男に見えるのに、笑うとまだまだ青二才……純情無垢な青年に見えてしまうのよね。それなりに年は重ねてると思うのだけど……とにかく、いい人に変わりはないわ』
まだ幼いふたりが安全な場所に残るのは当然であり、もちろん加世も残ることを提案したのだが、彼女は憤然してそれを拒否した。
「あたしは毒が扱えるわ。それに、喜助がこうなってしまった原因は、あたしにもあるの。どうして堂々と安全なところに残っていられるかしら?」
そんなわけで、喜助救出にはおれと呉と加世、烏の屋敷への伝達には黄祈が向かうこととなっていた。
あと半月で、それを実行する。
無意識に武者震いがおこった。
『夜呂、すこしいいか』
夕暮れ時になって、小屋の前で黄昏ていると、端正な顔立ちの少年が話しかけてきた。
不思議な魅力をもった少年であり、同時に山の神としてあがめられてもいる呉は、こんな状況ではとてつもなく頼もしい存在である。
それにしても、見た目はどう見たって人間の子供のようだ。
やはりすこし神々しさはあるものの、天狗だとは思えない。
黄祈も呉も、動きやすいことや、空弥や暗紫が怖がらないためという理由で、常時人間の容姿をとっていた。
なのでまだ本格的には、今自分は人間ではないものとともに生活しているという自覚はないに等しい。
呉は隣に腰かけたが、なにも言おうとはしなかった。
しばらくして手が寒さにかじかみはじめたころ、ようやく口を開いた。
『……もしかすれば、おまえは他人の意識をさ迷えるのかもしれない』
いきなりだ。
なんの前置きもなくそう告げた呉であったが、本人はかまわずにつづけようとする。
「ま、待って。なんの話だ」
『だから、おまえの話だ。トカゲとかいう男に操られ、身体をのっとられたことがあっただろう?そのときの影響は大きく、おまえはまだ万全ではない』
たしかに、精神が安定せず、気分も優れない日が多かった。
だから加世から薬をつくってもらっている。
『そういうわけで、おまえはまだ不安なままだ。だからたぶん、他人の意識に探りこめるかもしれない、ということだ』
にこっと笑い、満足そうな顔をする呉をあきらめて見つめる。
おれは彼の言っている話を、半分も理解できていないのだろう。
意味深長な笑みをたたえたまま、呉はぽんとおれの肩に手をのせた。
もう話はおわりのようだ。
『つまり、すこし意識してみてはいかがかな。今夜、夢に落ちる前に』
……わけがわからない。
どういうことだ。
つまり、おれになにをしてほしいんだ?
呉はさっさと小屋へ姿を消し、ただひとりぽつんと立ち尽くすおれ。
意識してみる?
つまり、自分にはそういうことが可能だということ、それを意識して眠ればいいのか?
――他人の意識へ入り込めることを……?
ハッとする。
なぜなら、おれには思い当たる節があるからだ。
――夢だ。
おれは夢で、そんなふうに思ったことがあったではないか。
……他人の意識のなかで、会話したみたいだ、と。
心臓がどくどくと唸り、手にはいつしかびっしょりと汗を握っていた。
やれるか……?
確信はなかったし、だからどうなんだという気持は強いが、やってみよう。
すくなくとも、普通じゃない。
今のおれの状態も、呉という存在も、きっと普通の人間には信じられない、得られない世界なのだから。




