第一章 明星
まだ長くなる予定です。
短く切り詰めるよりも、丁寧に長く書いたほうが読み応えあるかな、なんて思いまして。
これは思い残すことなく書き終えたいので!
どうぞしばらく、お付き合いください^^
〜カラスノシシャ〜
出逢いは、運命か
偶然か
はたまた奇跡か
流れる風に深緋の袴
黄丹の鎧はすべてを隠し
漆黒のみ笑うだけ
蘇芳の衣を身にまとい
あざやかなのは梔子のみ
使者はきた
時はきた
烏羽色をもってして
【第一章 明星】
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はっとして、彼女は顔を上げた。
長くうつくしい黒髪が揺れて、白い肌にかかる。
闇色の瞳を大きくさせ、彼女は薄紅色の唇をすばやく動かした。
『――姫?』
呼ばれて、彼女は再度黒髪を揺らし、怯えた目で烏を見つめた。
烏はすこし驚いて数回まばたきをすると、姫の肩に静かに止まって鳴いた。
『落ち着きなさいよ。もう!喜助が不在なんだから、しゃんとしなさいよね』
「き、喜助――ああ、そうね」
深呼吸し、目を閉じて、姫は我を取り戻す。
深く、深く、闇に身を沈めるように。
『それで、今度はどうしたワケ?喜助は心配いらないさ。どうせ、心配したって無駄になるのがオチだよ』
「そうね。だけど――なんだか、不安なの。喜助が、おかしいの……わたしには、わかる。ああ――もちろん、朱楽の予見の力は頼りにしているよ」
肩をすくめ、朱楽は黒い羽を整えながら言った。
『そりゃ、あんまりありがたくはないよ。所詮、アタシの力は“予見”でしかない。“真実”ではないってこと』
「でも、朱楽の力は本物だって、喜助も言ってた」
にっこり笑う姫に、朱楽は目を見開いて意外な表情をしたが、すぐに目を細めて笑った。
『まぁね。だけど――たまにね、思うんだよ……アタシの予見の力よりも、もっとしっかりした力があるんじゃないかって、さ』
烏はまばたきし、姫をじっと見つめた。
黒い瞳と黒い瞳が互いを映し出す。
『たとえば――アンタと喜助の絆……とかね』
目を丸くして姫は烏を見つめかえす。
朱楽がそんなふうに思っていたなど、信じられなかった。
意外だった。
「……そうか」
実際、その通りかもしれない。
数日前、姫はひどい発作に襲われた。
そのときしきりに喜助の異変を訴えていたのだ。
朱楽も予見の力でなにか感じとったらしく、早々に手を打ってくれたようだが。
敏感に異変を察知してしまった姫は体調を崩したが、翌日にはすっかり戻っていた。
しかし、それでも姫の不安だけは消えず、今もずっとシコリのように残っているというわけだ。
「そういえば、朱楽は喜助に手紙かなにかを出したの?どんな手を打ってくれたの?」
ふと疑問に思って尋ねると、朱楽はうんざりしたように首を振った。
『ああ、ちょっと手間がかかったさ。なにしろ、喜助のそばに多少厄介な奴がいるらしくてね。烏のしたっぱを送り込んだって、殺られるのが目に見えてる』
「では、なにを……?」
『昔の友人に、頼んだのさ。たぶん、もうすぐ報告に来てくれると思うよ――ほら』
言われて姫が顔を上げると、ちょうど縁側に一羽の白鳥がそこにいた。
大きく、悠々と、光輝いて。
この屋敷には、あまりに不似合いだな、と思いながら、姫は白鳥に向き直る。
『姫さま、お初にお目にかかります。朱楽、ご無沙汰。本当に人使いが荒いんだから』
白鳥は高い声でそう言うと、すっと人の形をとった。
金髪の少女だった。
ソバカスのある、不思議な雰囲気の人間の女の子だ。
『こんな姿で話すのは、本当にしんどかったんだから』
『ああ、まぁ、悪かったよ。だけど、助かった』
金髪の少女はわざと頬を膨らませたが、すぐに顔を和らげ、再び白鳥の姿に戻った。
『姫、これはアタシの友人のサァ。白鳥の化身だよ』
朱楽は紹介し、さらにつづけた。
『今回、この子に喜助の様子や周りの状況を探ってきてもらったんだよ。この子は人間に顔がきくからね』
白鳥は急に表情を厳しくさせ、声を低めて言った。
『そう。なんだか、かなり危ないよ。怪しい力を持った人間がそばにいて、手が出せなかった。怪しまれないように、細心の注意が必要だった』
「喜助は?大丈夫だった?」
身をのりだし、姫は白鳥につっかかった。
どうしても胸に巣食う不安を消し去りたかったのだ。
白鳥は首を振り、静かに言った。
『姫さま……喜助とは接触できなかったんだ』
「そんな!」
『精一杯、できることはやったよ。ひとり、喜助の連れに人間がいたから、彼女にヒントを与えてきた。そう、あれは欠片に過ぎないけれど……』
チラと姫を見やり、白鳥は意味ありげに頷いた。
どういう意味なのか聞こうとしたが、朱楽に遮られて、結局うやむやになってしまったのだが。
『サァ、今はその話はまだ早いんだよ』
『わかったよ。とりあえず、サァの仕事は終わったんだから、ひとまず休みたい。もう朱楽にコキ使われるのはうんざりよ』
そう悪戯っぽく言うと、白鳥はさっさと飛び去ってしまった。
「彼女は不思議な鳥ね……屋敷の領域に侵入した気配がしなかった」
ぽつりと姫がつぶやくと、朱楽は曖昧に笑って、また彼女も飛び立とうとした。
『あの子は光。対してアタシたちは闇。ふたつでひとつだから、ね』
「朱楽?」
『嫌な予感がする――喜助が危ないかもしれない。吉乃や凛を飛ばした方がいいよ』
生唾を飲み込み、姫は唇を噛み締めた。
黒くもやもやとした不安でいっぱいになり、今すぐにでも泣き叫びたかった。
喜助を呼びたかった。
はじめて、喜助がひとりで出かけたのを見たときから、なんとなく不安はあった。
朱楽によると、百年に一度の程度で、数ヶ月間喜助は人間の姿になってしまうらしい。
不死身の代償らしいのだが、姫はなんだか根本的にちがう気がした。
喜助はなにか隠し事をしているように思え、ずっと引っ掛かっていたのだ。
吉乃も凛も連れていかず、お供なしに屋敷を出ていった喜助の後ろ姿に、どこか切なさを覚えていた。
喜助はなにか……なにか特別なことを、しようとしているのではないか?
自身がすごくもどかしくなる。
この屋敷に縛られて、喜助のもとへ行けないのが腹立たしい。
なにもできない自分を、姫は自嘲的に嫌悪した。
『アンタは、揺れちゃいけない。今は屋敷の主。屋敷を守るのが、姫の役目だよ』
パチンとまばたきしてそう言う朱楽を、姫はやさしく見た。
最近は彼女と時間を過ごすことが多く、だんだん好きになってきていたのだ。
「ありがと。わかった……だれかを喜助の元に送るよ」
『くれぐれも気をつけて。格別頭の切れる奴を選びな』
そう言うと、黒い鳥はさっと飛びたつ。
あとには突風と、黒髪の娘だけが残された。
姫はしばらく自身の白い手を見つめていたが、やがて耳のピアスに指を這わせた。
固くて冷たい、心地よい感触……
それは、指にはまっている銀色の指輪と同じような感触だ。
天にかざすと、きらりと光る、きれいな指輪……
大切な人がくれた、宝物だった。
あれからもう、三年になるか……?
「吉乃」
緩んでいた顔を引き締め、凛とした声で呼ぶと、すぐに一羽の烏がやってきた。
真ん丸目の吉乃だ。
「吉乃に仕事があるの。喜助がなにやら、危険にさらされているみたいで……応援にいってほしいの。今の喜助には、まだ完全な力がないと思うから」
吉乃は丸い眼をさらに丸くして応じる。
『喜助さまはヒトガタの時期なんだ!』
「お願いだから気を付けて。たぶん敵は、ただ者ではない人間……」
『わかってる。喜助さまを全力で守るよ』
にっこり笑う吉乃を見て、姫もくすりとほほえんだ。
吉乃は本当に喜助が大好きなのだ。
「賢い子ね。お行き」
丸い目の吉乃が颯爽と空に飛んでいくと、今度はすぐに凛が一回転してからやってきた。
「ああ、凛、ちょうどいいところに。わたしはちょっとばかり不安定になるかもしれない。烏たちに気を配っていてくれる?」
凛はこくりと頷き、姫を見つめる。
だが、その目は申し訳なさそうにうるんでいた。
ぎょっとする姫に、凛はため息をこぼしながら答える。
『こちらはまかせて――と言いたいところだけれど。一羽、勝手に屋敷を出た奴がいたんだよ』
目を見張り、姫は焦りはじめる。
勝手な行動は避けてほしかったのに、こんなにはやく自分勝手に動く輩がいるなんて、思ってもみなかったのだ。
『吉乃が出ていくのに便乗して、一羽後をつけていったんだ』
愕然とし、姫はうなだれた。
目立たないように、吉乃にはできるだけひとりで行動してほしかったのだから。
とんでもないことをしてくれたと思いながら、姫は凛に向き直る。
きっと吉乃ならば、うまくやってくれるだろう。
「で、いったいだれが出ていったの?」
凛の目には、そのときはじめて動揺の色が見えた。
そしてその名を聞いたとき、また姫も同じように動揺した。
『――玄緒』
彼は――数年前、姫を殺そうとした烏だった。
大柄で横暴で、気に入らないことがあると、すぐに仲間でも殺してしまう烏だ。
残虐さでは、喜助といい勝負かもしれないが、すくなくとも喜助は仲間を傷つけたりはしない。
姫が屋敷の主になると決まったとき、猛反対した玄緒は、姫を亡き者にしようとしたのだ。
間一髪のところで喜助に助けられて姫は無事であったが、喜助の逆鱗に触れた玄緒はひどい目にあっていた。
今もたくさんの見張りに自由を奪われているはずだったのに……
『たぶん、鷹の仕業さ』
凛は顔をしかめてつづける。
『玄緒の弟が手引きしたのかもしれない。つい先程、玄緒を見張っていた烏たちが鷹に襲われて帰ってきたんだ』
「玄緒の弟って、たしか、蒼於よね」
蒼於は首のあたりが青い、無口な若い烏だった。
特別玄緒を慕うわけではなかったので、あまり危険視していなかったのだ。
『うん。姫……喜助さまは大丈夫なのかな』
凛を見やり、姫は急にいたたまれなくなってしまった。
凛は喜助をとても慕っていたから、たぶん、吉乃の仕事を自分がしたいと思ったのかもしれない。
『玄緒はたぶん、喜助さまを恨んでいるよ。喜助さま……』
今にも泣き出しそうな凛をなだめ、姫は必死に頭をひねる。
となると、吉乃のことも心配になってくる。
喜助とちがって、姫にはさほど信頼できる特定の烏がいないのだ。
玄緒の暴走、蒼於の裏切り……
それはなにを意味するのか?
――わたしにできることはないの?
そのとき。
姫ははっとあることを思い出した。
玄緒と蒼於たちは、三キョウダイだったはず。
兄の玄緒、弟の蒼於、それから……
「黄祈を呼び戻そう」
『黄祈?』
不思議そうに首を傾げる凛に、姫は興奮して言った。
「そう。黄祈はたしか、山天狗の嫁にいったのだね?」
『そうだよ。結構な美人で、玄緒はいつも自慢してた。でも、今さら黄祈なんて……』
指を立て、姫は自信ありげに笑う。
自分自身でも、まったくものすごいことを考えついたものだなぁと思う。
「黄祈のいるのは、たしか宮近くの山。つまり――天狗に力を貸してもらおう」
姫の言葉に凛は度肝を抜かれたようだったが、すぐに真剣な顔で頷いた。
「では、凛。さっそく、黄祈と会って話をつけてきてくれる?」
『まかせて』
凛はびゅっと翼をはためかせ、烏一番の俊足を見せるように飛んでいった。
姫はしばらくじっとしていたが、やがて庭の木の上からこちらを見ている烏をじろとにらみつけた。
烏は無表情のまま、低い聞き取りにくい声音で言う。
『……アンタも、喜助も、もう終わりだな』
きっと眉根を寄せ、姫は唸る。
「蒼於、貴様の罪は、軽くはないぞ」
『そんなの知ったこっちゃないね』
烏はガアガアと鳴き、苛々して羽ばたくと、意地悪く笑む。
『どう転んだって、所詮は人間――人間は、ここにいるべきじゃないんだ』
――“人間”……
姫は矢で射抜かれたような錯覚を覚え、悔しさと惨めさを滲ませ、顔を歪める。
そんな姫を鼻先で笑い、蒼於はさっさと飛んでいってしまった。
その場に立ち尽くした姫は、震えるような怒りと寂しさのなかで、じっと動かず耐えていた。
――いいさ。
顔を上げ、夕闇にせまる空を仰ぐ。
――わたしは人間。
けれど、この屋敷の主。
――それがわたしの、今の存在価値。