ブラコンのクリスマス@れおまる
「んん……?」
何やら下半身辺りに生暖かい感触がして、目が覚めた。誰かが体にのし掛かっている事に気付いたのは、すぐだった。というか、こんな真似をしてくれる様な奴は知っている限りたったひとりしかいない。
姉ちゃん、もとい『変態』は俺の臍に舌を差し込み、執拗にそこをほじくっていた。取り合えず、その真っ黒いアタマを叩いてやることにした。
「いったぁーーい‼︎ あっ、なんだぁ、起きてるならちゃんと言ってよぉー、もう」
弟の臍を舐めるという変態行為を平然とやってのけているが、罪悪感というものを微塵も感じさせない様な顔で頭を押さえている姉ちゃん。じゃなかった、変態。いや、そうでもない。ド変態。
なぜその様な凶行に及んだのか聞いてみたら、何度も起こしても俺が起きる気配が無かったから、というのが理由らしい。たかがそんな事でよくもこんな汚らしい部分を舐めようと思ったもんだ、まったく。
「今日は特別な日だから特別な起こし方をしたの。うふっ、嬉しかったでしょ? まぁくん」
「服を脱ぎながら話しかけるな、このド変態。っていうか会社はどうしたんだよ?」
すると、姉の澪は今の今まで惚けていた顔が突然般若へと変貌した。昔から気性が荒いところがあるのだが、とうとうこの歳になるまで治らなかった。
「こんな大切な日に仕事なんてしてられないでしょ⁉︎ ねえまぁくん、今日は何の日だと思いますか⁉︎」
脱いだパジャマをぶんぶん振り回し、弟を問い詰める澪。服でいたずらするのはやめなさい、もういい歳なんだから、と宥めながら、俺は今日がはたして何を意味する日なのか考えてみた。1年を締め括る最後の月で、ちょうど残り1週間。12月の25日。そういえば昨日はテレビでイヴだの、一昨日にはイヴイヴだのなんだのと散々ほざいていた気がする。
そうか、今日は確かクリスマスだったっけな。もう何年もそんなものとは無縁な生活を送ってきたので、すっかり自分とは関係ない日にちだというイメージが染み付いてしま……っては、いない。そうなるはずが、ないのだ。
なぜなら毎年必ずクリスマスには澪が朝から晩までひたすら弟である俺にひっついて離れようとしない、まさにクルシミマスでしかないのだ。クルシミデス、クルシイDEATH。思い返せば幼稚園の頃から周りに結婚しろだの子供の顔を見せろだのからかわれ続けてきた。
人はあまりにも辛いことがあると、もしくはそれを定期的に経験させられる様になると、自主的に記憶から抹消してしまうシステムが備わっているらしい。そうでもしないとやっていられないから、である。
「思い出してくれましたか? まぁくん。お姉ちゃんとのラブラブなクリスマスの日々を!」
そのまま忘れていれば幸せだったが、無理矢理閉じ込めた悪夢の記憶が俺に断ろうともせずあふれでてくる。あれは、確か小5のクリスマスだった。何を血迷ったのか、澪が持参した生クリームを自分の指に塗り、しゃぶり出した。それもなぜか俺の目の前で、恥ずかしそうに、しかし決して目を逸らすことはなく、クリームを舐め尽くしてもなお指をしゃぶることを止めなかった。
その時の澪が放った「残りの指、ぜんぶふやけさせてまぁくん」という言葉も思い出してしまった。以前からクラスメイトにはからかわれ続けていたが、澪が触れてはならない人間だとようやく気付いたのだった。
だがそんなのはまだ可愛い方だ。中2の時、突然昼休みに茶色の全身タイツに自作のトナカイの角をつけただけのふざけた格好で、俺のクラスに突っ込んできた事もある。いきなりお尻を突き出して、叩いてくれたまえ、サンタクロース様。蹴飛ばしてくれたまえ、サンタクロース様。と叫び続けた。
愚かな俺はこの時まで澪が単なるブラコンではなく、変態的な性癖をもっているという事に気付かなかった。本人は興奮して我を忘れてしまうと言っていたが、周りは忘れてくれない。澪だけがアホだと思われるのはいいけど、俺は変態女の弟として見られてしまうのだ。迷惑でしかない、もはや。
高校の時なんか、本当に見るも無惨な素っ裸で大事な部分を生クリームで隠しただけの格好で教室に突っ込んできた。公然ワイセツの罪で停学1週間を喰らったのだが、どうせならそのまま退学処分にしてほしかった。高校まで同じ所についてきて、寒い季節にクリーム以外は裸だったのになぜか汗だくになるほど興奮していた超絶ド変態、それが姉の澪である。
だが、歳をとるにつれて自然と変態的な部分は無くなっていった。学生の頃はカッとなると裸で外に飛び出したりすることもあったが、今はもうしなくなった。本人いわくそんな姿でうろついてたらお巡りさんに捕まるから、らしいが、逆に働き出すまでそれを知らなかったのは凄いと思う。
こんな人間を雇う様な奇特な会社があるなんて、世の中はよく分からない。
「思い出したよ……余計な真似してくれて。忘れてた方がいいことなんて、たくさんあるんだよ姉ちゃ……」
しゃべっていたはずなのにいきなり唇を指で塞がれた。鬱陶しかったので顔を振ってその指を払い、話の続きをしようとしたら、またもや指で塞がれた。今度は丁寧に人差し指と中指で鼻の穴を塞ぎ、唇を親指で塞いでいる。すみません、こいつ殴っていいですよね?
「今日はクリスマスだよ。みおたんって呼んで」
こんな面倒な変態をどうしてひっぱたいたらいけないのだろうか。そもそも、なぜ澪は俺ばかりを構うのだろう。弟の贔屓目だけど顔は悪くないんだし、いい加減彼氏のひとりでも作ってくれればいいのだが。
俺は澪のせいで彼女が出来たことがない。姉のイメージがアタマに染み付いていない生徒など、周りには誰もいなかった。こんな変態の弟がまともだという証拠はどこにもないのだ。風評被害もいいとこだ。使い方があってるかどうかは知らないけれど。
やはりあの時背中を蹴っ飛ばしてやれば良かったんだ、ともう数えきれないほど心のなかで繰り返し呟いてきた言葉を、もう一度呟いた。
――――――――
東京の企業に内定が決まり、澪が実家を離れる事になった。俺はやっと解放される喜びで浮かれまくっていた。やっと変態の姉がいなくなる、とわざわざ本人の前で言ってやるくらい喜びに震えていたのだ。澪はそれでも、ずっと笑っていた。そう、ずっと。本当は何を考えているのか、まったく知らなかった。
旅立っていく日の朝、澪は玄関で振り向いた。やはり笑顔だった。笑っていた、いつまでも。その目から涙が落ちても、溢れても、笑ったまま、笑おうとし続けていた。
こうなることを予想していたが、まさかここまで我慢しようとするとは思わなかった。戸惑う両親と一緒に、俺もどうしたらいいのか分からず、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
「……ぐ、ない、よぉ……」
ぼろぼろと涙が流れているが、それでも手で拭おうとはしなかった。俺はこの時初めて、澪を……なんでも、ない。言いたくないし、言うべき事じゃないと思うから。澪は泣きじゃくりながら、もう一度繰り返した。
「いぎだぐ、ない、よぉ。まぁぐん、ひっく、おいていぎだぐ、ない。ひっ、えぐっ、ひっく、ぐすん」
今までどんな酷い怪我をしても決して泣いたりしなかったあの姉が、たかが弟と離ればなれになるくらいで涙が止まらなくなっている。こんな時は笑顔のまま弟に手を振って別れた方が格好いい。ブラコンなのに、別れの寂しさを微塵も見せない、そんな別れをしてほしかった。
とうとうその場にしゃがみこんでしまい、更に激しく泣きじゃくり出した。それでも顔を手でおさえないのは、澪なりの精一杯の姉らしい振る舞いなのだろう。
俺の膝は勝手に折れていた。そして、手が同じく勝手に澪の頭に触れていた。包んでやろうとしていたのは、それも同じで勝手にそう思わされていただけだ。
「ほら、泣くな澪。胸張って行けよ」
「だっで、まぁくんと離ればなれになるんだよ、そんなのやだもん。ずっといっしょにいたいんだもん」
どうしても澪は動かなかったので、両親の提案で駅までついていく事になった。本当のお別れをそこでしよう、と澪と約束した。泣いて落ち着いたのか、澪は頷いてくれた。
俺はやはりバカだったのだろう。弟の前で泣くという、姉の弱々しいところを見てしまったせいもあるかもしれないが、やはり家を出たら背中を蹴っ飛ばしておけば良かったのだ。
「……行こうよ」
「だめだって。約束しただろ? ここまでだよ、俺は」
「いっしょに住もう。お金はお姉ちゃんがなんとかするから心配しないで」
「だから、ダメなの。もう大人だよな? わがまま言ってないで、早く電車に乗るんだ」
そこでしばらく黙りこんでから、澪は突然大きな声でこう叫んでくれた。
「駅員さーーーーん‼︎ この人私のお臍に指入れました! 痴漢です‼︎ 逮捕してくださーーーーーーい‼︎」
「なっ、なんっ、だとっ?!」
そして密室へと連れていかれたあと、じつは弟と喧嘩してて悔しくてやっちゃいました、てへぺろ☆と言った。最後は誇張ではなく、事実である。突然の澪の奇行に動揺した俺は、そのままなし崩しにこの家まで連行された、という訳である。
――――――――
あの時俺に涙に騙されない強さがあったなら、こんなことにはならなかったのだ。
「さあ、まぁくん、最高のクリスマスにしようね」
澪はパジャマを脱ぎ捨ててその貧しい胸板をあらわにしてくれた。見せないでほしい、本人が笑顔というのが余計に痛々しく感じてしまうのだから。
そして用意してあった生クリームを体に塗りたくる。こいつはバカだ、今までもそうだったのだし、きっとこれからもこのままなんだろう。
こうして、俺のクリスマスにまたひとつ新しい記憶が刻まれていくのだった。
「あっ! あっ! まぁくん、もっと優しくっ‼︎」
「叩いてほしいんだろ? 蹴っ飛ばしてほしいんだろ?」