第三章 約束
こんにちは!
2009年もよろしくお願いします!
とりあえず、三章突入です★
では、どうぞ!
【第三章 約束】
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ひたひたと、響くのです。
雨雫のように、ひたひたと。
暗闇に木霊し、それは広がってゆくのです。
川に落ちた一滴の雫が、波紋を広げてゆくように。
ひたひたと、ひたひたと。
響くのです。
川床から這い出てきたように濡れた女を冷めた目で見やりながら、彼はふうっと煙を吐いた。
煙は白く立ち上り、冷たい空気のなかへ消えていく。
ただでさえこの国は寒いのに、女が来たことで余計に肌寒く感じてしまう。
いらいらしながら、彼はしばらく無言でいた。
彼の髪色は金に近い明るい色だった。
なによりもまず目を引き、とても目立つ。
彼は惜しみもなくその色をさらけるように髪を伸ばし、無造作にたらしていた。
耳には金銀の鎖が、首には宝玉がかけられ、着ている衣の生地は上等な代物で、富をこのうえなく体現している男であった。
瞳は鮮やかな空色がかっていて、どこか異形を思わせる風貌である。
彼はしばし唇を舐めていたが、やはり苛々はおさまりそうになかった。
それというのも、すべてこの女のせいなのだ。
自分はこの目の前でうずくまる女に、それ相応の酬いをしたずであった。
それにもかかわらず、この薄汚い女はあろうことか裏切りを働いたのだった。
「なぁ、つまんねぇことはやめようや」
女の顔を足で軽くこづく。
ころんと顔が上を向き、彼女が気を失っていることがわかった。
だが、それすら彼には苛立ちの材料にすぎない。
「だれも寝ていいとは言ってねぇぞ」
男は今度は力を込めて、彼女の脇腹を蹴りあげた。
途端に彼女は咳き込み、小さくうめいて気を取り戻す。
「な?詳しく、聞かせろよ。おれが欲しいのは真実だ」
「ああっ!……ゃ……ぉ、おやめ、くださ――」
女の髪をつかみ、無遠慮に持ち上げて顔をのぞきこむ。
泥や血で汚れた顔に、いくすじかの涙が伝っていた。
女は彼のもとにくるまでもいくつか拷問を受けていた。
そのせいで衣はすりきれ、髪も顔も汚れ、身体中に傷をつくり、ようやく彼の前に通されたのだ。
そのころには身も心もぼろぼろで、彼女は口を開くことすら億劫だった。
そんな彼女に冷水を浴びせ、男は容赦なく乱暴したのだった。
「おまえは殺すのには惜しい人材だ。わかるだろ。おまえには他人が心を許すという武器がある。だからおまえに妖術をかけてやったのに」
すでにぐったりしていた女をきちんと座らせ、彼は彼女の肩をつかんで支えてやった。
無理矢理押し付けられた格好ではあるが、もはや女には自分で座るという気力すらなかった。
「おまえはまだ使えるよね。あの妖術は苦労したんだから」
「……はぃ……」
消え入るような声で女が返事をすると、彼は満足そうに笑って、わざとらしいやさしい声音で言った。
「おまえの顔は、だれひとり憶えてない。特徴がわからなくなってる。そうだろ?まだ忍び込めるよね」
「……も、もちろん、です――」
「なら、よかった」
ニコッと笑みを浮かべ、彼は彼女の肩から手をぱっと離す。
途端に彼女は支えを失ってくずおれた。
それを見て彼はおもしろそうに笑いながら、再び立ち上がった。
「次はないよ。せいぜい、あの正任とかいう犬の女を演じてな」
「――はっ」
短く答え、女はあえぐように目を伏せた。
めざとく男は女の様子に気がつき、釘をさす。
「おまえはおれの道具だ。人形だ。それを忘れるな」
「はい」
「任務を肝に命じ、真実だけを持ってくればいい。難しいことではないだろ」
「はい」
運びかけた足を戻し、彼は再度膝をついて女の顎に手をかけた。
びくりと身を引き、彼女は恐怖の色を瞳に宿す。
「怖かったら、ちゃんと仕事しなきゃ。失敗は許さないからな」
「――は、はい」
女の声が震えるのを聞いて、彼は満足そうに笑みを浮かべた。
「なんなら、あの正任って男、始末しておこうか。邪魔だろう?」
思い切り不適に笑ってやると、案の定、女は今度こそ隠しきれないほど動揺して恐怖を露にした。
彼にとっては意外であり、おもしろいことであるのだが、彼女は昔から身体に染み付いた痛みや精神的苦痛の恐怖よりも、他人に危害が及ぶかもしれないという恐怖のほうが勝るらしい。
ガタガタ震えながら、女は汚れきった顔をあげて泣きすがる。
「どうか、お許しを。あ、わ、わたくしめはどうなってもかまいませんから……」
そんな女の様子にため息し、彼は苛ついた口調で言った。
「なぜそんなに?ただの真似ごとだろう。仮の感情を本物と勘違いするなど、おまえには百年はやいよ」
「あっ……も、申し訳ありま――」
「もういいや。面倒だし、おまえの仕事の出来次第にしとく。だから――」
瞬間、男の眼は暗く光った。
冷たい空気が、一瞬にして張り巡らされる。
「――だから、もう二度とおれのもとから逃げ出そうなんて思うな」
鞭よりもすばやく、棘よりも鋭く、雪よりも冷たく、身体を貫いては蝕む声。
恐怖の暗闇のなかで、なんどこの声に悲鳴をあげたことか。
女は動けなくなったように固まってしまった。
男はすぐに表情を和らげ、立ち上がる。
金に見える髪がきらりと光を帯た。
暗闇でも、この髪色は太陽のように美しいと思ったものだ……女はそんなことをぼんやりと思い出していた。
「じゃ、すぐに奴のもとに戻れ。おれは今、おかしな黒い空飛ぶ客人と会食なんでな」
男は言い、女はあわててひれ伏す。
そのまま立ち去るかに見えたが、彼はおもむろに振り返り、笑ってから口を開いた。
「期待してるよ、静紅――いや、千深」
「御意……」
女は深くひれ伏しながら、つぶやくように付け加えた。
「……おおせのままに、成彰さま――」