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目の前に姫がいる。
それは信じられないようなことだ。
黒い闇色の瞳も、烏羽色の髪も、白い肌も……
見まちがえるはずなんてない。
その人は、たしかに姫だった――が。
「姫……じゃない」
やはり、ちがう。
見た目は姫にそっくりなのに、彼女はどこかおれが知っている姫とは別人のような気がした。
表情がまるでちがうのだ。
姫は気高く、誇りを持ちながらも、どこかで寂しそうに笑う。
自分に自信がないのだ。
対して目の前の彼女は、いやに自尊心が高そうで、人を使うことしか考えてなさそうだ。
自分に自信が満ちあふれているように。
姿かたちは驚くほどそっくりなのに、表情だけでこうもちがうものなのか。
唖然としていると、彼女は顔を歪ませた。
突然真っ青になって、おれを見る目を変える。
なんだ?
どうしたっていうんだ。
「動かないで!」
突如、声が跳ねた。
はっとして振り返ると、あの泣いていた少女が、幼皇帝のそばで、なにやら白い包み紙をもって叫んでいた。
「夜桜さま、あたし、もう遠慮しません!道は自分の力で、切り開く」
夜桜さま、というのは、どうやらこの姫に似た女のことらしい。
彼女はフンッと嘲笑って応える。
「血迷ったか、加世殿。弟君を見捨てるつもりですか」
「うるさい!もう騙されない!どうせあなたたちは嘘しかつかない」
加世と呼ばれた少女は顔を真っ赤にしてつづけた。
「あたしは死なない。生きることをあきらめちゃいけなかった。あたしは命を救われた――だから、あたしはこれを無駄にはしない!」
加世はおれに目を移し、らんらんと瞳を輝かせて言う。
「助けていただいて、ありがとうございました。だけどもうすこし、あたしに協力してください」
こくりと頷く。
これが先程まで泣いていた少女か?
「なにができると言うのです?弟君は――」
「幼皇さまを人質にします。それから、あなたたちの命も」
鋭く言うと、加世はさっと持っていた白い包み紙をかざす。
「これは猛毒です。ばらまけば、空気にとけてすぐにあたしたちの身体を蝕みます。死にたくなければ、はやく空弥を返して!」
しんと静まる部屋。
みな一様に動けなかった。
やがて、夜桜が静かに口を開く。
「……正任、千深を呼びなさい。空弥殿を連れて」
覆面男がひとり、その言葉でそっと動いた。
そのときにはもう、男たちはふたりとも顔布を取り払っていたのだが。
正任……?
聞いたことのある、名。
ああ、あれはたしか……。
「正任?」
顔を見れば、たしかに似ている。
どうしてだ?
ここには、懐かしい顔ばかり。
呼びかけに、男はきれ長の眼をこちらに向ける。
ほら、やはり。
まったく似ていないようだけれど、その目元に、鋭さにそっくりなところがある。
ふいになつかしくなる。
「もしかしてアンタ、高安の弟?」
高安が言ってた。
正任という、弟がいると。
けれどきっと弟は、自分を恨んでいるのだと。
両親は高安ばかりを溺愛し、出来損ないの弟を他人へ売ったのだとか。
そのときはまだ高安も幼くて、弟を助けることはできなかった。
彼はまだ、弟を守れなかったことを悔やんでいる。
正任は目を見開き、それを揺らす。
それから食いしばるように、唸った。
「兄なんていない。おれは、ひとりだ」
ああ、高安に会わせたい。
ふたりのわだかまりを解かせたい。
もどかしい。
高安がどんなに弟を思っていたか、悔やんでいたか、言いたいのに。
所詮おれの言葉じゃ、うまく言えない。
じりじりとする気持ちで、正任を見る。
「いいから、はやく行きなさい」
しかし、夜桜の声で我にかえった正任は、さっさと部屋をあとにした。
「……あなた、何者?この国の人間ではないですね」
夜桜が油断ならないまなざしてこちらを見た。
それから声を低め、つづける。
「あなたは――あの烏の化け物と、同じことを言った。二度も」
世界が、まわる。
うれしいような、切ないような、色を帯て。
……烏の化け物?
ああ、それはきっと。
あのなつかしいもの。
あのときの烏たちのどれかが、ここにきたのか?
「――喜助」
背後で声がした。
加世と呼ばれた少女が、目を大きくさせて言った。
「あなた、喜助を知ってますか」
部屋にいた人間たちは、みな息を呑んだように思った。
視線を感じる。
ああ、もちろん。
「――知ってる」
彼は、姫の兄。
不死身の烏。
忘れるはずなんて、ないじゃないか。
加世はさらに目を見開き、涙をためる。
それはうれし泣きのようだった。
ぎょっとしていると、彼女はぽろぽろと涙をこぼしはじめ、やがて聞き取りにくい声で言った。
「本当……?」
なにがなんなのか、わからない。
ただ、心臓はひどく脈うっていて、ただならぬ感じがしてた。
緊張、期待、不安……いや、そんなんじゃない。
武者ぶるいのような、ゾクリとしたもの。
喜助が、いるのか?
ここに――では、姫は?
姫が、いる?
すくなくとも、目の前の少女は、喜助のことを知っているのだ。
それから、ここにいる他の奴らも……。
烏の化け物か。
三年間、忘れはしなかった。
あのときのことは、今でも鮮明に、ある。
この頭を、心を、おれを支配している。
強すぎて、濃すぎて、どうしようもないんだ。
あの屋敷が、なつかしくなる。
烏が、いとおしくなる。
あの、記憶の存在が、大きすぎるから。