鏑矢合わせ
南側の陣に行こうとしていた野田が、マンションの方に向かって走り出した。他の住人たちも慌ててその後を追った。マンションの南側に来てみると、2階のベランダに3人の若者がいて空気銃を構えている。
「おい、吉田、何やってんだ」
野田が叫んだ。
バーン、バーン
吉田は構わず、空気銃を南側の軍勢に向かって乱射した。後輩の2人が奇声をあげて騒いだ。手にはワインやウイスキーの瓶を持っている。
この騒ぎでマンションの中にいた住人たちも、次々とベランダに顔を出した。
「おーい、カメラ何処だー。こっちこっち」
吉田が、南の陣に向かって空気銃を振っている。
「馬鹿、撮影じゃねーぞ、本物だぞ」
野田が吉田に忠告したが、事の深刻さが彼らにはなかなか伝わらない。ついには、吉田がボーガンを持って来て、南側の軍勢に狙いを定めた。
「それだけは止めろー」
今まで静かに事の成り行きを見守っていた下里が、突然、吠えるように叫んだ。
「どうしたんですか」
野田は、これほど感情を露わにした下里を見るのは初めてだった。
「申し訳ない。でもこの時代、矢合わせと言って、お互いに矢を射合って戦を始めるという風習があるんです。だから止めないと」
下里の早口の説明を聞きながら、住人たちはベランダの方に目をやった。吉田はもう、空に向かって発射しようとしていた。
「おい止めろ、危ない」
住人たちが、同じような事を口々に叫んだ。
「大丈夫だよ、この角度じゃ当たんねーよ」
吉田がニタニタ笑いながら答えた。
「馬鹿、向こうが危ないんじゃねー、こっちが危ないんだよ」
野田は、彼らの真下まで行って、説得を試みようとしている。その時、酔っていた上に、真っ青に晴れ渡った空を見て、遠近感が取れなくなった吉田は、前の方によろめいた。彼は、とっさに右足を前に出して踏ん張ったが、その時の弾みで、思わずボーガンの引き金を引いてしまった。
放たれた矢は、美しい放物線を描いて南側の陣へ飛び込んだ。その矢を、騎馬武者が槍で払いのけるのが見えた。さすがに不味いと思ったのか、吉田たちも、大人しく向こうの反応を覗っている。
すると、本陣から弓矢を持った騎馬武者が一騎、川岸まで駆け下りて来た。そして、おもむろに弓矢を構えると、空に向かって矢を放った。矢は、マンションの5階と屋上の間の壁に当たって、下里の足元に落ちてきた。彼は、矢尻がUの字になったその矢を拾い上げて
「答の矢ですね」
と言った。
「えっ、何ですか」
隣にいた綾部が聞き返した。
「これは答の矢と言って、こちらの挑戦を承ったという返事のようなものです」
「と言うことは」
「これから攻めて来るはずです」
住人たちが下里の説明を聞いていたその時、南側の陣から、槍を抱えた3人の騎馬武者が水しぶきを上げながら突進してきた。彼らがそれに気付いた時には、その距離、5,60メートルのところまで迫っていた。
「逃げろー」
住人たちは下里が叫ぶより早く、西面の玄関に向かって走り出していた。
「部屋に入ってー」
下里は、ベランダに出ている住人に向かって叫んだ。一番槍を競い合う3騎は、もう30メートルの所まで迫っている。下里と一緒に、その場に留っていた綾部と野田は、彼の腕を引っ張って玄関に向かって遮二無二走った。
その直後、騎馬武者たちの手から、長さ1間半(約2,5メートル)の槍が次々と放たれた。