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冬の到来の風は冷たい。
身体が縮み、ぶるりと震える。
真夜中を過ぎた夜は、闇にもっとも近づき、妙な静寂をかもしだす。
肌寒さは痛いほどであったが、そんな感覚は感情でどうにでもなる。
実際そうだ。
このピリピリした空気に比べれば、寒いなんてものはないに等しい。
あたしは知らず知らず、無意識で懐に手を忍ばせて、硝子の肌触りを確認していた。
「わたくしの姉を知っている?馬鹿なことを言わないでください」
夜桜さまは疑念を持ちつつ、どこか嫌悪した表情でそう言った。
「姉は……拐われたんです。小さいときに。そうよ……烏が口をきくなんて……母さんは狂ってしまったって、みんな言ってた」
最後のほうは独り言のようにつぶやかれた。
けれど、トカゲがはっとしたように顔をあげて口を開いた。
「それですよ!烏は口をきくんです!きっとあなたの姉上も、こいつに……」
「ああ、翠冷。わたくしはまだ、本当にあなたの話を信じたわけではないのですよ」
うなだれた様子で夜桜さまはそう言い、喜助に目をやる。
「そこの男が化け物だと正体を表せば、信じる約束はしましたけれどね」
トカゲは苦いものを飲み込んだかのように顔をしかめ、なにやら言葉を探っているようだ。
彼をこんなに熱くするなんて、いったい喜助となにがあったのだろう。
ふたりは知り合いみたいだったし……。
いつから?
「おれは……おれの妹は殺されたんだ」
と、そのときうつくしい響く声がした。
無表情なのに、よくこんな声が出せるものだなぁと思う。
トカゲは瞳に蔭をはらんだまま、つぶやくように語りはじめた。
「――あれは、まだおれに父と母と妹がいたころ。あるとき家族と山を越えることになった。妹は「山には怖い噂がある」とか言って怯えてたが、おれは正直気にしてなかった。だが……山の奥まったところで、俄かに周りの空気が変わった気がした」
いったん息を止め、彼は軽く震える。
あたしはその震えを知っていた。
まがまがしく、だいきらいで空恐ろしい光景を思い出す瞬間の震えを。
「……烏に襲われた。鋭い嘴に、父も母も血だらけになって、妹もすぐに息絶えた。妹は耳にピアスをしていたから、光るものを好む奴らはそれに向かってた……」
早口でそれだけを言うと、ひとつ深く彼は息を出して、喜助をじととにらむ。
その場のだれもが、動かなかった。
トカゲの口調から、彼の思い出している光景がはかりしれない恐怖をはらんでいることを悟り、だれもなにも言えなかったのだ。
「もちろん、おれも襲われた」
トカゲはおもむろに着ていた衣をはだき、肩から胸にかかってできた生々しい傷を見せた。
深く、今でも痛々しく、その傷は細く長く、彼の身体に走っていた。
これが、烏のつけた傷?
「まるで野獣だ。爪や牙で傷つけられているような痛み……おれも死ぬはずだった」
トカゲは言葉を切ると、喜助をじろとにらみながらつづける。
「目玉をひとつ食われた。ああ、そうだ。そしてこの耳に聞いたよ……烏が口をきいたんだ!薄れる意識のなかで、奴らの会話を聞いてた。おれの片目を食った奴は妹のピアスを気に入ったらしく、それを奪った。それからそいつはおれの方にきて……」
『おまえを生かしてやろうか、そう言った』
はっきりと、喜助がそう言った。
トカゲの言葉を受け継ぎ、なんでもなさそうに、きっぱりと。
あまりの迷いのなさにびっくりするくらいに。
トカゲは唇を噛みしめ、獲物を逃がすまいと唸った。
「どうしてだ?どうしておれを生かした?」
喜助は激しく身をのりだすトカゲを見つめ、肩をすくめて口を開く。
『さあ?気分だよ。深い意味はないね』
にやりと不敵に笑んで、喜助は立っている。
どういうことなのか、あたしにはまだよくつかめていなくて、ただ交互に対照的なふたりの男の顔をながめた。
それからやっと、自分のものとは思えない弱さで声を発した。
「つまり……喜助はトカゲの家族を殺したの?」
『ああ』
黒々した眼を見つめる。
けれど、そこからはなんの感情も読み取れない。
「目玉を食べたの?」
『大好物だからな』
今度こそ、泣きそうになった。
けれど、どこかで静かに受け入れている自分もいた。
「それじゃあ……喜助は――喜助は、人間じゃないの?」
まっくろの眼は、闇より深くて。
そこに光る輝きは、神秘的なうつくしさに満ちていて。
はじめて会ったときの華麗な人間離れした動きとか、あふれる自信だとか、なぜかほっとさせてくれるぬくもりだとか……そんなものが走馬灯のように頭を走り、ちらつく。
喜助はいい人だ。
ちょっと変わっているけれど、あたしは結構好きだよ。
悪い人じゃないよ……?
ねぇ、喜助?
「喜助は、何者なの」
教えて。
ずっと思っていた質問。
受け入れてみせる、だから。
『カラスだよ』
静かに、喜助はそう言った。
ああ、やはり、喜助――。
「動くな!」
なんとすばやい動きだろう。
長く鋭い刀が、喜助の喉にあつられていた。
はじめはなにが起きたのかわからなかったが、正任が刀を取り出していたらしい。
喜助はそれでも揺らぐことなく、平然としているから恐ろしい。
「幼皇さまの呪いを解きなさい」
喜助の前に立ち、じろりとにらみながら夜桜さまが言った。
『断る。オレサマを奴と会わせれば、考えてやってもい――ッ!』
喜助が答え終わらないうちに、正任が刀の柄で喜助のみぞおちに一撃を食らわせる。
顔を歪め、彼はぐっとつまってうずくまるが、すぐに正任がそれを蹴りあげた。
喜助の唇が切れ、紅い血が宙に舞う。
悲鳴をあげたつもりだったのに、あまりのことにそれすら呑み込んでしまった。
「おまえ、自分の立場をわかってないのか」
正任は言うと、今度は刀の切っ先を喜助の腕に軽く突き刺し、ぐりぐりと押し込んだ。
ぷつぷつと紅い斑点が広がり、すぐにじわじわと血があふれた。
それでも喜助は応じず、ただ不適な笑みを反抗的につづけていた。
「やめて……喜助、どうしたのよ」
泣きそうにながら思う――おかしい。
喜助なら、あんな蹴りも刀も避けてしまえるのではないだろうか。
いくら宮に使える正任といっても、あの喜助に叶うだろうか。
あたしには、喜助が無敵だという絶対の自信があった。
「あら、加世さまはこちらの味方になっていただきますからね」
夜桜さまは冷たく言い放つ。
正任は喜助から刀を抜き、肩で荒く息をしはじめた彼を床に投げ捨てた。
あわてて駆け寄ると、喜助は額に汗をかきながらも笑っていた。
「ちょっと!ちゃんとしなさいよ!いつもみたいな、あの強さはどこいったのよ?!」
『ぁぁ……加世……』
びっくりした。
喜助の声が、弱々しいのだ。
『やはり――加世の毒は、格別だな』
そうつぶやき、彼は力なく目を閉じ、ぴくりとも動かなくなった。