プロローグ ニート、異世界に旅立つ
薄暗い部屋の中で、カチャカチャとキーボードを叩く音が空間を支配していく。
時刻は夜中の四時、今も目を見開いてギンギンに昂ぶった精神だけでゲームを進めていく。
彼の名前は、椋木陽斗、現在十九歳のニートである。
陽斗は都内有数の名門高校にトップ合格し、上流階級への階段を駆け上っていった。高校二年生時点で海外の大学からも推薦が届くほど、優秀な人材だった。また、当時行っていた剣道は全国でも通用するレベル。まさに文武両道を地で行く存在だった、容姿も端麗ではないが中の中程度だろう。
しかし、そんな彼に社会の闇が牙を剥く。
『椋木ってさ、なんかチョーシこいてね?』
『わっかるー。勉強してないよ、とか言って裏では相当してんだろ、アイツ。ムカつくよなぁ』
その第一陣がコレ、周囲からの裏切りだった。
陽斗は自分が頭脳明晰であることを特別ひけらかしたりしなかった。友達もそういう陽斗の点に惹かれて、男女問わず多くの友人が出来た。
だが、大学入試が近づくにつれて、関係は悪化していく。勉強をしてこなかった彼らの自業自得を、誰よりも努力してきた陽斗に投げつける。学歴社会に喧嘩を売るのではなく、その社会に媚を売るような態度を取る人間を精神的にも肉体的にも追い詰める。
それでも陽斗は耐えた。推薦は敢えて取らなかった、ここで推薦合格しても負けだと思ったからだ。
しかし、そんな陽斗にまたしても不幸は訪れた。
それは。
コネ、である。
陽斗が受けた大学は超名門大学だ。しかしながら、そこは私立大学故に金を持たざる者は入学すら出来ない、謂わば超上流階級の極みだった。その上、そこは各界の著名人の息子や、有名企業の御曹司、そういったコネがあるだけで、優先的に入学が決まってしまう。凡人は人並み以上の努力を強いられ、加えてその後成功するかどうかは、大学に入ってからの頑張り次第、と長く険しい道程なのだ。
それでも陽斗はその大学を受けて、見事合格した。
父さんと母さんには負担を掛けてしまうが、いつか必ずこの恩を返そう。
陽斗はそう思っていた。
だが。
『なんだよコイツ。別に両親偉いワケでもねえのにココきて、マジ貧乏人うぜえ』
『ってか、身分違いも良いとこじゃん。上流階級とお知り合いになれる、とか勘違いしてんじゃね?』
そこにあったのは、明確な敵意と悪意だった。
コネで入学した彼らも、当然幼少期から英才教育を施されているため、人並み以上に頭が良い。それでも一般入試枠で入ってきた陽斗のような人間には敵わない。だが、自分には将来芸能界や世界で活躍する為の大きなアドバンテージがある。故に、陽斗が持ち合わせていないアドバンテージをフル活用して、一般入試枠の人間達をストレスの捌け口にしていたのだ。
陽斗は心底ガッカリした。世界に絶望したのだ。
「なんだよそれ…。頑張って努力したのにコレかよ、俺のやってた事に意味なんてあんのかよ…」
結局世界が回る為に必要なのは、ひと握りの天才と、天才に振り回される凡人だけなのだ。
陽斗は、ひと握りの天才を目指した。だが、それは呆気なくも崩れ去った。
「俺は……もうこの世界に期待しない。こんな場所に、俺の居場所はない」
こうして、天才神童『だった』椋木陽斗は、社会不適応者と呼ばれる、ニートに成り下がった。
◆ ◆ ◆
ガツガツと大剣で敵を切り裂き、クエストを進めていく陽斗。
その目に希望はない。妥協せざるを得ない世界への絶望が、一心に篭っていた。
陽斗がオンラインゲームに出会ったのは、もう、かれこれ一年以上前である。大学を入学一ヶ月後に退学し、定職にも就かないで遊び惚けていたある日、ネットサーフィンをしている最中にこのゲームのバナーを発見し、興味本位で初めて見たのがキッカケだ。
内容はシンプルなMMORPG、他社が配信するモノと変わらない、言ってしまえばコピーのようなもの。
だが、初めてプレイしたそれに、陽斗は感じたことのない感動を覚えた。
「…ゲームってこんなに楽しいんだな」
それは、素朴な感想だった。
高校時代は剣道と勉強に引っ張りだこで、ゲームなどする余裕もなかった。当時を恵まれていなかったと揶揄する事はないが、少なくとも楽しみが一つ欠落していたのは確かだろう。
それから一年が経ち、レベルや装備もトップランカーと遜色ない強さまで上り詰めた。
ギルドにも加入しており、今や頼れるギルドの大黒柱を務めている。
「(…あの頃とは違うんだ。この世界は、驚く程に温く優しい。この世界には、あちらの世界で排斥された人間が屯している。本来あるべき姿は、この世界なんだ…!)」
一瞬心の底に蘇った悪夢を、捩じ伏せるように右クリックを強く押した。
振り抜いた大剣が敵キャラを一刀両断し、EXPとコインをばら蒔く。
「………ふぅ」
陽斗は何となく虚しくなってパソコンの主電源を落とした。
データが破損しようが関係なかったのだ。今は、何だか本当に遣る瀬なかったから。
「………空羽は、頑張ってるのか…」
空羽、とは陽斗の妹である。
椋木空羽、現在高校一年生。しかし、ただの高校生ではなく、アイドルを目指して活動中のちょっと変わった高校生だ。陽斗とは未だに仲良く接してくれている、しかし、高校時代に比べて接点が少なくなったからか、話す頻度や顔を合わせる機会は少ない。
現在の陽斗は、両親と地下アイドルのような活動を続ける空羽の収入で成り立っている。
情けないとは思っていても、社会に自分が貢献する姿が思い浮かばなかった。
くだらない程息苦しく、つまらないくらい平穏で、有り得ないまでに歪曲したこの世界。
「……いっそ、俺は死ぬべきなのかもな」
ふと、そんな疑問が脳裏を過ぎった。
その時だった。
ブォン、とパソコンが起動する。
勿論陽斗は電源に手を触れていない。そして、このパソコンも新型の高性能なものだ。
パソコンのスペックのせいでも、陽斗の不注意のせいでもなく、それは起動した。
「……ぶっ壊れたのか?」
まず懸念はそこに向かった。
ここでパソコンが壊れてしまうと、日がな一日陽斗のやる事は皆無に等しい。
すぐさま椅子に座り込む。そして起動したパソコンのウィンドウと睨めっこを開始。
すると、見慣れないアイコンがウィンドウの右端にある。
陽斗はそれを躊躇せずにクリックした。
当然のように、アイコンが開き、ウィンドウが表示された。
『ようこそ、迷える子羊、椋木陽斗くん』
音声が流れた。元々組み込まれていたのだろう。
しかし、陽斗は驚きを隠せない。何故自分が椋木陽斗だとわかったのだろうか、と。
陽斗はネット上で不用意に自分の名前を書いたりはしない。今時の中高生ならば、マナーとして当然であり、逆にそんな馬鹿な事をするのはモラルのないDQN程度だろうと考えている。
恐ろしさに怖気がたち、陽斗は震える手でウィンドウを閉じようとする。
だが、ウィンドウが閉じる気配はない。
尚も、謎の音声は陽斗に語りかける。
『どうだい、そちらの世界は? 生き辛くないかい?』
その言葉に、震えていた右手は唐突に平常運行を再開した。
陽斗の中で何かが途切れたのだ。
語りかけられたその言葉は、今の陽斗にとっては、見過ごせない言葉だった。
「…何言ってんだお前。生き辛いに決まってんだろうが…! 努力を無下にされて、信じた仲間に裏切られて、理想と異なる世界に絶望した! まるで俺の努力は、誰かが文章で組み上げたかのように一瞬で崩れ去った、消しゴムで消したように、跡形もなく!」
伝わるはずがない。聞こえるはずがない。
そう思っていても、心底にあった思いを吐き出さずにはいられなかった。
「腐ってやがる。学歴だけで何でもかんでも決まってしまう世界も、金とコネでなんとでもなってしまう世界も、美しいまでに残酷で手厳しい世界も、全部、全部全部!! 消えてしまえばいい! そうでなければ、俺の生きる意味はなんだって言うんだよ。意味もなく地べたを這い蹲って、オンラインゲームの世界に入り浸って、全てを忘却の彼方に押しやって…! 俺は、生きてても死んでても変わらないんじゃないのか? なぁ、そうなんだろ。答えろよ、なぁ、おい!!」
ガン、とキーボードを殴りつけた。
今までの不条理を、理不尽を、全てを吐き出したような清々しい気分が陽斗を包んだ。
すると、先程から沈黙を守っていた音声がゆっくりと流れ出す。
『君は間違えたんだ。君が居るべき世界を。君が望んだ世界を、君は間違えたんだ』
「何を言っているんだ……?」
『本来あるべき君の姿はそんなモノじゃない。もっと気高く、もっと誇りある、まるで百獣の王のように、情け容赦なく、弱きを守り強きを挫く、それが君だろう。そこで燻っていてどうするんだい』
何を言っている。コイツは、俺の何を知っているんだ。
陽斗は思わず叫びそうになった。しかし、次の文面を見ると同時に、意識が遠のいていく。
『一度だけリセットさせてあげるよ。君の全てを、望んだ世界も、望んだ姿も、望んだ未来も』