戦場からの離脱
住人たちは急いで部屋に戻って、避難の準備に取り掛かった。ただ、かなりの物が、乱入した北条方の兵士はもちろん、助けに来た上杉方の兵たちによって持ち去られていた。そのため、残った僅かな物の中から、着る物と、レトルトや菓子などの食料を中心に荷造りをした。
「何を愚図ってんだ」
5階の橘家では、荷造りが済んで部屋を出ようとしたが、陽菜が泣いている。
「絵が無いのよ」
縁があちこちを、ひっくり返している。
「何の絵だよ」
聡が面倒臭そうに頭を掻いた。
「二子玉に家を探しに行ったでしょう」
「あぁ」
「あの時、多摩川の河原でお弁当食べたでしょう。あの時の事を書いた絵があるのよ」
「思い出した、兵庫島だろう」
彼らは3か月前まで、会社の社宅に住んでいた。ある日、聡が、宴会係の主任にも昇進したし、そろそろ自分たちの城が持ちたいと言い出した。
それを聞いた縁は、もう少しお金を貯めて、それを頭金に東京の郊外に一戸建てをと思っていたが、言い出したら聞かない性質なのでしぶしぶマンションを買うことを了解した。
機嫌を良くした聡が、お前の好きな所でいいぞ、と言ってくれたので、兼ねてからの憧れの地、二子玉川で物件を探すことにした。
しかし、いざ探してみると、さすがに人気の街だけあって値段が高い。彼らの希望する、値段と間取りの物件がなかなか見つからない。
疲れ果ててたどり着いたのが、多摩川の河川敷にある兵庫島公園である。
そこで3人は、遅い昼食をとった。陽菜はその時の事が甚だ楽しかったらしく、その事を絵に描いて後生大事に持っていたのだが、この時の混乱で何処かへ行ってしまったのだ。
「有った、有った」
縁がそれをベランダから見つけて来て陽菜に見せた。陽菜がようやく泣きやんだ。
その後、二子玉川をあきらめた2人は、値段も手頃で、聡の勤務先の新宿にも電車1本で行けるという事で、登戸のこのマンションに決めたのである。
再度エントランスに集まった住人たちは、亡くなった2人の若者のために黙とうを捧げた。亡骸は、後で玄関のわきに埋めてくれるように藤堂に頼んであった。
本来ならば、自分たちの手で埋めてやるべきであった。しかし、一刻も早か避難したかった事と、普段から、彼らの事を快く思っていない住人が少なからずいることを考慮して、そうするしかなかった。
仮眠室に寝かされていた吉田が、綾部と野田の肩を借りて管理室から出て来た。
「いい身分だな」
「あんたのせいで皆、危ない目に遭ったんだぞ」
住人たちの中から罵声が飛んだ。吉田はまだ、意識がもうろうとしていて無反応である。
野田が、罵声を飛ばした住人をなだめてから、吉田を、管理室に置いてあった担架に乗せた。
黒崎を先頭に、30人の兵士に守られて、住人たちはマンションを後にした。
彼らは、取り敢えず和泉村の泉龍寺に身を寄せることになった。この寺は、現在でも、小田急線、狛江駅の近くにあって、ベッドタウンとして急速に発展する狛江市に貴重な緑を提供していた。
住人たちも泉龍寺の事はよく知っていて、あれだけ立派な寺なら安心できると手を叩いて喜んだ。また、定住先については、この戦がひと段落したら藤堂が探してくれるとの事であった。
南の対岸では、小沢城の兵たちが、石を投げたり野次を飛ばしたりして、挑発を繰り返している。しかし、上杉軍は微動だにしない。ただ、何時攻められても対応できるように、緊張感だけは保っていた。
「先生、玄関の壊れ方がひどいですね。人間の力だけであんな風に成りますか」
陽菜を抱いた橘が、後ろを振り向きながら言った。陽菜は丸めた画用紙を握りしめて眠っている。
「周りが黒く焦げているでしょう、もしかしたら、焙烙玉が使われたのかもしれませんね」
「焙烙玉?」
橘が聞き返した。
「はい、陶器などで造った半球形の容器を二つ貼り合せて、それに火薬を詰めたもので、直径20センチ位の爆弾のような物です」
「へぇ~、この時代にもそんな物が有ったんですか」
「はい、記録上は安土桃山時代辺りからなんですが、もしかしたら一部の忍者などが、すでにこの時代に使用していた可能性はありますね」
「なるほどね」
住人たちは北側の川に差しかかった。流れが中州で二分された上に冬枯れのため、現代の多摩川よりは遥かに小さな流れである。それでも藤堂は、住人たちのために急造で橋を掛けてくれた。
住人たちは、藤堂の色々な計らいに感謝していた。感情の起伏が激しいのは玉に傷だが、根は悪い人ではないという、ある種の信頼感のようなものが芽生えていた。
杭に繋いだ緒牙船に、弓矢避けの盾を載せただけの不安定な橋を、住人たちは恐る恐る渡って行った。
狭い河原には数件の小屋が建っていた。朽ち果てた板を張り合わせただけの貧疎な物で、中の様子が板の隙間から見え隠れしている。
「ここ登戸だろう、何にもねーな」
この地で生れ育った野田が、唖然としている。河原の前に広がる台地には、人の背丈ほどもあるススキ以外は何も目に入って来ない。僅かに、彼らのいる場所から東に200メートルの所に上杉軍の本陣の幟が見えるだけである。
そのすすき野に埋もれそうな狭い道を、兵士と住人たちは一列になって進んだ。しばらく歩いていると、突然すすき野は終わり民家が現れた。
農家と思われるその建物は、縦、横とも5メートルはどの大きさで、当然平屋である。壁は土壁で、屋根には板が載せてあり、風で飛ばないように重し代わりに人の頭ほどの石がいくつも乗せてあった。人気は無いようである。
「多摩川で戦があったから、みんな村の避難所に逃げているんですよ」
と下里が教えてくれた。
だんだん家や畑が増えて来た。その頃になると、住人たちも精神的に余裕が出て来たらしく、盛んに携帯電話で戦国時代の風景を撮っている。
それにしても小さい。家も畑も人も、何もかもが小さいのだ。藤堂や黒崎も、骨太で威風堂々としているが、立つと子供のように小さかった。正味、155センチ位ではないだろうか。
一行は坂を下って、平坦な場所に出た。しばらく行くと道端に50センチほどの石碑が建っている。そこには駒井郷、和泉村と彫ってあった。現在の、狛江市元和泉である。反対側には、駒井郷、登戸村と彫ってある。
そこを過ぎると、また登り坂になった。
「先生、もしかして、ここは川の跡じゃないですか」
田中が、後ろ向きに歩きながら今来た低地の方を指差した。良く見ると、其処にはまるで龍が通った後のような巨大な窪みが、うねりながら東西に横たわっている。
「田中君、正解ですね。しかもここは、先程の村境の石碑でも分かるように、現代の多摩川とほぼ同じ川筋ですね」
先導する兵士たちを追い越して、下里が、坂の上から川筋を見渡した。
住人たちは皆、坂を登りきった所で一旦止まって、マンションの方を見た。
現代ならば、他のビルが邪魔になって、この場所からは見えるはずがなかった。しかし今は、レンガ風の茶色のマンションが周りの緑に溶け込んで、不思議と違和感なく建っているのが見えた。
「これで見納めかもしれないわね」
橘縁が涙ぐんだ。
「良いじゃないか、これから親子3人、安心して暮らせる場所に行くんだから」
橘聡はそう言って、腕の中で眠っている陽菜を抱きしめた。
「そうね、特にこの子には、これから先長い人生が待っているんだもんね」
緑も聡に抱きつくようにして、娘に頬ずりをした。
一行は、農村から雑木林の中に入った。そして、暫くして泉龍寺に着いた。その間、一人の村人も見かける事は無かった。