聖女とのメリークリスマス@ジョシュア
クリスマスイヴの日。数日後には新年を祝って神社を訪れると言うのに、日本人のほぼすべてが宗旨替えする日だ。
月のない空。明日には下弦の月になるそれは、未だ空には上がってこない。真夜中にはほど遠いからだ。
冬だから日が沈むのは早く、夜はその分長くなる。クリスマスとは夜を楽しむものなのだから、それは喜ぶべきことなのだろう。
だが、楽しむことのできない人間にとって、これほど苦痛な日はないだろう。
少なくとも僕はそうなのだから。
ホワイトクリスマスというものがある。それは滅多にあることではない。十五夜に雨が降ってしまうのと同じである。
だが、人々の多くは「クリスマスには雪が降る」という幻想を抱くのである。
考えてみてほしい。クリスマスに雪が降る、と考えるから降らないのだと。
心霊現象が見える人間と見えない人間がいて、見えない人間は往々にしてそれに出会いを求めるようなものだと。
「つまり、ホワイトクリスマスは心霊現象なのか」
そんな前提と仮定、結論のめちゃくちゃな演繹的推理をするも、虚しさが心を満たすだけだった。
すれ違い様に、僕の言葉に笑った二人の女性に少し傷ついた。
夜の街は明るく、カップルと思しき二人組がいくつもいた。友達と共にいるわけでもなく、家族すら連れていない僕は明らかに浮いている。
僕も少ないけれど、友達はいることにはいる。しかし、彼らには彼らの付き合いがある。誘われなかったけれど。
さ迷うように夜の街を歩いていく。目的があるわけではなく、むしろ目的がないからこそさ迷っていた。
そうしてしばらく歩いているうちに、僕はあるものを目にした。
「教会……?」
ビルとビルの間に伸びる暗い通路のその先に、十字架を掲げた建物を見た。
こんなところに教会なんてあっただろうかと思いを巡らせる。しかし、引っ越してから九ヶ月、街の散策などしたことなく、移動もほとんどがバスなのだから知らなくても当然だとも思った。
勇気を振り絞り、教会の方へと近づく。街の喧騒が遠ざかり、その代わりに訪れたのは静寂だった。
教会を囲む塀には落書きがあった。下品な言葉が見事なデザインで描かれている。しかしそれは教会に対する背徳としか言いようがないものである。
それにしても、落書きもあり、ずいぶん寂れた教会だ。僕は教会というものをあまり見たことはないが、この状態はまともでないことはわかる。きっと長い間管理されていなかったのだろう。
開いている門から中に入れば、優しい明るさがあった。蝋燭で照らされているようで、仄かなそれは柔らかさを感じる。
礼拝堂の前にはいくつもの長椅子が並んでいる。磔にされた救世主を中心に造られている。寂れた外見に反し、その内装は質素ながらも寂しさはなかった。
その席の端に、女性が座っていた。後ろ姿でよくわからないが、若いようではある。
そっと前に回り込むと、驚きのあまり息が詰まった。
その女性は、テレビでも見たこともないほど美しかったからだ。美しさが四肢を持っているかのようだった。整いすぎて、この世のものか疑うほどに。
色白の頬をわずかに朱に染めて、目を閉じて船を漕いでいる。その姿は揺り籠に乗せられた赤子のようで、触れ難いものがあった。
僕の気配に気づいたのか、女性は目を開く。目の前にいたことを弁明しようにも言葉が見つからない。
「……風邪引きますよ?」
結局、そんな当たり障りのないことしか言えなかった。少し驚いたように女性は目を見開くが、すぐに凜とする。
「……ご心配をおかけしました」
女性は柔らかな声でそう言った。目を擦ると、ニッコリと笑う。その笑顔は幼い少女を思わせながらも、配慮への感謝が込められていた。
そこで女性は、
「クリスマスイヴにこんな教会に来るなんて、貴方は迷える子羊さんですか?」
「……まあ、あながち間違いじゃないかな」
クリスマスイヴなのに暇で、迷った挙げ句ここにたどり着いたのだから否定できない。
クスリと笑った女性は、口に手を当てながら言った。
「まあ、もうすぐ一年で一番性交渉の盛んな時間だと言うのに、暇なのですね」
「急に何言ってるんだ!?」
思いもよらない女性の言葉に、僕は思わず叫んでしまった。
それを気にすることなく女性は自分の鞄を漁ると、紙コップと保温性の水筒を取り出す。
「寒いですから、お茶でもいかがですか? ロイヤルミルクティーですよ」
「……もらいます」
人に渡すために紙コップまで用意しているのか。それともそもそも一人で飲むつもりじゃなかったのだろうか。
怖ず怖ずと受けとったロイヤルミルクティーはとても温かかった。一口飲めば、紅茶の香りと牛乳の甘さが口いっぱいに広がり、身体の芯に熱が点いたようだった。
「……初めて飲みましたが、おいしいですね」
「レンジでチンした牛乳に、紅茶のティーバッグを浸けただけですよ。簡単に出来ますから、ご自宅でもどうぞ」
幼い言い方であるが、それがまたこの女性の笑顔にピッタリだった。
その笑顔に見惚れていたのをごまかすために、もう一口ロイヤルミルクティーを飲んだ。少し舌が火傷し痛かったが、何とか耐える。
「迷える子羊さん、どうされましたか?」
改めて、女性が聞いてくる。
温かいロイヤルミルクティーで口が軽くなった僕は、初めて会ったこの女性と少し話したいと思った。
「……クリスマスにやることがないんです。親元に帰るのは元旦と決めてますし、友人たちに混ざるのも気が引けて」
「寂しい人ですね」
「慰める気はないね!?」
女性はかなりハッキリ言う人間のようだった。逆に清々しい気分だ。
そうして女性もまた、自分の水筒に付属しているコップでロイヤルミルクティーを飲む。
「クリスマスとは本来こうして騒ぐものではないのです」
「そうなの?」
「はい。本来のクリスマスは家族で集まり、質素にするものです。主とイエスへの感謝の気持ちを表すわけです。元来、キリスト教は質素にするものですから」
「なるほど……」
バレンタインデーが菓子会社の戦略なのだとしたら、クリスマスはさらに多くの……食品会社や玩具会社などを含めた企業の戦略なのだろう、と僕は考えている。ロマンだ何だと言われているこの日の背景には、結局は利益という夢のない話が広がっている。
本当のクリスマスはイエスの誕生を祝う日であり、ロマンなどとは縁遠いものなのに、だ。
「ええ、ですからこうして貴方が教会へ来るのは喜ばしいことです」
寂れてますがね、と彼女は自虐的に言った。一部ではミサなどに出席する家族もいるだろうが、よほどの物好きでなければこの汚れている教会には来ないだろう。
まあ、僕が言えることではないけれど。
「『神は死んだ』『我思う、故に我在り』『リア充爆発しろ』……そうした言葉がある今では、クリスマスは宗教行事ではなくなってしまったに違いありません」
「最後のは違うと思う……」
それでも、言いたいことはわかる。神なき今、クリスマスは形骸化している。いや、日本の祭や初詣も最初は神の権威にあやかる、もしくは権威を示すために行われていたものだが、今では騒ぐための口実になっている。
思案顔になっている僕の顔を見て、女性はクスクスと笑った。
「ですけど、私はそれでも構わないと思うんです」
「え?」
言っていることが目茶苦茶だ。だが、よく考えてみれば女性はクリスマスに騒ぐそのことを否定したわけではない。
おもむろに女性は立ち上がり、鞄を持って言った。
「少し、外に出てみませんか?」
「……ミルクティーを飲み終わってからでも良いですか?」
僕は紙コップを傾けて、熱いそれを一思いに飲み込んだ。
外に出ると再び冷たい空気に晒されるが、腹の中にあるロイヤルミルクティーのおかげで寒さはあまり感じなかった。
目の前を歩く女性の歩幅は短い。一般の女性と比較しても、彼女のそれは短く、そして遅いのははっきりわかった。
二人で向かったのは繁華街だった。どの飲食店でも人々は飲めや歌えやの大騒ぎであり、店員もてんてこ舞いだ。
冬になり葉を落とした裸の街路樹には、ネット状の明かりで装飾がされていた。寒そうではあるが、寂しくはないだろう。
周りを見れば、食事終えたか、これからするだろう家族やカップルが多く見られる。片手にプレゼントやケーキを持つ男性が足早に歩いている姿もある。誰もが幸せそうな顔をしていた。
そんな彼らを穏やかな目で見た女性は、白い吐息と共に言葉を発した。
「主も、自分の教えが伝わらないとしても……こうして、みんなが笑顔でいるのは嬉しいはずです」
ああ、なるほど。
僕は彼女が伝えようとしていることがわかった。
記念日にどんな教えがあったとしても、それがきっかけで笑顔になれるなら、それは決して悪いことではないのだと言いたいのだ。
僕には架空の神様が苦笑いしている想像しかできなかったけど。
そして少し、恥ずかしくなった。
クリスマスを楽しむ人達を冷静に見ている僕は、実のところ誰よりもクリスマスに憧れている。
企業の戦略だとか言って、ホワイトクリスマスなんてないなどと言って幻想を砕いたはずなのに、彼らの笑顔を羨ましく思っている。
僕はやはり、クリスマスに幻想を抱いていたのだ。
家族と、友達と、異性とクリスマスを過ごすと言う幻想を。いや、これを幻想と決めたのも僕だ。彼らにとってそれは幻想ではなく、現実なのだから。これは僕だけの幻想だった。
勇気の足りない僕が、周りを遠ざけていただけなのだと。
目の前を歩き、微笑む彼女と共にいて、交わした短い会話で、そんな単純だけど大きなことに気づいてしまった。
僕の顔をチラリと見た女性は、クスリと笑った。
「本当は、私も嬉しいんですよ?」
「え?」
「今、私は修道女として……あ、シスターと言っても同性愛者じゃないですよ?」
「わかってるよ! って言うか、言われなきゃ意識しなかった!」
「修道女として働こうと思っているのですが、どこの教会で働こうかと迷っていたのです。そうしているうちに、クリスマスイヴになって、ああ、今年は一人なのかなと思ってました」
僕のツッコミは見事に無視され、修道女を名乗る女性は言った。
修道女のイメージとして、かなりの堅物があるが、目の前の女性はとても堅物には見えない。むしろふわふわしていて危なっかしい印象を受ける。
だが、それ故に相談相手としては相応しいのかもしれない。構えることなく、思わず正直に、素直にモノを言ってしまう。
僕も、彼女の柔らかな雰囲気に誘われて話しかけてしまった。彼女と話してみて、少し素直になってみようと思えた。
「……確かに、僕も一人のクリスマスは寂しかったから、嬉しい」
「やめてください。私は修道女です。この身は主に捧げるのです」
「さっきからひどいな!?」
さっきから会話を成り立たせる気がないのだろうか。天然ではなく、故意でやっているに違いない。まったくもって質の悪い人だ。
だけど、嫌いじゃない。彼女は傷つけるために言っているのではなく、笑うために言ってるのだから。僕がそういう性格だと理解して、言ってるのだから。
クスクス笑っている彼女は、とても美しかった。クリスマスで行き交う人々も、男女問わず彼女の笑う姿に視線を一度寄せていた。
少しだけ、彼女といることに満足感を覚えた。
僕の視線を受けたからか、彼女は今度は、聖母のような笑みを浮かべる。柔らかいながらも、いくつもの笑顔、それも強いものを持つ彼女は見ていて飽きない。
「迷える子羊さん、とはもう呼べませんね」
「どうだろう。また迷うよ。いや、迷ってるのが良いのかもしれない」
少なくとも、道がなくなったわけではない。道を選べないだけなのだから。
立ち止まっていることに差はあれど、選べるか選べないかは天地ほどの違いだ。
「ふふ、そうですね。迷うのは仕方ありません。答えは見えるものではないですから。けれど、答えは常に胸にあります。『主』はそこにいるのですから。何もできない無力な『主』ですが、実のところ誰よりも力を持っているのです」
ああ、まったくだ。一日を、一年を、一生を決めてしまう。神を誰もが持っている。それを見失ったために人は迷い、藻掻くのだろう。
かく言う僕もそうだ。クリスマスイヴを一人で過ごすと言う、実のところなんてことのないものだが、それで一日、いや、一年を決めてしまう。
「それを見つける手助けができたらな、と思ってます」
「それは……素敵だ」
彼女の夢を、純粋にそう思えた。それは利益にならない。何よりもキリスト教的生き方だ。だけど、無宗教の僕ではあるが、その生き方は何よりもも美しく感じられた。
まあ、と口に手を当てた修道女は言った。
「女性を口説くときはストレートに攻める方ですか?」
「どうしてそうなる!?」
いちいちボケないと気が済まないらしい。関西の血でも入っているのだろうか。
いや、今回は僕の言い方にも問題があったのだろう。だが、そうとしか言えなかったのだから仕方ない。
「ふふ、嬉しいですよ。やっていること、やろうとしていることを褒められるのは、とても」
きっと口説くのは、この人の方が上手いんだろう。僕はそう思った。
「クリスマスか……明日は誰かと遊ぼうかな」
「それが良いです。主は孤独を尊びません」
彼女と二人で笑い合う。端から見れば、恋人同士か姉弟にでも見えるだろうか。
空を見上げる。雲一つない空に雪の降る気配はなかった。あまりにも地上が眩しくて、星を見ることもできない。月もどうやらまだ昇らないようだ。
夢や幻想だと言いながら、やはりクリスマスには雪と星が欲しくなってしまうのは、僕が明るいクリスマスに憧れているからだろうか。
「シスター」
「はい?」
空から視線を外さずに、隣にいるはずの彼女へと声をかける。返ってきた返事に、どうしてか安心感を覚えた。
「また……あの教会に行ったら、会えるか?」
そしてなぜか、今日のクリスマスイヴは、今まで、家族と過ごしてきたものよりも素敵で。
「……はい。今度は迷わずにいらしてくださいね、子羊さん」
これが幻想であってほしくないと、思った。
今度は迷うことはない。行くための道は、もう知っている。
あの教会には月がいるのだから。
メリークリスマス。小さな声で呟いたそれは、彼女に聞こえただろうか。