第二章 芳香
【第二章 芳香】
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暗闇だった。
なにもない。
高い木々が茂り、ひっそりとした空間を作り出している。
時は昼時なのに、明るく照っているはずの陽の光はひとつも入ってこない。
まるで真夜中のように、真っ暗なのだ。
ここは杉山。
ツンとしたにおいのなかで、彼女は立っていた。
『黄祈よ』
ふいに、朗々とした声が響く。
それは木々に反響し、やがてめぐりめぐって彼女の耳に届いた。
彼女はすぐに明るい表情になって、声の方へ顔を向ける。
『呉さま!』
少女の声は明るい。
鈴の音のような、ころころ転がる、耳に心地よい声音だ。
昔から烏らしくないと言われたが、別に構わなかった。
大好きなふたりの兄はそれを誉めてくれたし、なにより愛する人にも可愛がられた声だからだ。
『今日はなにをしてきたんだい』
ふっと彼女の隣に降りたって、彼は言った。
ちょうど十四、五歳くらいだろうか。
少年は利久色の衣を着、短めの袴をはいている。
腰には紅蓮の鞘をおさめ、銀鼠色の髪を揺らす。
赤い顔の、緑色の眼をカッと見開いた、鼻の高い顔をした面をつけ、烏の羽でできた扇を手にしていた。
はたから見れば、異形――しかし、彼からはどこか神々しさが感じられた。
『呉さま、今日は村の子供たちから、木の実をもらいました!みんないい子たちです。やっぱり、呉さまの村の子供たちはかわいいです』
少女はにこにこと言う。
この少女もまだ十三、四歳くらいだろう。
彼よりも一回り小さく、薄墨色の髪の毛をふたつに束ね、淡い狐色の小袖を着ていた。
ただ、彼女の額には、赤い爪痕のような痣がみっつ入っていることが、どこか格別な雰囲気をかもしだしているようだ。
『呉さまのおかげで、毎日楽しいです。呉さまも、一緒に山を降りればいいのに』
少女の言葉に、少年はかすかに苦笑する。
『いや、わたしはいい。幼子は苦手なのだ』
年のわりに落ち着き、どこか長く生きた様を思わせる少年に比べ、少女は年相応の明るく、好奇心に満ちた表情をしている。
『呉さま、だめですよ。あたしたち、夫婦なんですから』
すこし眉を寄せた彼女を、少年はいとおしく思った。
少女の名は黄祈。
今は少年――彼女の夫である――の力で人間の姿をしているが、もとは立派な一族の烏だ。
以前出会った山の神である天狗にみそめられ、めでたく嫁ぐこととなった。
山天狗――名を呉という。
彼も人間の子供の姿をとっているが、もう百年近く生きている、れっきとした天狗だった。
人間が好きな嫁のために、彼女を人間の姿に変えて、毎日村におりることを許可していた。
ふたりは仲むつまじく、やがて子供に烏天狗を授かることになるのだが、それはまだ先の話だ。
『ね、呉さま』
黄祈は甘えた声を出し、少年のつけていた怖い面をとる。
そのしたには、うつくしい顔がある。
銀色の瞳をした、黄祈の大好きな人の顔。
ふふっと満足そうに笑い、彼女は呉の首に腕をまわす。
愛しさに、溺れそうだった。
しかし……そんな甘い時間も長くはつづかないようだ。
呉はさっと目を光らせ、神経を尖らせる。
黄祈も抱きつくのをやめ、静かに耳をすませた。
それは山の主だからわかる、わずかな悲鳴だった――なにかくる。
『この気配は、烏だ』
つぶやく呉に、黄祈も頷いた。
『うん。でも、烏だけじゃないよ。もっと、大きい鳥があとからくる……』
目を見張り、彼女は天狗の衣にすがりついた。
――血のにおいがする。
呉は安心させるように頷くと、さっと高い木の枝に飛び乗り、すぐに気配のほうへ去っていった。
残された少女はただ呆然と、かつての仲間が死なないことだけを祈った。
……こんなことははじめてだ。
嫁いでから、ときどき一族のだれかが遊びに立ち寄る程度だったから。
兄さんたちも、たしか屋敷から出れないはずだった。
かすかな胸騒ぎを覚えながら、黄祈は静かに夫の帰りを待った。
やがてしばらくすると、かすかな葉のこすれる音がして、松の枝が頭上からわさわさと落ちてきた。
ハッとして見上げると、呉が堅い表情のまま、一羽のぐったりした黒い鳥をかかえているのが目に入った。
『呉さま!それは……』
絶望的に叫ぶ彼女に、天狗は口を開く。
『まだ息はある。すぐに薬草をもってきてくれ』
言われるまでもなく、少女は駆け出す。
止血のための葉や、薬草などをもって、黄祈は彼のもとへ戻る。
小さな岩の上に烏をのせ、呉は布で止血しているところだった。
烏は羽がちぎれ、赤黒く染まっている。
あまりの光景に、彼女は吐気を覚えた。
『呉さま、なにがあったんですか』
呆然と立ち尽くしながら、黄祈は尋ねた。
呉は薬草を傷口にあてがいながら、チラと少女を盗み見る。
『……鷹や鳶だった。わたしの領域に入ってからは、追い掛けるのをやめたが……あれは、操られている動きだったな』
浅く息を吐き、意識のない烏を見やる。
生きているのが不思議であった。
『たぶん、この烏は、なにか用があったんじゃないか?それをよく思わない奴がいて、きっと刺客を向けてきたのだろう』
てきぱきと手当てをつづける呉と話しながらも、黄祈は傷ついた烏から目が離せなかった。
烏は――黄祈の知り合いだったのだから。
『この烏は、姫さまや喜助さまの側近です』
か細い音で言うと、呉はかすかに顔をしかめた。
『だとすれば、この烏を狙ったものは、案外姫君の近くにいるのかもしれないよ。そうでないなら、情報が漏れすぎだ』
心臓が痛い、黄祈はそう感じた。
喜助と馬があわなかったのはだれか?
屋敷で唯一、喜助に反抗を見せたのはだれか?
それはまちがいなく、彼女の兄であった。
『凛、ごめんね……』
涙をたらしながら、黄祈は烏につぶやく。
もしかしたら、自分の兄がこんなひどいことをしたのかもしれない。
一番上の兄は少々、暴力に走る傾向がある。
理想のため、自身の正義のためならば、犠牲など仕方ないと考える奴なのだ。
それにもし、鷹や鳶などといった大物を操れるのだとしたら、それはきっと次男の力かもしれない。
頭がきれる次男は、他の鳥からもかなり尊敬されていたのだ。
それに彼女の兄上たちは、やや残虐なところがあった。
『……呉さま、あたしに暇をください。あたし、いったん姫さまのところに――屋敷に戻ります』
意を決して言う。
反対されるかと思ったが、予想外に呉は頷いた。
『わかった。護衛をつけてやるから、はやく出発しなさい』
その言葉を聞き、黄祈はバッと身をひるがえし、一瞬のうちに烏の姿に戻る。
やはり額には、赤い爪痕のような痣のある、うつくしい烏だ。
呉は柔く笑み、烏をなでる。
『気をつけて。この傷ついた烏のことは、まかせていいから』
『ありがとう、呉さま』
烏はにっこりと笑うと、勢いよく地を蹴りあげる。
屋敷まで、天狗のおこす風にのればすぐつくはずだ。
どうか、この不安がただの勘違いであるように祈りながら、彼女は陽の光まで飛び出していった。