泉龍寺
「おい、これが泉龍寺か」
期待を抱いて泉龍寺に避難して来た住民たちであった。
しかし、目の前に現れたのは、朽ち果てた生け垣に囲まれたみすぼらしい観音堂が一つだけの廃寺であった。
ここが現代のような立派な構えになるのは、江戸時代になってからの事である。
「沙汰があるまでここで待つように。それから、危険なのでここから絶対に出ないように」
と黒崎に言われ、仕方なく住人たちは生け垣の中に入った。
敷地は正方形で、面積は50坪ほどである。茅葺き屋根の観音堂は4坪ほどの広さで、敷地の奥にひっそりと佇んでいる。
現代の泉龍寺は、数々の豪奢な建物が千坪以上の敷地に建っている。それと比べると、今の泉龍寺は見る影もなかった。
それでも戦場に居るよりは、遥かにましであった。住人たちは荷物をおろして、それに腰かけたり、阿弥陀堂の狭い縁側に座ったりして寛いだ。
毛布に包まれた吉田も、木漏れ日の当たる南の縁側に担架と伴に寝かされた。
「寒くないか」
野田が吉田に声を掛けた。声を掛けられた吉田は、壁の方を向いたまま小さく頷いた。
「しかし、困りましたね」
そう言いながら、下里が辺りを見回した。彼が心配してるのは寝床の確保である。
観音堂の扉には鍵がかかっており、中に入る事が出来ない。このままだと皆、野宿になってしまう。昼間でもこの寒さである、夜の事を考えると、せめて体力のない吉田や子供や老人だけでもお堂の中で休ませたい。
「この寺を管理してるのは和泉村か」
野田が煙草に火をつけながら言った。それを見て数人の住人が、思い出したように煙草を取り出した。
「黒崎さんに聞いてみたら」
「そうだな、走って行けば追いつくかもしれないな」
そこで、綾部と田中が選ばれて黒崎の後を追った。
寺を飛び出してすぐに、兵士が先頭を走る綾部の前に立ちふさがった。先程まで住人たちを護衛して来た兵士である。
「ちょうど良かった。黒崎さんに聞きたい事が有るんですけど」
綾部がそう言うと
「寺から出てはならぬと言われたはずだが」
兵士が刀の柄に手を掛けながら、威圧するような口調で言った。
「急用なんです、黒崎さんに取り次いで下さい」
田中が手を合わせて懇願した。
「ならぬ、藤堂様より、如何なる理由があっても寺から出さぬように、とのお達しなのじゃ。さっさと戻れ」
兵士にどやされた綾部と田中は、すごすごと今来た道を引き返した。
寺へ戻る途中、綾部が周りを見渡すと、あちこちの木陰から人の目が光っているのが見えた。
「あの藤堂と言う男、敵か味方か、どっちなんだよ」
野田がそう言いながら首を捻った。
「無秩序なこの時代、これだけの人数を守るには、それ位の厳しい規律が必要なのよ」
住人たちの多くが、まだ藤堂の事を信頼しているようだ。
「おい、こら」
突然、雑木林に怒鳴り声が響いた。
住人たちが声のした方を一斉に見ると、そこには4人の行商人らしき男女と、2人の兵士が立っている。行商人たちが寺に入ろうとした所を、兵士に咎められているようである。
40歳前後の頭と思しき男が、烏帽子を握りしめて兵士に向かって必死に頭を下げている。その後ろでは、まだ幼さの残る少年2人と、涼しげな眼もとをした20歳ぐらいの女が1人、片膝をついてかしずいている。
しばらくして、頭が懐から何かを取り出して、兵士の一人に渡そうとした。その兵士がそれを拒否すると、もう一人の兵士がそれを受け取った。そして、拒否した兵士をなだめながら、その場を立ち去った。
解放された行商人たちが、軽快な足取りで寺の中へ入って来た。4人は、連雀という箱を背負っている。
頭が、手下の3人を入り口付近で待たせて、愛想笑いを浮かべながら住人たちに近ずいて来た。この時代の人間にしては背が高い、170センチほどはあろうか。
身なりはと言うと、鈴懸けに結袈裟を付けて、その上に袖の無い毛皮を着て切る。手には1メートルほどの杖を持ち、頭には烏帽子を乗せている。
中世の行商人には、山伏姿を真似た者が多かったというが、彼もその類の1人であろう。
「お取り込み中すいやせん。チョイと、隅っこを貸して頂けないでしょうか」
頭は、そう言いながら烏帽子を取って頭を下げた。どうやら休憩をしたいらしい。
「どうぞどうぞ、好きな所を」
野田が両手を広げた。
それを見て頭は深々と頭を下げた。そして、振り返って
「おい」
と言って、持っていた杖で、入り口付近で待っていた手下に敷地の隅の方に行くように指示をした。彼らは、指示された場所に移動すると背中の連雀をおろして座り込んだ。
「くらっ、挨拶しねぇか、このがきゃ」
頭に一括された3人は、座ったままでぺこりと頭を下げた。
「へへへ、どうもすいやせん、愛想のねぇ奴らでして」
そう言って頭は、3人の分まで肩代わりするかのように、何度も何度も頭を下げた。
「失礼ですが、何を売り歩いてらっしゃるんですか」
下里は、手にボールペンとメモ帳を持っている。
「へい、あっしら何でも屋でして、油や塩を問丸から買って売り歩く事もありやすし、百姓から草履や蓑や竹細工を買って、それを売り歩く事もありやす」
「今日は何を」
「へい、今日は塩を得意先に卸して来た帰りなんです」
そう言って、背中の箱をゆすって見せた。すると、箱の中で枡が転がって、カラカラとなった。
「ところで皆さんは、どういうお方で」
頭が恐る恐る聞いた。
そこに居た住人たちは顔を見合わせた。彼に正直に話した所で、理解できるかは疑問である。
「どうも、その変ったなり、いえっ、すいやせん」
そう言った後、頭が気まずそうに項を掻いた。
「良いんですよ、この洋服でしょう。これは南蛮の者なんです。私たちは日本人なんですが、南蛮の近くにある種子島と言う所から来たんです」
下里にしては、大胆なほらである。生真面目な彼に、こういう一面があったとは、野田や綾部も気付かなかった。
「勝っちゃん、遊びに来てくれたのか」
突然、巌がとぼとぼと歩いて来た。
頭が驚いて、巌の顔をまじまじと見ている。
「どうした勝っちゃん。おらの事忘れたか、巌だよ」
そう言って、巌が頭に近ずいて手を握ろうとした時、野田元が間に割って入った。
「申し訳ない。この爺さん、ちょっとボケてるもんで」
そう言って強引に祖父の手を引いて、和子のもとへ巌を連れて行った。
「すいやせん、とんだ長居をしやした。先を急ぎますんであっしらこれで」
頭は急用を思い出したのか、落ち着かない様子でその場を離れた。そして、3人の手下を急き立てるようにして寺を出て行った。
これから、じっくりと話を聞こうと思っていた下里は、少しがっかりしていた。
長年、歴史研究に携わって来た彼は、生きた資料を前にして、密かに意気込んでいたのかが、巌の乱入で逃げられてしまったのだ。
(まぁ、焦る事は無い。取材の機会は、これから幾らでもある)
下里は、そう自分に言い聞かせて気持ちを切り替えた。