囚われの身 1
志村の背中を見送った兵士たちは、リバーサイド登戸の住人たちに向けられていた槍を暗天に向けた。兵士たちの中には安堵したのか、たまらず深呼吸をする者もいる。それはど、彼らにとって志村は畏怖すべき存在であった。
「おい、さっさと小屋に連れてけ」
兵士の一人に言われて伝助は彼に一礼した後、リバーサイド登戸の住人に向かって
「それじゃ、ひとまず小屋へ入りやしょう」
そう言って、二人の息子を伴って小屋のほうへ歩き出した。
しかし、リバーサイド登戸の住人たちの腰は重かった。自分たちが直面している現実を受け入れることができず、茫然としている者が殆どであった。
「おい、さっさと行かねぇか」
しびれを切らした兵士の一人がそう怒鳴った後、槍の石突を地面に突き立てた。その声に、母親の膝の上で眠っていた橘陽菜が目を覚まし愚図りだした。
「大丈夫、大丈夫」
母親の緑は、陽菜の頬を掌でさすりながら、まるで自分に言い聞かせるようにその言葉を繰り返した。 その時、突然、夫の聡が娘の口を手で塞いだ。ただでさえイライラしている兵士たちを、娘の鳴き声によってこれ以上刺激したくないと思ったのだ。
しかし、その行動は裏目に出た。焦った聡は口だけでなく、鼻も一緒に抑えてしまった。その結果、呼吸ができなくなった陽菜は、苦しさのあまり手をばたつかせながら大声で泣き出してしまった。
兵士たちの刺すような視線が、一斉に橘親子に注がれる。志村が去って以来、最高の緊張感である。
「やめてよ」
突然、緑が聡の手を払いのけた。
「しょうがないじゃない。私たち大人だって怖いのに、陽菜はまだ四歳なのよ、泣くのは、しょうがないじゃない」
半べそを掻きながら緑は夫を詰った。
「馬鹿、今は平和な時代とは違うんだよ。子供であってもな、個人の我が儘が許されるような甘っちょろい時代じゃないんだよ」
聡も必死で反論した。自分の娘の所為で他の住人に迷惑を掛ける訳にはいかない、という思いがそうさせた。またそれが娘のためでもある、と彼は思った。
この内輪もめを周りで眺めていた兵士たちは、次第に怒りの表情から神妙な面持ちに変わっていった。彼らも鎧を脱げば一家庭人であった。夫婦喧嘩や兄弟喧嘩の類は幾度となく経験していることであり、身に詰まされる思いがしたのであろう。そういう基本的な感情に於いては、この時代の人々も現代人も同質であるといえた。
この場にいる誰もが黙り込んでしまった中、陽菜の鳴き声だけが辺りに木霊している。
その時、橘親子の隣に座っていた初老の夫婦が二人に言葉を掛けてきた。この夫婦は、マンションでは橘家の隣に住んでいて名前は吉田真平と富子という。普段から橘家とは交流があり、特に陽菜に対しては自分の孫のように可愛がってくれていた。
「二人とも陽菜ちゃんを思う気持ちは同じでしょ」
富子がそう言って、縁の背中を優しく摩った。すると、縁の瞳から涙が零れ落ちた。
「この寒空じゃ陽菜ちゃんが風邪ひくぞ。取り敢えず小屋に入ろう。夫婦喧嘩はそれからだ」
今度は真平がそう言いながら、聡の肩をポーンと叩いた。聡は真平の目を見ることができず、地面を見詰めながら小さく頷いた。
「さあ、取り敢えず仮の住まいに行きますか」
下里が立ち上がり、皆に小屋に行くように促した。
「まあ、一応あれもリバーサイドに建ってるしな」
そう言いながら、下里に続いて立ち上がった野田が小屋の方を指差した。
「しかも、今度は多摩川ですよ。景色は前のマンションよりは絶対に良いですよ」
と、田中が立ち上がり目一杯明るい声を出した。
「オーシャンビューならぬリバービューってとこか」
「そんな言葉、有りましたっけ」
この、野田と田中の下手な掛け合い漫才に、住人たちの間から微かな笑い声が起こった。
「よし、行きますか」
頃合いは良しと判断した野田が発したこの言葉を合図に、皆一斉に小屋へ向かって歩き出した。最後に立ち上がった橘親子も、吉田夫妻に付き添われるようにして皆の後に続いた。
気が付けば、周りを取り囲んでいた兵士たちも、まるで花道を作るかのように両脇に開いて行列を見送っていた。
玉川には、薄墨を流し込んだような闇が垂れ込めている。多摩丘陵の稜線も、今は夜空に溶け込んで何処に在るのか見当がつかない。その中で、リバーサイド登戸だけが篝火によって怪しく浮かび上がっている。城壁造りに精を出す、威勢のいい人足の掛け声が聞こえてこなければ、まるで蜃気楼を見ているようである。
当初、河原には小屋が多摩川に沿って東西に六軒並んでいた。しかし先ほどの火事で西側、つまり川上から数えて二軒目の小屋が焼け落ちてしまった。また西端の一軒は、伝助親子の住まいであったため、七十数名の人々は、残りの四軒に分散して住まなければならない。
小屋とはいっても、丸太の骨組みに、ぼろぼろの板を張り付けただけの簡素な造りである。また、床は無く河原の砂利が剥き出しになっている。当然、地面と建物を結び付ける基礎工事などは施して無く、強風の時は屋根に乗ったラグビーボール大の十数個の石に運命を委ねることになる。尤も、後に伝助に聞いた話によると、暴風雨の時は近くの神社かお寺の床下に避難するそうである。
さて、リバーサイド登戸の住人たちは、四つの小屋にマンションにいたころの各フロアー別に住むことにした。Å棟の居住階数は二階から五階の四フロアーで数が同じであることと、同じフロアー同士のほうが面識があるので気心が知れている、という理由からであった。ちなみに警備員の綾部は二階の住人と同じ小屋になった。理由は特に無い。
住人たちはやっと居場所を与えられた。しかし、十五人から二十人の人々が僅か五メートル四方のあばら小屋に閉じ込められているという状況は、心身ともに耐え難いものである。一人に与えられた広さは、僅か一畳にも満たないのである。
小屋の中に入った住人達は砂利の上に腰を下ろした。狭いためか、皆自然に体育座りになっている。
橘夫妻も今は落ち着きを取り戻し、娘の陽菜は泣き疲れて母親の腕の中で目に涙を溜めたまま眠っている。
二階の人々が入っている小屋は静まり返っていた。綾部も腰を下ろした後は、ただ、真っ暗で何も見えない地面を黙って見つめていた。
そこへ、小屋の入り口に扉の代わりに垂らしてある筵を払いのけるようにして、伝助の二人の息子が入ってきた。長男の太郎は片方の手に松明、もう片方の手には木片の束を、次男の次郎は一抱えはありそうな小枝の束を抱えている。
二人は、座っている人たちの間を縫うように進んだ。そして、小屋の中央付近までくると急にしゃがみ込み、木片と小枝の束を足元にに置くと、空いた手で地面を掘り始めた。その場所は元々少し掘ってあったのか、兄弟が五、六回手を掻いただけでその作業は終了した。
その後、次郎が束の中から小枝を四、五本抜き取り、先ほど掘った穴へ無造作に放り込むと、太郎がその小枝の中に松明を差し込み息を強く吹きかけた。
瞬く間に、小枝がぱちぱちと音を立てて燃え始め小さな火柱を上げた。小屋の中が薄らと明るくなり、住人たちは一斉に火の方へ眼をやった。
さらに、その火の中に木片を入れ火が大きくなると簡素ではあるが囲炉裏の完成である。
住人たちが自然と囲炉裏のそばに集まって来た。暖かさと、何より明るさが彼らの心を和ませた。
太郎と次郎の二人は、一礼すると小屋を出て行った。
「あっ、ママたきびだよ」
いつの間にか目を覚ました陽菜が、小さな手で嬉しそうに囲炉裏の方を指差した。
「こっちおいで」
囲炉裏のそばにいた吉田富子が、そう言って少し横に移動して陽菜のスペースを作ってくれた。二階の住人の中で唯一の子供である陽菜は、その愛らしいルックスも手伝ってその階の人々にとってはアイドルであった。
急速に開発が進んだ東京のベッドタウンに有りがちな近所付き合いの希薄さは、陽菜のお蔭でA棟の二階には無かった。
陽菜は母親の手をするりと抜けると、一目散に富子のところに駆け寄って、保育園で習ったばかりの歌を歌いだした。
「たきびだ たきびだ おちばたき~ たきびだ たきびだ おちばたき~ あたろうよ、あたろうよ~きたかぜぴーぷー ふいている~」
と、何度も何度もそのフレーズを繰り返した。
それを聞いていた周りの大人たちも、愛らしい陽菜につられて歌いだした。歌詞も陽菜に合わせている。戦国時代にタイムスリップして以来、住人たちが初めて笑顔になった瞬間であった。
小屋の外は静かになっていた。五軒の小屋を囲む柵が完成し、忍足たちはもう居なくなっている。柵の外では、先ほどの十人の兵士が焚火を囲み暖をとっていたいた。二階の人たちの歌声は彼らの耳にも漏れ聞こえてきた。
「けっ、いい気なもんだぜ、静かにするように ちょいと どやして来ましょうか」
「やめとけ、面倒くせぇ。どうせ明日からは歌う気力も失せるような日が続くだで」
「生かさぬよう、殺さぬよう、てか」
「ふふふ」
兵士たちの冷めた笑いが、低く静かに河原の砂利に浸み込んでいった。