まっしろなせかい(前編)@音風奏太
最初に言っておく。
僕は引きこもりだ。理由は語りたくない。
それが引きこもりというものだ。野暮なことはしないほうがいいよ。互いのためにならない。
今日は十二月二十四日。
年頃の若者が、一人で過ごしたら負けだとかいう価値観に縛られ、ろくに好きでもない異性と付き合った挙句の最終地点となる日。そんな一時的な関係を築くことに、一体どんな意味があるんだろうね。僕にはさっぱり分からない。
本当は、キリスト教のお偉いなんとかさんが生まれただか死んだだかの日だったが、そんなの知ったことじゃない。その人の信者でも無ければ僕の先祖でもないし、赤の他人の生き死にの日をいちいち覚えているほど、僕は余裕のある人間じゃない。引きこもりだからね。
あと、眠っている間に何かしらの物を子供限定で届ける、赤い服の年老いた不法侵入者が現れるという話もある。小さな頃はそんな彼に好奇心をもっていたが、小学校に上がる前にはもう、その存在は親が子供の夢として持たせたもので、実在しない偶像に過ぎないことを悟っていた。
結局のところ、今日……すなわちクリスマスイブは、特別な日だとは到底思えない。しいて言うなら、世間が騒ぎ立てる程度。
僕にとっては、そんな程度の認識でしかなかった。
その日が終わるまでは。
僕は普段、他の家族が家を空けているとき、もしくは眠っているときにのみ活動する。
簡単に言うと、午前は六時から八時まで、午後は六時から十二時まで。この二つの区間は、僕は睡眠時間としてあてている。
だから、今日も深夜に起きた。
ベッドから身を起こし、いつものようにパソコンの前に座る。
そうするつもりで布団をめくる。
「……すぅ……すぅ……」
かけなおす。
「…………」
何かがあった。
銀色のもしゃもしゃしたものと、白いもふもふしたもの。
僕の体の隣に、そんな幻影が見えた。
「寝ぼけてるんだな、僕」
目をこすって、もう一度布団をめくる。
「……すぅ……すぅ……」
まだあった。
「まだ寝ぼけてるんだな、僕」
もう一度めを擦ってから、確かめる。
あった。
「……ふむ」
とりあえず、その存在を認めることにした。
「さて、なんだろうこれは」
続いて、その正体を確かめる作業にかかる。とりあえず、手元にあったもしゃもしゃをいじってみると、その下に、何か硬いものがあることに気付く。
もしゃもしゃを掻き分けて確かめると、どうやらその硬いものから、このもしゃもしゃが生えているようだ。
……生えて、いる?
僕は、視線を隣の白いもふもふに向けた。よーく見ると、もふもふは四方向に柱を伸ばしている。
「……まさか」
一つの予想がついて、僕は一度ベッドを出る。もしゃもしゃともふもふに手をかけて、さっきまで僕の体があった方向に転がして、それらを裏返す。
「…………マジ?」
それは、女の子だった。
銀色のもしゃもしゃは、銀色をした髪の毛。白いもふもふは、フリルが付いたたけの短いドレスと、そこから伸びた手足だった。
「……すぅ……すぅ……」
小さな寝息を立てる、小さな女の子だ。十歳ぐらいかな。
それが、僕のベッドで寝ていた。
「……夢だな、これは」
そうだ、夢に違いない。
しかし、なんて夢を見ているんだ僕は。こんな、朝起きたら美少女が隣で寝てればいいのにとかいう過度にアニメが好きな人間が真剣に考えてそうな状況を、夢に見るなんて。
僕の深層心理は、少なからずそういう願望がある、ということなのかな。
まったく、バカバカしいね。
自分で自分に呆れつつ、僕はまた布団に戻った。
人間が自らの意思で制御できない行動はいくつかあるけど、その中でも最も身近なのは、この睡眠という行為なんだと僕は思う。
現に、布団に入ってから少しの間は意識があるのに、気が付くと目がさめて、ああ今自分は眠っていたんだと、そのときになって初めて認識できるからだ。
人間の三大欲求だとか言われるのも、これほど本能的だと納得せざるをえないね。
そして今回も、僕は自分の意思とは関係なく、いつの間にか今一度眠りに付いていた。
なんとなく、体が傾いているような気がする。
それが気になった僕は、そのまま目を覚ました。
「……ん」
目を開けて、体を起こす。
「あっ」
途端、人の声が聞こえた。
「――っ! 誰だ!」
反射的に、布団のそばにある木刀を握り、構える。
「はわぁっ!」
声の主は慌てて腰を上げ、
「――わぅ!」
バランスを崩し、倒れた。
僕のベッドに座っていたのか。
「わぅ……いたい……」
女の子はやや涙目で、自分の頭を抑える。その先を見ると、僕の貯金箱が落ちていた。なんで落ちているかはわからないけど、彼女はこれに頭を打ったらしい。
「びっくりしたよぉ……」
その場に座り込んで、目に涙を溜める少女。
「ひどいよぉ、悠一くん……」
「あ、ああ、ごめん……」
何故かすごくかわいそうで、つい謝る僕。――って、
「僕の名前を知ってる……? 君は一体――」
「よくぞ訊いてくれましたっ」
僕の言葉をさえぎって、女の子はすくりと立ち上がった。
「しずまれぇー、しずまれぇー」
……いやそんな、某時代劇で先の副将軍に仕える武士が群集に向かって言うようなセリフを言われても、僕しかいないし、そもそも元から静かなんだけど。
「この翼が目に入らぬかぁ」
言いつつ彼女は、その体を少し前に倒す。
途端――、
「……え……?」
その背中から、白い光が放たれた。
光は左右二方向に広がり、曲線を描いて、それぞれ彼女の前にまで伸びる。
やがて光が消えると、そこには、
「つ、翼!?」
翼があった。
女の子の背中から生えた、真っ白な翼。
「そう、翼だよっ」
女の子はそれを左右に伸ばし、その存在を見せ付ける。
「えへへ。なんとわたしは、空からやってきた天使さんなのです」
「て、天使!?」
「そう、天使なのです。えっへん」
いいつつ胸を張る少女の背には、やはり白い翼がある。
「うーん、でも邪魔になるから、翼はちっちゃくしとこっかな」
そう言うと、彼女の翼は収縮しはじめて、ある程度の長さになると、そのまま動かなくなった。
「すごいでしょ? 人間にはない、翼だよっ?」
こちらに背を向けて、その翼を自慢げに見せ付ける女の子。
僕はそれを、じっとみつめてみる。
「……これ、本物?」
言いつつ、ためしに指先でつついてみた。
「――ひゃんっ!」
すると、翼がビクンと動く。同時に女の子が甲高い声をだした。
「か、勝手に触っちゃ、ダメっ。天使の翼は敏感なんだから、いきなり触られると、ビクンって、なっちゃうのっ」
「……へぇ」
よく分からないけど、やめろと言うなら、もうやめておこう。
「……で、さ」
気を取り直して、僕は彼女の前に腰を下ろした。天使の女の子も、その場にちょこんと座る。
「君、誰?」
とりあえず、そう問いかける。
「わぅ? わたしは、天使だよ?」
すると、不思議そうな顔でそう返してきた。
「いや、そうじゃなくてさ、名前だよ、名前」
「わたしの、名前?」
「そうそう」
僕が頷くと、彼女はうーんと考え込んでしまった。
少し待つと、やがて、
「しろな」
そう答える。
「しろなちゃん、でいいかな」
「うんっ」
天使の女の子あらため、しろなちゃんはこくりと頷いた。
「じゃあ、しろなちゃん。あのさ、何で僕の布団にいたの?」
とりあえず、一番の疑問から口にする。
「それはねっ」
そう言ったしろなちゃんは、僕の手を取った。
「わたし、悠一くんのお友達になりたいの!」
……ふむ。
「友達、ねぇ……」
正直、僕は友達というものには恵まれていない。そしてそれは僕が引きこもりな理由の一つでもある。
「言っておくけど、僕と友達になっても、何の利益もないよ?」
何度も言うけれど、僕は引きこもりだ。それはつまり、社会の言う「常識」あるいは「普通」とは違う存在だということ。異質で、異端で、出る杭であること。
ため息が出た。
「あのね、しろなちゃん。友達って言うのは、同じ価値観や趣味を持つ人間同士が互いを尊重しあって、互いの存在とその関係を第三者に説明するときに使う品詞もしくは代名詞あって、君が言うそれは、そう言うことで相手に自分にはそういった関係を築きたいいう意思を示すことになるんだよ? 分かってる?」
「……え、え?」
僕の言葉が理解できなかったようだ。
「だから、友達って言うのは、同じ価値観や趣味を持つ人間同士が互いを尊重しあって、互いの存在とその関係を第三者に説明するときに使う品詞もしくは代名詞あって、君が言うそれは、そう言うことで相手に自分にはそういった関係を築きたいいう意思を示すことになるんだよ」
同じように、もう一度説明する。
「わうぅ、わかんないよぉ……」
通じなかったようだ。
「何回言われてもわかんないよぉ、悠一くん」
困惑顔でうつむき、上目遣いで僕を見る。
「そんな悠一くん、きらいだよぉ……」
……ふっ。
「ああ、そう?」
呆れた。
勝手に友達になりたいとか言って、勝手に嫌うんだから。
「じゃあ、バイバイ。もう来ないでね」
嫌うなら、最初から友達になりたいなんていうなよ。
離れていくなら、最初から近づくなよ。
嫌なことを思い出すじゃないか。
勝手に友達と言って、勝手に離れていった奴等のことを。
勝手に嬉しくなって、勝手に悲しくなった過去の自分を。
どうせまた、そんな程度のことなんだろ?
喜ばせたほうが、悲しみは深くなるって事の実験なんだろ? 確認なんだろ? 体現なんだろ?
付き合わされる当事者の気も知らないで、ただ思いつきのままに行動したんだろ?
悪いけど、今回はそうでもないよ。
もう僕は、それを知っているのだから。
「ああっ! 違うの、うそなの、ホントは嫌いなんかじゃないのっ」
立ち上がって背を向けた僕だったが、突然、その背に手が回された。
「行かないでっ、嫌ってないの、ほんとはすきなのっ」
背中で、シャツが濡れる。
それに気付いて振り返ると、
「ごめんなさい、ごめんなさいっ、ごめんなさい……っ」
泣いていた。
しろなちゃんは、僕の背に顔をうずめて、泣いていた。
「…………え……?」
しばらく僕は、そのまま動くことも、言葉を発することも出来なかった。
どうしてそうなったのかは、わからない。けれど、僕はしろなちゃんを泣かせた。
その事実が、僕の中で負い目になったのかもしれない。
気が付けば僕は、、彼女に対する警戒心というものを忘れていた。
「ねぇ、悠一くん」
床に座る僕に、ベッドに座るしろなちゃんが、言葉をかける。
「一緒に、あそんでほしいな」
見ると、彼女の手には、見覚えのある小さな箱があった。
それは、トランプ。
まだ小さな頃、とある観光地に行った時に、お土産屋で母にねだって買ってもらったものだ。
その観光地にちなんだトランプで、いろいろな景色の写真が、絵の変わりに使われている。
僕はときおり、それを手にとって、写真の美しさを楽しむんだ。
そんなトランプを両手に持ち、僕を見るしろなちゃん。
「悠一くんと一緒に、あそびたいの」
先のことがあってだろうか。
しろなちゃんは、おずおずとそう言った。
だから、だろうか。
「……いいよ」
僕はそう答え、彼女と向かい合った。
「――っ」
するとしろなちゃんは、ぱあっと顔を綻ばせて、
「やったぁっ」
にっこりと微笑んだ。
「わたし、七並べしたいなっ」
そう言って、トランプの束を僕に渡す。
「……うん、いいよ」
僕はそれを受け取り、カードを混ぜる。
そうしながら、僕はふと、しろなちゃんを見た。
彼女は嬉しそうな瞳で、僕の手元のカードを見つめている。
なんでだろう。
僕にはそんな彼女の顔に、親近感を感じた。
どことなく懐かしいような、心の中がじんわりする感じ。
僕にはそれが、少し、心地よく感じるんだ。
何度か勝負して、勝ったり負けたりした。
多分、半々ずつくらいだろう。
「さすがに飽きてきたよ……」
あれからずっと七並べばかりを、しかもたった二人でやっていた。
その数、十数回。さすがにこれほどやっていると、工場の生産ラインでひたすら同じ作業を繰り返しているかのような感覚になってくる。いや、そんなところで働いたことはないけれど。
「じゃあ、何か別のこと、しよ?」
そう言うと、しろなちゃんは僕の手を取った。
「あっ」
意図せずも声が漏れる。
突然手を握られて、少し驚いた。ただそれだけ。
「どうしたの?」
不思議そうな顔をするしろなちゃん。
「ああ、えっと……」
特に何でもない。はずだ。
だけど、なんだろう、この感じ。
さっきも感じた、心の奥がじんわりと暖まる感覚。
それを、より強く感じる。彼女と触れ合った手が、そうさせているように思える。
そして、僕はこれを、ずっと前に感じたことがある。
「ねぇ、しろなちゃん」
その違和感を、何とか言葉にしたくて。
「僕たち、前に会ったこと……ないかな? ……そう、ずっと前に」
そんな言葉が出た。
「…………」
しろなちゃんは、驚いたような表情で、固まる。
しばらく沈黙が続く。何故か、空気が重い。
もしかしてこれは、聞いてはいけない事……だったのかな。
「……ううん、違うね」
なので、自分からその問いを流した。
「多分、僕の気のせいだよ」
なんとなく、そうしないと空気が変わらないと思って、しろなちゃんの手をさりげなく離す。
「ごめんね、変なことを聞いて」
言いつつ僕は、今だ場に並べられたままのトランプを、手元にかき集める。
「…………」
それから、僕がカードをすべて集めるだけの沈黙があって、
「うん、きっと、気のせい……だよ」
しろなちゃんは、ようやくそう言った。
垣間見えた、彼女の表情。
それは、必死に何かを我慢する顔、に見えた。
それから、ババ抜きや神経衰弱などの定番ルールはもちろん、ポーカーやスピードなどの、多少複雑で、マニアックな遊びもこなした。
そして、驚くことにしろなちゃんは、それらすべてのルールを完全に理解していた。しかも、その手際や楽しみ方も、とても十歳前後の少女とは思えないほどにレベルが高く、油断したらすぐこちらが負けてしまうほどだった。
それを謎に思いつつも、何故か違和感があまり沸かないなぁと感じ始めた頃。
午前五時半、つまり、僕が少しだけ睡眠を取る時間になった。
家族が家で活動する時間。家族と顔をあわせたくない僕は、その時間は睡眠に当てているのだ。
「あのさ、しろなちゃん。僕、そろそろちょっとだけ寝ようと思うんだ」
そう切り出すと、意外にもしろなちゃんは、特に何かを言うでもなく、ただ頷いた。
「うん。おやすみ、悠一くん」
「え、あ、うん。おやすみ」
やけにあっさりとしていたため、少し拍子抜けだったけど、僕はそのままベッドに入り、寝た。
再び目を覚ますと、時計は八時半を指していた。
家族はもうみんな家を出た時間だ。僕は掛け布団をめくり、体を起こ――、
「……あれ?」
そうとして、ベッドに腰が固定されていることに気が付いた。
違う、ベッドに、じゃない。
もじゃもじゃだ。僕の隣のもじゃもじゃが、白い柱で僕の腰を押さえつけている。
つまり……、
「……ああ、やっぱり」
もじゃもじゃをかき分けると、そこには、安らかに眠るしろなちゃんの顔が。
要するに、しろなちゃんが、僕の腰に掴まって寝ているんだ。
「やれやれ」
別に不快ではない。その気になれば振りほどくことも出来る。
だけど。
僕はまた、感じていた。
あの、心の奥のじんわりした感覚。
これは一体何だろう。
変に温かい感覚。
不思議と不快ではなく、むしろ……心地よい。
「……しばらく、このままでもいいか」
僕は体を起こすことなく、しろなちゃんの顔を見る。
ふと。
しろなちゃんの口が、小さく動いた。
「……おにぃ……ちゃん……」
寝言だろう。そう聞こえた。
「お兄さんの夢でも見てるのか……」
僕はそんな彼女の頭に、そっと手を載せる。
そして、やさしく撫でた。
なんとなく、そうしたいと思ったんだ。
一時間後、しろなちゃんは目を覚ました。
それを機に、僕らは朝食を取ることにする。
リビングへと移動し、しろなちゃんをテーブルで待たせ、僕は戸棚からコーンフレークを取り出す。
「しろなちゃん、コーンフレークでもいい?」
彼女はイスに座ったまま、こくりと頷いた。
「了解。ちょっと待っててね」
僕はそう返し、続いてスプーンと、コーンフレークを入れる器を取り出す。まずはいつも僕が使うやつ。手の届くところにおいてある。
続いて、しろなちゃんの分だけど……。
「……スプーンって、どこだったかなぁ……」
僕のスプーンは毎朝使っているので、器の上に置く形で片付けてある。
けれど、それ以外のスプーンがどこにあるのかは、把握していなかった。
効率を考えて自分の分だけ家族とは別方法で片付けてあるため、逆に家族がどこに何を片付けているかを把握していないのだ。
かつては知っていたが……もうずいぶんと前から、僕は自分のことしかしていない。いくら住み慣れた家でも、ずっと使っていなければ、忘れてしまうことだってある。
とりあえず、近くの棚をあさってみるけど……見つからないなぁ。
「この戸棚にあることだけは、間違いないと思うんだけどなぁ……」
言いつつ、今度は棚の下の引き出しをあけてみる。
「あっ」
あった。大小さまざまな物が、フォークと一緒に入っている。
「そうか、ここだったっけ」
とりあえず、しろなちゃんの身丈にあうサイズのものを探す。あまり大きいのだと持ちにくいだろうし……。
そう思いながら、手を伸ばしてスプーンをまさぐる。すると、
「……えっ」
一瞬、息が詰まりそうになった。
鉄や木で作られたスプーンたち。
その中に一本だけ、プラスチックで作られた、スプーンがある。
柄の部分に、かわいらしいウサギの絵がプリントされた、とても小さなスプーン。
そこには、黒いマジックで字が書かれている。
「――っ」
それを読んだ僕は、思わすテーブルで待つしろなちゃんを見た。
まだ起きたばかりだからか、少しボーっとしている、小さな女の子。
僕は、彼女と出会ったばかりだ。どこかで会ったような気もしたが、今まであったことは、一度もない。
その……はずなのに。
「…………」
僕は黙って、そのスプーンを元に戻した。代わりに、それより少し大きいものを出し、まずはそれと、器二人分と僕のスプーンを持ち、一度テーブルに戻る。
「……ちょっと待っててね、牛乳取ってくるから」
言って、もう一度立った。彼女はボーっとしたまま、こくりと頷く。
彼女の顔を見て、僕はスプーンの文字の意味を、今一度考えてみる。
そこに書かれていたのは、ひらがな三文字。
そう、他でもない『しろな』の文字。
「…………」
どうしてその名が、スプーンに書かれていたのだろう。
まるで、僕らがこうして、共に食事をすることを、誰かが予知していたかのように。
違う、もっと前だ。そもそもしろなちゃんが、僕の前に現れることすら、その誰かは予知していた……ということにならないだろうか。
「……そんなわけないか」
予知だなんて、そんなことできるわけがないじゃないか。よく考えるんだ、僕。
しろなちゃんは、僕が起きたときに初めて会った。つまり、僕が寝ている間に、他の誰か会っていてもおかしくはないじゃないか。
そう、例えば、あらかじめこの事を母さんに話していたとしたら、母さんが、僕らの事を考えて用意してくれたのかもしれない。母さんならやりかねない。
「きっと、そんなところだね」
自分なりに納得して、僕は牛乳を取り出し、またテーブルに戻った。
その後、しろなちゃんと二人で朝食を取り、後片付けを済ませて、僕らはまた部屋に戻ってきた。
「ねぇ、悠一くん」
寝る前に片付けたトランプの箱を手に、しろなちゃんが言う。
「わたし、たまには別のこともしたいな」
ふむ。
「別のこと、ねぇ……」
言いつつ僕は、自分の部屋を見回す。
そもそも僕の部屋は、そんなに物が多くない。ベッド、勉強机、その上のパソコン。
それ以外は、ちょっとした本と、ネット通販で買ったプラモデルと……、
「……ああ、そういえばアレがあるっけ」
言いつつ僕は、棚から一つの箱を取り出す。
「それ、なぁに?」
それを床に置くと、しろなちゃんが興味を示した。僕は箱に書かれた文字を読み上げる。
「ええっと……『かなりアレな人生ゲーム! リニューリアルエディション』だってさ」
前に間違えてネット通販で買ったものだ。開封したことはないけれど、なんとなく返品する気になれず、そのままずっと放置してあった。
それにしても、「リニューリアル」ってなんだろう。リニューアルなら分かるけど……。
「わぁ、面白そうっ。悠一くん、やろうよっ」
しろなちゃんはそれを見て、そう言った。
「そうだね、ちょっとやってみようかな」
僕もそれに同意し、ゲームの箱をあけた。
数十分後。
「――『さまざまなゴタゴタがあって、職場の同僚から嫌がらせを受けるようになり、それに気が滅入って退職する。職業カードを場に戻す』。……なんだこのマス」
「わぅ、クビになっちゃった」
しろなちゃんはそう言って、手持ちの職業カード「参議院議員」を場に置いた。
「でも、たいしょくきんが入るから、お金はあっぷだよっ」
確認してると、確かに「退職金・四十万円」とかかれている。議員に退職金なんてあるのかな? ……まあいいや。
とにかく、場から四十万円を、しろなちゃんに渡す。
「じゃあ、次は僕の番だね」
言いつつ、ルーレットを回すと、矢印が五の数字を指した。コマを五マス進める。
「……えっと、『所得税が増税され、給料の手取りが減った。これ以降、すべてのプレイヤーの給料が半額になる』……って、半額!?」
どんだけ増えたんだ、所得税。
あんなもの、人が働いてコツコツ溜めた金の一部を至極当然のようにかっぱらい、とくに需要があるわけでもないのに変な場所に変なものを建てたり、しっかり働いているかどうかも分からない公務員共に払う労働賃金にしたりするくらいしか能がないくせに、どうしてそう値上げするんだろうね。
まあ、それで生まれる「年金」なんてもので生活している老人が増えているから仕方ないのかもしれないけど、そもそも六十五年も生きてたくせに、国におんぶだっこでまだ生きようとするなんて、それはちょっと図々しくはないかな?
年寄り優先? バカバカしい。そんな風潮で楽な生活を堪能させてるから、彼らは未練がましく生きようとするんじゃないか。だから結局年寄りは増えるし、その分年金が必要になって、ますます増税せざるを得なくなるんだ。
「ホントにこんなことになったら、僕は絶対に税金なんて払わない……」
まあ、所詮は僕の偏見だ。こんなことを僕が思っていても、世界は何も変わりはしない。
こんなことは忘れて、ゲームに集中しよう。
「さあ、次はしろなちゃんの番だよ」
とりあえず、現状僕がすることはないので、番を譲る。
「うん」
しろなちゃんがルーレットをまわした。矢印は七の数字を指して止まる。
「えっと、一、二、三、四、五、六……ななっ」
彼女がコマを置いた位置の文章を読む。
「えーっと、『無実の罪を着せられて、冤罪で牢屋に入れられる。一回休んだあと、慰謝料二十万円を貰う』……」
……これ、本当に人生ゲームなんだろうか。プラスマスに止まったとはいえ、全然嬉しくない……。
「やったー、またまたあっーぷ」
しろなちゃんには関係なかったようだ。……まあ、多分『冤罪』の意味がわかってないんだろうね。
「でも、一回休みだからね」
僕は念を押して、またルーレットを回す……。
結局、僕はその二十万円差で、しろなちゃんに負けた。
人生ゲームが終わると、丁度お昼ごろになった。
「そろそろ、ご飯にしようか」
そういって、しろなちゃんをつれて今一度リビングに下りる。
「さて……今日の献立は何にするかな……」
僕は言いつつ、冷蔵庫を開けて食材を確認する。ここにある材料で、僕が作れるものといえば……オムライスとかカレーとか、かな。
「しろなちゃん、オムライスとカレー、どっちがいい?」
しろなちゃんに訊いてみると、
「どっちも!」
んな無茶な。
「流石にそれはちょっと……。オムライスじゃなくて、オムレツでもいい?」
「うんっ」
妥協してもらうことにした。
「了解。ちょっと待っててね」
言って、僕は調理を始める。
数十分が経過して、ふと思う。
そういえば、僕はどうして、しろなちゃんの分も作ってるんだ?
別にそこまでする義理はないんじゃないか?
そうだよ、もともと彼女は不法侵入者みたいなものなんだ。それなのに僕ってヤツは……。
「こういうの、お人好し、っていうのかな」
そう呟きながら、かき混ぜた卵をフライパンに流し込む。
「ねぇ、まだー?」
「もうちょっとだよ」
当のしろなちゃんは、朝と同じ席に座って、そこに突っ伏して待っている。
「わうー。お腹すいたよー」
のんきなものだ。
正直に言うと、カレーはすでに出来ている。が、先に片方だけ出すというのは、個人的に嫌なんだ。食べる分がしっかりと用意できてから、あとは食べるだけの状態でガッツリ食べたい。
だから僕は、もしお金があっても、コース料理なんて絶対に注文しない。
「よっ、と」
卵の上にチーズを巻き、少し時間を置いてから、フライ返しで卵をくるむ。
……よし、完成だ。
あらかじめ用意しておいた二枚のカレー皿の上に、オムレツを乗っける。僕の分はもう完成しているから、これはしろなちゃんの分。
「はい、出来たよ」
言いつつ、僕はそれをテーブルに運んだ。オムレツ付きカレー。
僕が出来る料理の中で、僕自身が最も好きなものだ。
「待ってましたっ」
しろなちゃんはがばりと頭を上げて、皿を覗き込む。
「うわぁ、美味しそう!」
目をキラキラと輝かせる彼女。僕にしてみれば、それほど珍しいものでもないけれど、彼女にはそうでもないらしい。
「いただきますっ」
いうや否や、スプーンでカレーをすくい、口に運ぶ。
「おいしーい!」
そして、満面の笑みを僕に向ける。
「そう? よかった」
少しくすぐったい気分だ。
「悠一くんのごはんは、やっぱりおいしいよー」
しろなちゃんの言葉はきっと本心だろう。目を細めつつ、頬を押さえて咀嚼するその姿が、なによりそれを表している。
僕も自分の分を口に運んだ。……相変わらず、これといって進展しない僕の料理だけど、なんとなく、いつもより美味しい気がした。
やがてしろなちゃんは、オムレツに手を付けた。
「わぅー、これすごいよー!」
途端、声を上げる。
「オムレツにチーズが入ってる! これって、カレーと混ぜて食べると、おいしいんだよね?」
気付いたようだ。
「まあね」
味に飽きないようにと、僕なりに工夫をしてみたのだ。
まずはカレーを食べて、少し経ったら卵を崩して卵と食べ、卵がなくなると、今度はチーズの入ったカレーとして食べる。
そうすることで、最初はカレーそのものを楽しみ、続いて卵カレーを楽しみ、最後はチーズカレーを楽しむことができるんだ。
「名付けて、チーズオムレツカレー。そのまんまだけどね」
少し得意げにそう言うと、しろなちゃんは、
「おいしいなぁー」
……聞いていなかったようだ。
まあ、いいけどね。
リビングでご飯を作っていたとき、今日は日差しが強いことに気付いた僕は、しろなちゃんを連れて、外に出ることにした。
思ったとおり、外は言うほど寒くない。長袖の上着を一枚着ていれば、むしろ少し暑いくらいだ。
断っておくけれど、僕は引きこもりとはいえ、外に出れないわけじゃない。単に不登校なのと、親の顔が見たくないだけなんだ。
だから、クラスメイトや親に会う心配がなければ、外に出ることもある。
「ねぇ、悠一くん。どこに行くの?」
もちろん、僕の隣にはしろなちゃんがいる。一人で家に置いていったりはしない。
「公園だよ」
僕はそう答えた。
ちなみに彼女は今、淡い紫色をしたフード付きのコートを着ている。どこから持ってきたのかは知らないけれど、それは全身真っ白なしろなちゃんに、ちょっといい感じのアクセントになっている。
まあ、それはさておき。
僕の手には、物置から取り出した、とあるものが握られている。
公園に着いたら、これでしろなちゃんと遊ぶつもりだ。
あまり遊具は多くないけれど、芝生はしっかりとしている公園についた。
ここは、僕が昔からよく来る公園だ。今でもたまに、外の空気が吸いたくなると、ここに来る。
「さて、しろなちゃん」
広い芝生をみつめる彼女に、僕は手に持ったものを見せる。
「これ、何かわかる?」
「あっ、フリスビー!」
そう。正式名称はフライングディスク。フリスビーという名は商標登録されてしまったので、今では俗称なんだとか。
「これで遊ぼうか」
「うんっ」
僕が提案すると、しろなちゃんは特に反論もせず、むしろ嬉しそうに頷いて、芝生の地面を駆け出した。距離を取っているのだろう。やり方は分かっているらしい。
「いくよーっ!」
遠くに行ったしろなちゃんに、大きな声でそう言うと、彼女はその場でぴょんとジャンプした。
投げていい、って意味かな。
「それっ!」
振りかぶって、ディスクを投げる。
少しだけずれてしまったが、概ね彼女のいる方向へと飛んだ。しろなちゃんはそれを追って駆け出し、横に跳んで両手でキャッチした。
「やったーっ!」
ここまで聞こえる元気な声に、思わず頬が緩む僕。
「次はしろなちゃんの番だよーっ!」
「うーんっ!」
返事をしてすぐ、彼女はディスクを投げた。
……が。
ディスクは彼女の真上を飛んで、手元に戻ってしまった。
「あれーっ!?」
それを手に取り、不思議そうに首をかしげる。
「えいっ!」
もう一度投げた。
……が、今度は何故か、後ろに飛んでしまう。
「わぅっ、待ってーっ!」
慌ててそれを追うしろなちゃん。
……彼女は、キャッチだけにしたほうがいいかもしれない。
とくに反論されることもなく、しろなちゃんは僕の提案に乗った。
彼女はキャッチするのみで、取ったら僕のところに持ってくる。
最初は、それから彼女がまた離れるまで待っていたけど、何故か少しずつ、その感覚が短くなって。
「よく取れたね。さて、次いくよっ!」
「わーいっ!」
気付けば、僕は受け取ると同時に、ディスクを投げていた。しろなちゃんは僕と同じ位置から、それを追って駆けていく。
やがてディスクより前に出て、待ち構えてそれを取った。
「やったー! とれたよーっ!」
嬉しそうに駆け寄るしろなちゃん。僕のところに戻ると、ディスクを手渡す。
「今度は、もうちょっと高く投げるよ?」
「うんっ!」
「よし、それっ!」
宣言どおり、僕は先ほどより高い位置に投げる。駆けて行くしろなちゃんは、それ落下する位置を予測して――、
「わうーっ!」
地を蹴り、高くジャンプ。
両手を伸ばして、きれいにキャッチした。
「とれたーっ! とれたよーっ!」
そのまま僕のところに戻ってくる。
「よくできたね、いい子いい子」
何気なく頭を撫でてみた。
「わうー……」
するとしろなちゃんは、目を細めて喜ぶ。褒められて嬉しいのだろうか。
とりあえず、しばらく撫で続けた。
「……さて、次行くよ?」
手を離し、ディスクを握る。
「うんっ」
しろなちゃんはそれを見て、駆け出す準備をした。
「たあっ!」
今度はかなり高いところ。さて、取れるかな?
しろなちゃんはディスクめがけて全力疾走。
さあ、ディスクが落ちるのが先か、彼女が取るのが先か……?
僕が見ている前で、しろなちゃんはディスクに追いついた。
しかし、その時点でディスクは、もう地面スレスレ。
「がんばれーっ!」
僕がそう叫んだ直後、
「わうーっ!」
しろなちゃんは、ディスクに飛びついて。
口にくわえた。
「…………」
そのまま戻ってきた。四つんばいで。
「わうっ!」
僕の手元にディスクを差し出すしろなちゃん。これも口で。
なんか、犬みたいだ。
「……よーしよしよし」
僕もそのノリに合わせようと、ディスクを左手でうけとり、右手で頭を撫でた。
「わうっ、わうー……」
先ほどと同様に、目を細めて喜ぶしろなちゃん。
……うん。
本当に、犬みたいになっちゃったよ、しろなちゃん。
午後四時ごろまで遊んだあと、僕らは帰りに商店街へ寄って、晩ご飯はそこで済ませた。
しろなちゃんは、とても喜んでくれた。
けれど。
今思えば、その後の帰り道から、彼女の様子が少し変だった。
「……ねぇ、しろなちゃん」
午後五時半。
いつもなら、僕はそろそろ眠る準備をする。
具体的には、お風呂に入ったり、歯を磨いたり。
けれど、今日はそうできなかった。
「僕、そろそろお風呂に入りたいんだけど……」
しろなちゃんが、僕の上にいるからだ。
帰宅直後、僕は壁に寄りかかりながら、あぐらをかいてその場に座った。すると、その直後に、彼女は僕の上に座ったのだ。
以来ずっと、彼女は僕の上から動こうとしない。
それどころか、
「…………」
何も言わない。
ただ、黙って僕の上に座っている。
表情を見る限り、機嫌が悪い……というわけでもなさそうだけど……。
「しろなちゃん?」
声をかけても、彼女は口を開かない。
「……やれやれ」
僕は思わずそう呟き、彼女の頭を撫でてみた。
「……あっ」
すると、ようやくしろなちゃんが声を漏らす。
そして、僕の方を振り向いた。
その顔は、何故かとても寂しげだった。
「……どうしたの?」
やさしい口調でそう聞いてみる。
しろなちゃんは、少しの間を置いて、
「……また、一日が、終わっちゃうの」
そう言った。
「今日はとっても楽しかったのに……。それが終わるのは、とってもさみしいよ……」
……ああ。
「その気持ち……ちょっと分かるかも」
僕も、同じようなことを、ずっと小さい頃に思った。
家族で遊園地に行って、一日中はしゃいで。
閉園時間になると、それがもう終わっちゃうんだって、悲しくなって。
あの時の僕は、その場で泣き出してしまった。
「……そうなの?」
しろなちゃんは、意外そうな声で問い返す。
「うん。……でもね」
そんな彼女の目を見て、僕は続ける。
「僕は、楽しい気持ちって、見つけるものだと思うんだ」
それは、僕が過去に辿り着いた答え。
「だから、楽しい一日が終わっても、それからまた、別の楽しい事を見つければいいんだよ」
そうしていれば、何も寂しくない。
「そうしていれば、ずっと楽しいままでいられる。寂しくなんて、ならないでいられるよ」
僕はそう思って、これまで生きてきた。
……まあ、結果として、引きこもりになってしまったのだけど。
「わう……」
しろなちゃんは、僕の言葉を聞いて、少し俯く。
また少し、沈黙。
「……あのね、悠一くん」
その末に、今一度しろなちゃんが口を開く。
「お願いがあるの」
その顔は、何故か悲しい表情のままで。
それでも、無理に笑おうとしていた。
「……うん、何かな?」
しかし、僕はそれを指摘しない。
それよりも、彼女の言葉か聴きたかった。
そうまでして、伝えようとする彼女の言葉を。
「何でも言って。僕に出来ることなら、何でもするよ」
ただ、そうとだけ伝える。
すると、しろなちゃんは一度目を閉じて、また開く。
「あの……ね」
そして、僕に抱きつく。
「わたしのこと、わすれないで」
その一言だけを言い残して。
しろなちゃんは、僕の胸に頭を埋めたまま、眠ってしまった。
しろなちゃんをベッドに移し、僕は改めて考え直す。
僕は彼女について、ほとんど何も知らない。
理解しているのは、名前と、僕と友達になりたいという意思だけ。
天使だとも聞いたけれど、それが具体的にどういう存在なのかも聞いていない。
それに、眠る直前のあの行動。
後から気付いたけれど、しろなちゃんは、眠ってしまう寸前、泣いていた。
僕の言葉に感動した、とか、そういうわけではないと思う。
だって、すごく悲しそうだったから。
そう。
それはまるで、今日の終わりが、世界の終わりであると感じたように――。
少し疲れていたのだろう。
知らぬ間に、僕の意識は眠りへと堕ちていった。
深夜零時、僕は目を覚ました。
ベッドから身を起こし、いつものようにパソコンの前に座る。
そうするつもりで布団をめくる。
「……すぅ……すぅ……」
かけなおす。
「…………」
何かがあった。
いや、居た。……ような気がする。
僕は隣に、そんな幻影を見た。
「寝ぼけてるんだな、僕」
目をこすって、もう一度布団をめくる。
「……すぅ……すぅ……」
変わらない。
「まだ寝ぼけてるんだな、僕」
もう一度目を擦ってから、確かめる。
やはり、変わらない。
「……ふむ」
とりあえず、その存在を認めることにした。
「さて、なんだろうこれは」
呟きつつ、それに触れてみる。
……あたたかい。
女の子の暖かさだ。
そうか、女の子か。
「……すぅ……すぅ……」
小さな寝息を立てる、小さな女の子だ。十歳ぐらいかな。
それが、僕のベッドで寝ていた。
「……って、待て待て」
何で僕の隣で、女の子が寝てるんだ?
これはどういう状況なんだ? 考えてみる。
「……まさか、夢?」
そうだ、夢に違いない。
しかし、なんて夢を見ているんだ、僕は。
「バカバカしい……」
とりあえず、もう一度寝なおそう。
そう思って、布団をかけなおそうとする。
そのとき、女の子の目が開いた。
「……え?」
突然のことで、僕の体が硬直する。
「…………」
「…………」
見つめ合う僕ら。言葉はない。
なんだ、この状況。
「……わぅ」
そんな中、女の子が口を開く。
「おはよう、悠一くん」
「え? あ、ああ。……おはよう」
あまりにも自然すぎるその声かけに、思わず答えてしまう。――って、
「僕の名前を知ってる……? 君は一体……」
誰なんだ。そう言おうとして、口ごもった。
「……よくぞ訊いてくれましたっ」
少しの間があって、女の子は突然立ち上がり、ベッドから出る。
「しずまれぇー、しずまれぇー」
……いや、元から静かなんだけど。
「この翼が目に入らぬかぁ」
言いつつ彼女は、その体を少し前に倒す。
途端――、
「……え……?」
その背中から、白い翼が生えた。
女の子はそれを左右に伸ばし、その存在を見せ付ける。
「なんとわたしは、空からやってきた天使さんなのです。えっへん」
言いつつ胸を張った。
「うーん、でも邪魔になるから、翼はちっちゃくしとこっかな」
そう言うと、彼女の翼は収縮しはじめる。ある程度の長さになると、そのまま動かなくなった。
……けれど。
そんなことより、僕には気になることがある。
先ほど、僕が口ごもった理由。
それは、その瞬間、ほんの一瞬だけれど、彼女が、とても悲しそうな顔をしたから。
僕にはそれが、どうしても気になった。
「ねぇ、きみ」
思わず、言葉を発する僕。彼女を呼ぶ。
なぜそうしたのか、自分でも分からない。
なんだろう……この感覚。
脳の奥が……ざわめいている。
「……わう?」
こちらを向く女の子。
なんだ……どうして……。
僕は、彼女がついさっき見せた表情を。
あの、悲しい顔を。
僕は、なぜ……知っている?
「きみ、は……」
突然、脳になにかが描かれる。
それはまるで、起きてから数時間以上経った時に、眠っていた時の事を……。
夢を……見ていた……ときの……。
記憶を……。
――『わたしのこと、わすれないで』――
「――ッ!」
脳裏で何かが弾ける。全身を衝撃のようなものが奔る。
僕の中を、何かが駆け抜ける。
意思のない意思が、その断片を掴み取る。
「……し――、」
それは、文字。
僕が、口にしたことのある文字。
「しろ……な……?」
口にした瞬間、掴んだ断片の元に、すべてが集約した。
それは僕の頭へとのぼり、幾重にも重なった景色を見せる。
これは……記憶。
僕の、記憶。
その中に、一人の少女がいた。
僕と共に笑って、僕の胸で泣いた少女。
その姿が、目の前の女の子と、重なる。
「しろな、ちゃん……?」
ようやく理解した。
僕はたった今、記憶を取り戻したんだ。
昨日の記憶を。
僕が、彼女と過ごした日の事を。
「しろなちゃん……だよね」
僕の言葉を聴いた彼女は。
「わたし……まだ、名前、言ってないよ……?」
戸惑いの表情。
けれど、間違いない。
「いいや、僕は聞いた。昨日、君の名前を」
そして。
「僕は昨日、君と同じ時を過ごした」
そうだ。
どうして、こんなことを、僕は忘れていたんだろう。
僕たちは、昨日出会っているじゃないか。
「一緒にトランプをして、一緒に人生ゲームをして、一緒にご飯をたべて、一緒に公園で遊んだ……そうだよね?」
そう言った、次の瞬間。
しろなちゃんが、突然僕に抱きついた。
「憶えてるんだ、悠一くんっ!」
彼女は笑顔と、涙を浮かべる。
「約束……守ってくれたんだ……っ!」
そのまま彼女は倒れそうになり、慌てて僕が支える。
「……どういう、こと……なの?」
呟く僕だったが、しろなちゃんは本格的に泣き始めてしまい、しばらく何も聞けなかった。
「あのね、悠一くん」
落ち着いたしろなちゃんは、僕が何かを言う前に、自分から話し始めてくれた。
「本当は、天使は人間界には来ちゃいけないの」
その一言から、しろなちゃんの説明が始まった。
要約すると、こうなる。
僕ら人間が住むこの世界を、人間界、しろなちゃんが住んでいた天使達の世界を、天界と呼ぶ。
それら二つの世界は、言うなれば一つの天秤の上にある。二つの皿の上に、それぞれの世界を載せた天秤。
天秤は常に水平を保っている。これは、世界のバランスが整っている事を示している。
けれど、天使が人間界に来ると、その拍子に、一瞬だけバランスが崩れる。
だから、天使であるしろなちゃんがこの世界に来た時、一瞬だけ、天秤が揺らいだ。
結果、人間界という皿の上から、一つの時間が零れ落ちた。
世界から孤立してしまった時間。
絶えず進み続ける。しかし、その先は未来という世界はない。
そのため、時間は一定の量進むと、その全てを巻き戻すようになる。
過去一日分の時間を巻き戻ることで、一日分の時間を、もう一度進む。
それは、星の公転軌道のようなものだ。
何の力も行使せず、ただこの世の法則にのみ従って、同じ道だけをひたすらに回る。
何度も、何度も、繰り返す。
その時間こそが、この部屋だった。
十二月二十五日、午後二十三時五十九分。
この部屋はその時間になると、同日午前零時へと巻き戻り、また始まる。
先を持たない、孤立した時間。
繰り返される一日。
世界から零れ落ちた瞬間、この場にいた僕は、部屋と同時に、世界から孤立してしまった。
その結果、僕は今、終わらない十二月二十五日の中にいる。
……ということ、らしい。
「……つまり、僕らは今まで、同じ時間を何度も過ごしていたんだね。だから僕は、記憶を失っていた」
時間が巻き戻るということは、あったことがすべて、無かったことにされるということ。
より正確には、「まだ始まっていないこと」にされてしまうんだ。
だからこそ、そんな時間のなかで生きる僕は、巻き戻しが起きるたびに、この時間が世界から零れ落ちた、その瞬間以降の記憶を消されていたんだ。
「……うん」
しろなちゃんは、ゆっくりと頷いた。
「……そして」
しろなちゃんは言っていた。『憶えてるんだ』と。『わすれないで』と。
つまり。
「しろなちゃん、君は、この繰り返される時間の中で、記憶を消されないでいた……んじゃないかな?」
発言から察すると、そういうことになる。
しろなちゃんは、やはりまた頷いた。
「うん。……たぶん、わたしが天使だから、だと思う」
ふむ……。
人間界の時間は、その世界で生きる人間の時間を戻せる。
しかし天使は、本来人間界ではなく、天界に住む存在だ。だからこそ、元が人間界のものだった時間から、巻き戻しの干渉を受けない……といったところか。
「……でも」
僕が考え込んでいると、しろなちゃんが僕の手を取った。
「わたし、すっごくうれしいの。やっと……やっと分かってくれたから」
……『やっと』……か。
そうだ。
時間が孤立してから、僕が過ごした時。
それはきっと、昨日一日分なんかじゃない。
何度も繰り返し、その度に忘れていただけで。
本当は、もっともっと、長い時を、彼女と過ごしていたんだ。
そして、繰り返された数だけ、僕は彼女の事を忘れてしまっていたんだ。
繰り返された数だけ、彼女は。
「……わぅ……っ」
しろなちゃんの目から、涙が溢れる。
いったい、何度繰り返したのだろう。
何度、僕に忘れられたのだろう。
何度、僕と過ごした時を、消されてしまったのだろう。
でも、その数と同じだけ。
彼女は、僕と友達になりたいと言った。
言って、くれていたんだ。
「……ごめんね」
そう気付いた僕は、彼女の体を抱き寄せる。
「何度も何度も、悲しい思いをさせてごめんね」
小さな体。覚えていないけれど、ずっと見ていたはずの、小さな女の子。
「何度も何度も、友達になりたいって、言ってくれて」
その体を、ぎゅっと、抱きしめる。
「ありがとう。しろなちゃん」
彼女は、僕の中で泣き続けた。
終わらない一日に閉じ込められた、僕としろなちゃん。
どうしてこんなことになっているのか、僕には分からない。
けれど。
「……そんなの、僕にとってはどうでもいいことさ」
僕は引きこもりだ。一つの部屋で、代わり映えの無い毎日を過ごす、世間から外れた存在。
そんな僕にとっては、日付の経過なんて、川の流れを見つめているだけに過ぎない。過ぎていくことは理解していても、そこに価値観を覚えることなく、ただ、流れることが当然であるものとしての認識。
それが何度繰り返されようが、僕には関係ない。
「……でも」
一つだけ、疑問がある。
何度も繰り返す時間の中にいる僕。
当然、僕も巻き戻しの干渉を受ける。現に、今日までずっと受けてきた。
しかし、それを理解したからこそ、
「どうして僕は、今日、記憶を取り戻したんだろう……」
そのことだけ、辻褄が合わない。
今の僕にとって「昨日」は、この時間にとっての「今日」だ。だから、巻き戻しが起きた時点で、それまでの時間ごと記憶が消えていた。
しかし、今はそれを取り戻している。これはつまり、この時間において、僕は「未来の記憶」を持っていることになる。
そんなことが……ありえるのか?
あって、いいのだろうか?
「ねぇ、しろなちゃん。……君が繰り返してきた中で、僕は前にも、本来は忘れてしまったことを、思い出したことはある?」
前例があるかもしれないと、彼女に聞いてみる。
少し考えるような間があって、
「……ううん、多分、なかったと思う。今の悠一くんが始めてだよ」
しろなちゃんはそう答えた。
「そうか……」
前例は無いのか。
正直、少し安心した。
もし前例があったとしても、それを僕は覚えていない。つまり、僕は記憶を取り戻した後も、また次の巻き戻しで、記憶を失っていたことになるからだ。
しかし、今だって、その可能性が無いわけでない。僕は明日――次の今日にも、この事を記憶ごと忘れてしまうかもしれないんだ。
そう思った僕は。
「しろなちゃん、ちょっと待っててね」
パソコンの置いてある勉強机から、シャープペンシルとルーズリーフを取り出す。
ここに、この事をメモしておこう。
時間が巻き戻されれば、メモも消えてしまう。
しかし、何かに書くことで、少しでも根強く、記憶を保っておきたいと考えた。
「うん、待ってる」
それを理解したのか、しろなちゃんは僕のうしろで、静かに待っていてくれた。
メモを書き終えた僕は、それを机の横に貼った。
「とりあえず、今できることはこれだけ……かな」
そう呟きつつ、しろなちゃんを振り返る。
彼女は、一人でトランプをしていた。あれは……「スパイダソリティア」……だったかな。一人用の遊びで、一部のパソコンには、ゲームとして標準装備されているやつだ。数えるほどしか遊んだことはないけれど、僕のパソコンにも入っている。
簡単に説明すると……同じスーツのカードを、キングからエースの順に重ねていき、揃ったカードたちを、場から除外していくゲームだ。
最終的に、全てのカードを場から除外できれば、ゲームクリア。
「待たせてごめんね」
言いつつ歩み寄ると、しろなちゃんはこちらに気が付いて、
「終わったの? じゃあ、遊ぼっ」
手に持っていたトランプのカードを差し出した。
「うん」
僕はそれを受け取った。ダイヤの七。場を見ると、いくつかあるカードの束の中に、ダイヤの八が一番上になっているものを見つけた。
僕は、持っていたカードを、その上乗せる。
「はい、次はしろなちゃんの番だよ」
「うんっ」
しろなちゃんは、束の中で、一箇所だけ裏向きになっている部分をめくった。スペードの五。
「えっと、五だから、六をさがさなきゃ。六……ろく……あっ、あった」
しろなちゃんは、そのカードを、クラブの六の上に乗せた。
どうやら、スーツは無視でいいらしい。
「はいっ、次、悠一くんの番だよ」
「うん」
……そんな調子で、僕らは今日もまた、一緒に遊び始めた。
それが終わらない時だとしても、僕は何も怖くないし、何も恐れたりしない。
これまで僕は、引きこもりでいる一方で、いつかは社会復帰しなければならないと考えていた。どこか漠然と、しかし確実に。
だけど、僕の一日は終わらない。何度でも繰り返す。
それなら、社会に出るどころか、僕は大人にならないでいられる。
成長しないでいられる。ずっと、子供のままでいられる。
それが、僕は嬉しい。
やがて夜が明けるころ、僕らは一度少し眠り、目を覚ましてから朝食を食べた。
昨日食べたはずのコーンフレークは、やはり減っていない。食器の場所も変わっていない。
それでも、僕らはまた、コーンフレークを食べた。
昨日は牛乳をかけたから、今日は温めて作ったココアをかけた。
しろなちゃんは喜んでくれた。
変わらない一日でも、食べるものは毎回変わるから。
用意する僕が、変わったから。
この、繰り返される時間の中で、僕としろなちゃんだけは、繰り返していない。
それだけで十分だった。
それだけで、僕らは変わっている。
僕らは、互いに互いと過ごす時だけが、僕らの日常だから。
僕らがすごす時は、同じ毎日なんかじゃなくなったんだ。
食事を終えて、僕らはまた、人生ゲームをした。
昨日は一度しかしなかったから、止まったことのないマスばかりで、楽しかった。
昼の食事は、昨日作れなかった、オムライスにした。
サイドメニューは、固形コンソメを溶かして作ったスープ。
同じ卵でも味が全然違うと、しろなちゃんは始終笑顔を絶やさず、僕のご飯を食べてくれた。 僕は、その笑顔を見ていて、嬉しかった。
昼食を済ませると、僕らはまた、公園に行くことにした。
「せっかく出しておいたのになぁ……」
ぼやきつつ、僕は物置の中をあさっている。時間が巻き戻されてしまったので、昨日のディスクも、また同じ位置にあるのだ。
つまり、物置の奥の、昔遊んでたおもちゃがあるダンボールの中だ。
「……あ、あった」
場所は分かっているので、昨日より早く見つかった。
ダンボールをまさぐり、ディスクを取り出す。一つだけピンク色なので、数あるおもちゃの中でも目立っていた。
「……よし、発掘成功、っと」
手にとって見る。昨日と全く同じだ。
「さて、じゃあしろなちゃんを呼んで……」
彼女は今、リビングですこし休んでいる。ちょっと食べ過ぎたと言っていた。
あれから十五分ほど経つし、そろそろいいかなと、室内に向けて声を出そうとした、そのとき。
「……ん?」
ディスクを持つ手に違和感を感じた。触った感じ、一部分だけ、変に凹凸がある。
持ち方を変えて、その部分を見ると、
『TWINKLE DISK』
商品名が書かれていた。ええと、ティンクルディスク、って読むのかな。Tの字の前に星マークがあって、そこから文字全体に、アンダーラインが三本ひかれている。ディスクに直接掘られていて、どうやら僕は、ついさっきまでそれに触れていたようだ。
「なるほどね」
よくみると、さらにその下には、黒い字が印刷されていた。商品名と比べるとかなり小さい字だ。
その文字は『No-四六七』。商品番号だろうか。
「……あれ?」
何か引っかかる。
よん・ろく・なな?
確か、四は「し」とも読むはず。
「し・ろく・なな……」
声に出すと、その正体がわかった。
「……『しろな』?」
語呂合わせで、そう読めるんだ。
「うわ、すごい偶然だなぁ」
驚いた。まさかこんなことになっているとは。
……しかし。
「……うーん?」
何か、まだ引っかかっている。
なんだろう? 僕はこの数字を見たことあるような。
いや、単に「見た」というよりは、「意識して見た」ことがあるような感覚だ。
上手く言葉に出来ない違和感。それでも、あえて言葉にするなら。
「……いつかの僕は、この番号に見入っていた……?」
だめだ、自分で言っていてよくわからない。
「……ま、いっか」
とりあえず、それはおいといて。
「しろなちゃーん、そろそろいいかなー?」
彼女を呼んで、また公園に連れて行くとしよう。
しろなちゃんを連れて公園に来た僕は、昨日のように、ディスクを構えた。
「さあしろなちゃん、今日もやろうか」
「うんっ」
彼女は嬉しそうに頷いて、前を向いた。
「いくよ。――それっ!」
ディスクを投げる。最初はゆっくり、少し高めに。
「わぅっ!」
駆け出すしろなちゃん。すぐに追いつき、ゆらゆらと落ちてくるディスクに手を伸ばす。
しかし、
「――あれっ?」
その指先でディスクを弾いてしまい、上手く取れなかった。
地に落ちるディスク。彼女はそれを拾い上げて、しょんぼりと戻ってきた。
「わぅ……取れなかった……」
実は彼女、昨日は一度も取りこぼさなかった。
つまり、初めての失敗だ。
「わうぅ……」
よほどショックだったのか、落ち込むしろなちゃん。
「まあまあ、誰だって失敗くらいあるさ」
失敗ばかり重ねすぎて、引きこもりになった人間も、ここにいるし。
「そんなに落ち込まないで、ほらっ」
彼女の頭を撫でてあげた。
「……わぅ?」
すると、そのまま僕を見上げる。
「……悠一くん、おこって、ない?」
……はい?
「僕が、怒る? なんで?」
質問の意図がつかめず、問い返す。
「わぅ、だって……」
しろなちゃんはまた俯き、続ける。
「わたし……取れなかった、から……」
……ふむ。
「……それだけ?」
聞き返すと、彼女は少し頭を下げた。
頷いたのか。なら。
「ははは、僕はそんなことで、一々怒らないよ」
そのまま笑いかける。
「わぅ……ほんと?」
「もちろん。……さあ、続けようか」
そして、その頭をより一層撫でてあげた。
するとしろなちゃんは、みるみる笑顔になり、
「うんっ!」
大きく頷いた。
それからのキャッチ率は、だいたい七割くらいだった。
残りの三割は、最初と同じような感じで弾いたり、手の間を通り過ぎてしまったり。
でもまあ、これが普通なんじゃないかな。そもそも全部取れるほうがすごい気がする。
たまたま昨日はそうだっただけ。今日の感じが普通なんだ。きっと。
そんなことを一方で思いながらも、僕は彼女との遊びを、ひたすらに楽しんだ。
また、夜が来た。
眠る時間は午後六時と、常人よりかなり早い僕。
それでもこの季節だと、四時半を過ぎればすぐに真っ暗になってしまう。だからもう、夜扱いでいいんじゃないかな、と思うのさ。
そんなことを考えつつ、僕はお風呂から出た。
現在、午後五時半。あの後僕らは、また商店街で食事を済ませて、家に帰ってきていた。
ちなみに、しろなちゃんは僕より先に入ったので、今は僕の部屋で待っているはずだ。
「お風呂、出たよー」
言いながら部屋に入ると、
「わう……っ」
突然、中から出てきたしろなちゃんが、僕に飛びついた
「うわっ、どうしたの?」
崩れかけたバランスを整えて、彼女の顔を見る。
すると、
「わう……っ」
彼女は、今にも泣き出しそうな顔だった。
「どうしたの? 何か、あったの?」
なるべく優しい口調を心がけて、そう訊いてみると、
「だって……もう、夜だから……」
しろなちゃんは、僕の胸に頭を預けた。
「また……わすれちゃう。……悠一くん、わたしのこと……」
……そうか。
この時間にいる限り、僕らが次に目を覚ますのは、巻き戻しのスタート地点に立つ事を意味する。
すると、また僕の記憶も消えてしまう可能性があるわけだ。
「そんなの……や、なの……」
というか、今までずっとそうだった。
だから彼女は、きっと不安なんだ。
もし、また僕が、『今日』の記憶を失ってしまったら。
そう考えてしまい、それがとても、悲しいんだ。
「わたし……わたし……」
そうか……だから昨日も、彼女は泣いていたんだ。
彼女にとっては、今この瞬間が、本当の意味で『最後の瞬間』だから。
「……そう、だね」
全てを悟った僕は、その背中を抱きしめた。
「ずっと、そうだったんだよね……」
僕はずっと、こんな思いを、君にさせていたんだね。
「……でも」
けれど、だからこそ。
僕はもう、しろなちゃんを泣かせたくない。
「もう、悲しまないで」
決心する。
僕は『今日』の事を忘れない。それは『昨日』のことも含めてだ。
必ず。
「約束する。『明日』が来ても、僕は君を忘れないよ」
僕は、この子の思いを守りたい。
この子と過ごした時を、守りたい。
「……『明日』だけじゃない。何度繰り返そうと、僕は君を忘れない」
だから、絶対だ。
「絶対に、ずっと、忘れないから」
巻き戻しが、なんだって言うんだ。
そんなものに、僕の記憶を消させはしない。
「……だから、ね?」
僕はもう二度と、この子を傷つけたりしない。
「しろなちゃん、泣かないで」
固く決心した意思をこめて、それでも、優しい力で。
僕は彼女を抱きしめる。
「わ……ぅ……っ」
しろなちゃんは、僕の言葉を聞き、涙をぬぐう。
「約束……だよ……?」
「うん。約束だ」
それは、僕と彼女との間できた、初めての誓い。
きっと、僕らはこの時、初めて本当の意味で、互いを大切に思うようになったんだ。




