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ひろみち

作者: 1924

 五月の風は、温水みたいな肌触りだった。窓の外の街路を見やると、一ヶ月前に咲き誇っていたソメイヨシノは、すでに葉桜となっているのだった。

 私は勉強机の前に座って、ぼんやりと頬杖をついていた。

 そのとき突然、あの場所で過ごした夏の日、ひろみちのことを思い出した。

 それはほとんど、青天の霹靂だった。 


 ひろみちと私との出会いは、物心ついて間もないころまで溯る。

 そのころ、私と私の母親は、アパートに暮らしていて、ひろみち一家はそのおんぼろアパートの斜向かいに建つ一軒家に住んでいたのだった。

 真夏の、とてもとても暑かったその日、私は近所にある神社へ涼みに行こうと思って家を出た。その神社は、周囲をこんもりと繁った林に囲まれていたから、境内の石段に腰かけていると、身体がひんやりと冷たくなってゆくようで、夏場はとても気持ちが良かったのだ。

 プレハブみたいなアパートの、軋む階段を下りていくと、ちょうど斜向かいの一軒家から男の子がひとり、出てきた。

 それが、ひろみちだった。

 私の住んでいた襤褸のアパートと、ひろみちが住む一軒家とを隔てるその路地はとても狭かったので、私とひろみちとが路地の両端に降り立つと、お互いの顔のつくりが生々しいまでに見てとれるほどにお互いの身体が近づきあうのだった。

 そのころ、私と私の母親は、その場所に引っ越してきて間もなかったので、私は近所に自分と同じ年頃の男の子が住んでいるということを初めて知った。それで、私は立ち尽くしたまま彼のことを無遠慮にじろじろと眺めてしまった。

 そのとき、ゆっくりと私に顔を向けて、私の目をじっとのぞき込んだひろみちの、色素の薄いがゆえに茶色い瞳を、私は一生忘れられないのだと思う。

 しばらく私を見つめたのち、彼はふいと身体をひるがえして、陽の当たらないじめじめしたほうの通りへと歩いていった。私は、規則的に足音を立てる彼の後ろ姿をぼんやりと眺めていたのだけれども、彼が向かった方向はちょうど神社へ向かうほうの道だったので、私は何だか先を越されたような気分になって、負けるもんか、と彼のあとを追った。

 ちっとも急いでいるふうでなかったのに、ひろみちの足取りは速いのだった。

 私が息を上がらせて神社の鳥居までたどり着くと、すでに彼は神社の石段に腰かけていた。なぜか、五段あるうちの最下段に陣取って(だって、私ならば迷わず最上段を取るのに)、軽く広げた両膝に両腕の肘を置いて頬杖をつきながら、ぼけっとあさっての方向を見つめていた。

 ひろみちは、鳥居の下に立つ私に気がつくと、二、三回ばちばちと目をしばたたかせたけれども、その程度の反応を示しただけで、また元の気だるいポーズに戻った。

 そのひろみちの反応に、私は何だかひどく無下に扱われたような、―そのへんに降り立ったハトだかカラスだかに一瞥をくれてやった、という感じ―そういう印象を受けたので、少なからず腹が立った。

 それで、私はひろみちの座る石段へずんずんと歩いていき、一段ごとにだん、だん、と暴力的な音を立てるように心がけて、最下段にいるひろみちをすっ飛ばして石段を上っていき、そして最上段にどすんと腰かけた。

 これにはさすがのひろみちも呆気にとられたらしく、首を回してこちらを振り仰いでいる。その口がばかみたいに開かれていた。

 ひろみちがやっとこちらに注目したことと、彼のまぬけ面に、私はちょっと機嫌を良くして、家を出る前にポケットへ突っ込んできた大粒の飴玉を取り出して、ひろみちに向かって手品を見せるみたいにして包装を破った。口に放り込むと、ソーダの味がじわあっと広がる。―美味しい。私はそのころ、世界でいちばん美味しい食べ物はこのソーダ味の飴玉であると、信じて疑わなかったのだった。

 左から右へ、右から左へ、踊らせるみたいにして口の中で飴玉を転がしていると、案の定、ひろみちは例のまぬけ面に、もの欲しそうな色をちょっと浮かべて、こちらをじっと見ていた。私は、そんな彼の様子にますます優越感を感じたから、ポケットの中から飴玉をもう一粒取り出して、「食べる?」と笑って彼に差し出した。すると、ひろみちはこっくりとうなずいたので、私は飴玉を放ってやった。

 小さな指で、ひろみちが飴玉の包装をもたもたと破る。私はそんな彼をじっと見ていた。やっと、ぼろぼろの袋の中から水色の飴玉が顔を出すと、ひろみちはそれをつまんで、おそるおそるといった様子で口に入れた。もごもごと慎重に口を動かす彼を見ていると、このありふれたソーダ味の飴玉が、何だかとても貴重で神聖な食べ物であるような、そんな気がしてくるのだった。

 やがて、飴玉を左の頬に追いやったひろみちが、ふいにこちらを見上げて、顔をくしゃくしゃにして笑った。

「どうも、ありがとう」

 私は初めて、彼の笑った顔を見た。そのときの彼の笑顔は、先ほど自分が彼に対して腹を立てたり、優越感を抱いたりしたことがばかばかしいと思ってしまうような、とてもきれいな笑顔だったから、それで私はもう、ひろみちから離れられなくなってしまうような思いに囚われたのだった。

 それが、私とひろみちとの出会いだった。


 ひろみちは、笑わなかった。初めて出会ったときの、あの顔のパーツをくしゃくしゃに歪めてみせた笑顔の他には、笑いもしないし、怒りもせず、泣く姿も全く見せないのだった。

 神社での出会い以来、私とひろみちは何となく日々を一緒に過ごすようになった。とは言っても、お互いに示し合わせて仲良くどこかへ遊びに行く、なんていうようなことは、結局一度もなかった。昼下がりに、なんとなくぶらぶらと神社へ涼みに行くと、そこにすでにひろみちがいたり、あるいは私がぼんやりと境内の石段に腰かけていると、しばらく経ったころにひろみちがひょこっと現れたりするのだった。そんな気まぐれな寄り合いだったから、私たちは毎日のように顔を合わせてじゃれあったりすることはなかったのだけれど、それでもこの神社での淡々とした会合は、夏のあいだじゅう途切れることがなかった。

 神社で顔を合わせて、それから私たちがその日何をしていたかというと、特に人に聞かせて面白いようなことは何もしなかったのだった。ただ、私はいつも決まって石段の最上段に、ひろみちは最下段に座って、ただただぼんやりと、神社の周りをとり囲む木々が、その葉と葉の細かいすき間から太陽の光を通して、石廊に複雑な模様を描き出しているさまを眺めてみたりしているだけだった。そうして、私たちはいつも私がポケットに突っ込んで持ってくる飴玉を食べるのだった。飴玉は、ソーダ味だったりレモン味だったりした。


 けれども、あの夏の神社での、まどろむようなひろみちとのやりとりの中で、今も鮮明に脳裏に描き出せるほど印象に残っている出来事がある。

 ひろみちは、陽に焼けなかった。男のくせに、不健康なほど青白い肌をしているのだった。それで、私が、

「なんでひろみちはそんなに肌が白いの?」

 と訊ねると、彼は茶色い目をしばたたかせてちょっと考えたあと、

「なんで可奈子ちゃんはそんなに肌が黒いの?」

 と真顔で返した。

 私は、自分の質問に対して、ひろみちからまともな返事を得られなかったことと、自分の質問文をおうむ返しみたいにして返されたことにちょっと腹が立ったので、ひろみちの腕をばしっと叩いた。

 そのときだった。

 ひろみちが、今しがた自分の腕を叩いた私の腕、その手首をがしっと捕らえて、それから私の手の甲をじっと見つめて、言った。

「可奈子ちゃん、ここんとこ虫に喰われてる」

「え?」

 私の腕を掴むひろみちの動作があまりにも素早かったから、私は、一瞬何が起こったのかを把握しかねて、ひろみちの顔を見た。

 そのとき、手の甲にぴりっとした痛みが走った。

「痛っ、」

 突然の痛みに、反射的に自分の手の甲に目をやると、私の手の甲の、虫刺されによって熱を持って赤く盛り上がった部分に、ひろみちの指先の、形の悪いつめが食い込んでいた。

 何やってんのよひろみち、と言いかけて、私は言葉を呑み込んだ。ひろみちは、左手で私の手をぎゅっと捕らえて、右手の人指し指で私の虫刺されを突き刺していたのだけれど、その私の手を見つめる彼の瞳が、あまりにも真剣だったから。ここで声をかけたら、たぶん彼は泣き出してしまうのではないかと思ったから。

 彼のつめが私の手の甲を離れた。と思ったら、今度は今つけたつめ跡と反対の方向から、ばってん印を作るみたいにして、再びつめがねじ込まれた。

 もはや虫刺されの跡よりも赤くて鮮明な、ひろみちのつけたつめ跡を、私は見つめた。じっとしていると、彼のつめが私の手の甲の皮膚にぎりぎりぎり、と食い込んでいくのを感じる。

 私は、深く息を吐き出して、頭上を振り仰いだ。健康に育った木々の合い間に、碧空がぽっかりと顔を出していた。空は高く、雲ひとつない快晴だった。その空の青さに目を傷めて、再びひろみちに向き直ると、彼はすでにつめを引っ込めて、私の手の甲のばってん印を見つめて、唇の片端を吊り上げて笑ったのだった。


 そうして、夏の終わりはあっけなかった。

 その場所へ引っ越してまだ間もないというのに、私と私の母親は、夏の終わりを迎えないうちに再びその場所を離れることとなったのだ。

 運送屋のトラックを待つあいだ、私は日なたくさい畳部屋の、汚らしい砂壁にべたべたと貼り付けたシールを、つめでこすって剥ぎ落としていた。そのころの私の年ごろである子どもの多くがそうであるように、私もまた、壁だの家具だのところ構わずにシールを貼り付けてしまう癖の持ち主だったのだ。

 砂壁に貼り付けたシールを完全に剥がしとることは不可能だった。けれども、私は人さし指のつめを使って、ひたすらに板壁をこすり続けた。

 少しずつ白く研磨されていく自分のつめの先を見つめながら、私はひろみちのつめを思い出していた。

 丸くて寸胴で、いつも土汚れが挟まっている、ひろみちの汚くて不恰好なつめ。

 いったんひろみちのつめを思い出すと、あとはもうとめどなく彼と過ごした夏の記憶が溢れだすのだった。

 ふたりで毎日のように口にした、飴玉たちの味。神社へ向かうまでの道のりで見た、果敢無い逃げ水。神社の木々の合い間から見た青い空。

 何だかわからないのだけど、涙がこぼれる。私は泣くのを止めようと思っているのだけれど、なぜだか無性に悲しくて、涙があとからあとからこぼれ落ちる。

 私はしゃくり上げながら、砂壁のシールをこすり続けた。続けて鼻水が流れ出てきたけれど、それを拭うこともしなかった。

 私は、自分の右手の甲を見た。まだくっきりと残る虫刺されの跡。でも、ひろみちによって刻まれたばってん印は、もう跡形もなく消えていた。それで、ひろみちとはもう二度と会わないであろうことを感じた。でも、そのときの私は、直感的に、それでいい、そうであるべきなんだろう、と思ったのだった。


 そのとき、外で大型車のエンジン音みたいな音が聴こえたから、私はゆるゆると立ち上がった。つめを見やると、こすり取られたシールの細かい滓が無数にくっついていたので、それを指でこそげ落としてから、私はとなりの部屋で待つ母親の元へ小走りに駆けていった。


 了




 七年前、おそらくセブンティーンのときに書いた小説です。これを最後に、今度こそ本当にちゃんと新規の作品を書いて、そちらを評価していただく方向に持っていきたいと思っています……><;

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