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よみがえった思い

作者: 夏川 透

 大きく開けられた窓からは、車の騒音に混じり、街の賑やかな喧騒が聞こえてきた。そっか! 今日は土曜日だ。ついてないな。心で不満を言う亮太。


 今、会社の事務所は亮太しかいなかった。原則土曜は休みなのだが、営業員は取引先との関係で出勤することが多い。終了時刻の5時をすでに2時間経過し、残業疲れもピークに達して、パソコンを見る目がショボショボする。仕方なく中断して立ち上がると、その開いた窓に近寄った。


 ああ、気持ちよい風だ。


 夕暮れ時の穏やかな風が、事務所内に吹き込み、頬を軽くくすぐった。思わず亮太は両手を上げて伸びをした。その窓は2階に位置し、通りを歩く人々の顔や表情もよく見える。

(週末を楽しむ人々の浮かれ顔でも見てやるか! )


 悔しさ半分に下を見ると、思ったより人が多いのに驚いた。が、その理由をすぐに了解した。数週間前から、街中に貼られているポスターにより、近くの市民公園で無料の音楽イベントが開催されるのを思い出したのだ。それが今日の午後8時開演。出演者の中に地元出身の有名ミュージシャンが含まれていて、それが目的なのだろう。公園の方に向かっている若い人々が多い、多い。


 見に行きたいな、下の通りをぼんやり眺めながら思った。するとその光景にふと懐かしさのようなものを感じた。なぜだろう? 過去に似たようなことあったかな? やがて亮太は気持ちを切り替えて窓を離れた。


 さあ、シゴト、シゴト。そう思いなおし机に戻った。すると急にお腹がグウッと鳴り出した。まるで田んぼにいる蛙の声だ。

 腹が減っては……なんとやら。何か胃袋に補給しよう。幸い、帰りにコンビニで買ったチョコレートが残っていた。亮太は普段チョコレートなど買わないのだが、これは特別である。あの大好きな女優がCMに出ていたから買ったのだ。わりと影響を受けやすい男である。


 はい、アーンして……と妖しく画面に向かって言う声が亮太の耳に印象強く残っている。スーツのポケットから小箱を取り出すと、アーンという女優の甘い声を思い出しながら口の中に一つ放り込んだ。と、同時に亮太のすぐ後ろのドアが開き、勢いよく後輩の田上が入ってきた。亮太は突然のことに驚き、チョコを噛まずに飲み込んでしまった。

(ウグゥ……ウ、イテェ)

あわててペットボトルのお茶を飲み干し、胸を何度か軽く叩いた。そんな亮太の状態に田上は気づいていなかった。


「ただいまっす」

 機械的な声でいうと、疲れた様子で隣のデスクの椅子にドシンと腰を下ろした。同じ営業だが、先輩の亮太よりはるかに営業成績がよい。いわゆる仕事のできる男だ。

「お帰り。河内工業はどうだった? 」

 よい結果をいうことは分っていたが、亮太は一応尋ねてみた。

「楽勝でした」

「へえ、そうか。よかったな」

「ええ……」

 田上は前をぼんやり見ながら、何か他のことを考えているようだった。やがて左手のヒラに拳を軽くぶち込み、パチンといわせた。


「先輩!!」

「ん?」

 このとき亮太は、いつもの田上の声になんとなく違和感を感じた。何かある。

「実はオレ、結婚することになりました」

「え!? オッ、オウ、そうなんだ。へえ、やったじゃん。おめでとう」

 祝福の笑顔を見せながら、亮太は田上の肩を軽く叩いた。

「実はですね。相手は先輩もよく知っている人で、以前ここで働いていた事務の春日愛理さんです」

「……そうなんだ。アァ、あの春日さんか、いやびっくりした。ハハ」

 聞いていて亮太は、突然胸が詰まる思いがした。決して先ほどのチョコレートのせいではない。


「で、この会社も辞めることになりまして……いや、そんな驚いた顔をしなくていいですよ。ええ。実は彼女のお父さんが経営されている会社に将来の社長候補として入ることになったんです」

 田上の話す声色がだんだん自慢めいたモノになってきた。話しながら自分に酔ってくることがよくある。


「すごいな。確か、聞いた話だととても有名な会社らしいじゃないか」

「いえ、そんな大したことないです。ただの中小企業ですから」

 その言葉に亮太はカチンときたが、表には出さなかった。中小企業ではあるが、ここよりもずっと知名度も規模もある会社なのだ。もちろん田上自身も謙遜しているのは分っていた。


「まあ、こことは扱っているものは違いますけど、同じ業界ですからその点は助かりますね。身内といっても転職する身ですから」

 もう身内とかいう言葉を使っている。田上は会社のことをもっと話したがっているようだったが、わざと亮太は話を少しずらした。

「でも知らなかったな。あの春日さんと付き合ってたとは」

「それなんですよ。自分もすぐにでも話したかったのですが、やっぱり結婚が決まるまではいろいろありますから……」

 亮太の横顔を見つめながら言う。

「フウン」

 亮太は興味なさそうな返事をした。


「で、ここはいつ退社するんだ?」

「ええ、明後日にも課長へ退職届を提出しますので、うまくいけば二、三週間ってとこでしょうね」

「上の連中は絶対止めにかかるだろうな。稼ぎ頭だからな」

 亮太は深刻な表情で田上を見た。

「へへ。まあ、こちらにも都合がありますから。仕方ないですよ」

会社の上役たちに止められている自分の姿を想像しているのか、田上はニヤニヤ顔を全開にした。


 亮太は田上がやめた後のことを色々と考えた。すぐに次の人間が入社するとは限らないから、彼の取引先をしばらくは数人で分担することになるだろうし、となると仕事量も必然的に増えてしまう。

 今でさえ残業に追われているのに、と思うと多少うんざりした気分になった。


 だが亮太にはそんなことよりも、もっと複雑な心境があり、そちらの方にだんだんと気を取られていき、田上とこれ以上の会話は限界に近づいていた。そろそろ帰ろうか、と考えていたら、田上の方がやはり先を越して言った。

「先輩、すみません。俺、今から用事があるんで、このまま帰ります。戸締りの方よろしくお願いしますね」

 そういうといきなり立ち上がって、机の上はそのままに出て行こうした。

「おい、せめて自分の机ぐらい……」

 聞こえなかったのか、無視したのかはっきりしなかったが、田上はそのままドアを開けて出て行ってしまった。バタン、とドアが自然に閉まる音がして、一瞬シンとなり、やがて田上が階段を下りる音が聞こえてきた。


「フゥー」

 亮太は不愉快な溜息をつき、机にガバッと頭をつけた。突然叫び出したい衝動に駆られた。

(チクショウ!! なんでこうなるんだ?)

 しかしなんとか自分を抑えた。


 またすぐに起き上がると、携帯を取り出し、ある番号に押し始めた。スラスラ番号が思い出せる。まだ憶えていたんだな、と自分の記憶力に感謝した。

 いろいろな感情が亮太の頭の中を駆け巡っていた。躊躇する気持ちはあったが、今はこうせざるを得なかった。数回の呼び出しの後、相手は出た。


「ハイ!」

「あの、上村亮太だけど……」

「ウン」

 もう一年以上も経っているのにすぐに気づいてくれた。まだ亮太の名前は携帯に残っていたのだろう。しかもその声は以前と変わらず親しみを含んでいる。その声に励まされるように亮太は言葉を慎重にだしていった。

「お久しぶり!」

「ウン、ウン、ほんとあなたと話すの久しぶりね。声が聞けてすごくうれしいわ」

「急に電話なんかかけてすまない。ただ突然話したくなったんだ」

「……」

「実はびっくりしてさ」

「でしょうね」

 亮太は一瞬ドキッとした。電話してきた理由も知っているのか? だがこちらの訊きたいことが分かっているのなら、話もしやすい。


「こんなこと訊くのは野暮だけど……どうして彼なんだ?」

「フフ、フフ。あ、ごめんなさい」

 相手の笑い声を聞いて懐かしさを感じてしまった。過去の楽しかった思い出の幾つかが頭の中を駆け巡っている。亮太は次の言葉が思い浮かばず、数秒の沈黙となった。


 すると相手は意外なことを言った。

「元気そうな顔を見て安心したわ」

「え!?」

 亮太は一瞬意味が分からなかった。が、すぐに、もしかして、とあわてて開かれた窓へ向った。彼女の姿を無我夢中で捜した。居た!! こちらを見上げて可愛く手を振っている。なぜそんなに魅力的なんだ、と直接言ってやりたくなった。

 先程、この窓で感じていた懐かしさとはこのことだったのか。


「なんだ。きてたのか」

 自分の話し方がだんだんと昔のそっけない言い方になっているのに気づいて愕然とする。本当の気持ちは逆なのに。自分の思いが変わってない。そのことを相手は教えてくれた。

「まだ私のこと好きなんだ」

 まるで恥じらいを含んだような声が亮太の耳に飛び込んできた。もっと話がしたい。しかし、もうわずかだ。もうすぐ奴はビルを出てくるだろう。

「ああ、そうだ。エリ、好きだ。今も変わらず好きだ」

「ありがとう。でも、でも、もう……」

 こちらを見上げる彼女の表情は憂いを帯びたものに変わってきた。


 あとどれくらい時間が残っているのだろう。田上がトイレから出るのは、あと3、4分ってとこか。彼がビルを出る前に必ずトイレに行くことを知っていた。

「なあ、どうしてこうなったんだろうな。別れてもなかったのに」

「でもあのときはお互いぎくしゃくしてたじゃない」

「ああ、でもささいなことだったから、元に戻ると思ってたんだ」

「じゃ、どうして電話してくれなかったのよ」

「すまない」

 一言謝ったが、亮太も彼女に同じことを言いたかった。

(どうして電話してくれなかったんだ)

 結局、互いに相手が折れてくるのを待っていたわけだ。その間に田上がうまく入り込んできたのか。ばかばかしい。こんなことで離れてしまうとは。


 窓から彼女の顔を眺めると、自分に対する思いがまだあるような気がしてきた。どうしようか。まだ間に合うかもしれない。が、もし、また彼女と逢えば茨の道を歩むことになるかも? その覚悟はあるのか?

「あのさぁ……」

 次の言葉がなかなか出てこない。

「もう! あなたってやっぱり優柔不断なんだから」

 その言葉に亮太は促された。

「わかった。頼む。俺と結婚してくれないか?」

「え? 今頃なんなのよ。私、もう婚約までしてるのに……ちょっと待って! あ、彼が出てきたわ。あとで連絡するわね」


 携帯から彼女の声は聞こえなくなり、彼女は笑顔で田上を迎えていた。

 亮太はその笑顔を、いつのまにか自分に向けていた笑顔と比べていた。どちらが上なのか、それとも本物なのか。その見極めが難しい。


 二人は肩を並べて市民公園の方へ歩いていく。その姿に自らの敗北感が忍び寄ってくる。もう最後か? 諦めかけた思いで眺めていたそのとき、愛理が田上の少し後ろを歩き出した。するとクルッとこちらを向いて大胆にも大きく手を振ってきた。それからすばやく両手を挙げて○の形を作った。OKという意味なのだろう。ほんの2、3秒の出来事。田上に見つからないようにするために。


 その表情にある確信を抱いた。それは亮太だけが知っている愛理の真剣な表情。瞬間、夢の中にいるような気がした。それが良い夢なのか、悪い夢なのか分からない。しかし、すぐに亮太も同じように、いや、もっと大きく手を振った。


(決めた!! もうどうなってもいい。茨の道を歩くことにしよう)


 このとき公園の方から聞こえてくる、さまざまな楽器の音合わせが、亮太にはまるで美しい音楽に聴こえていた。


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