専守防衛5
鍵を掛けた後、住人たちの中から拍手が起こった。とりあえず、これで兵士の侵入を防ぐことができる。窒息するような緊張感から解放された綾部は、思わず空を見上げて深呼吸をした。
真っ青に晴れ渡った空、肌を刺すような冷たい冬の空気、それらは現代の物と何ら変わりはない。しかし、地上に目を移すと、現代の日本では、まず遭遇することのない修羅場が繰り広げられている。
南側からは時折、弓矢が飛んでくる。その矢には威力は無く、当たったとしても切り傷を負う程度であった。しかし、念のため、子供と老人は屋上の真ん中に設置してある、大きさ1,5メートルのサイコロ型の貯水タンクの北側に避難させた。
屋上には、この貯水タンクと東面中央にエレベーター機械室と非常階段の塔屋があった。
「全員無事、避難できて良かったですね」
草野が、ほっとした表情で言った。
「いや、綾部君がいません」
綾部と親しかった田中が、唇を震わせながら呟いた。
「大丈夫だよ田中、あいつ臆病だから真っ先に電気室にでも逃げ込んでるよ」
そう言って、田中を慰めた野田であったあ、内心、最悪の事態を覚悟していた。
「だけど、彼は何で上の階に逃げて来なかったんですかね」
誰かのその問いには、誰も答える者はいなかった。しばらく続いた沈黙の後、野田が話を切り出した。
「先生、ちょっといいですか」
彼は下里を連れて北側に行った。そして、屋上の周りに設置されている、高さ1メートルの手摺の所まで来ると、飛んでくる弓矢を気にしながら地上を指差した。
「北側の連中、上杉でしたっけ、彼らは何で、この面から登って来ないんですか。梯子が無いんですか」
「そうですね、見た感じだと、北条勢を追い払ってから、マンションの攻略に取り掛るんじゃないですか」
そう言って、今度は下里が野田を連れて南側へ移動した。橘や田中など、数人の住人が2人の後を付いてきた。
「見て下さい。梯子を登っている兵士がいませんよね。これは、戦いがマンションから地上に移ったということです」
下里が指差した地上を見ると、両軍の兵士が戦いを繰り広げている。そのため、先程まで時折、飛んで来た弓矢も今はすったり止んでいる。
両軍入り乱れて戦っているため、野田たちには北条と上杉の区別がつかない。当然、どちらが優勢なのかも分からない。
「もう少ししたら、北条勢は総崩れになるかもしれませんよ」
「どうして、そんなことが分かるんですか、先生」
野田の質問に、下里は両手を前に出して、大きな木を抱え込むような格好をした。
「こうやって、兵士たちが戦っている範囲を囲ってみて下さい」
その場にいた男たちは、下里の言うとおりにしてみた。すると、兵士たちが戦っている場所が、手で作った輪の中からはみ出して、南の方にずれて行くのが分かる。つまり、北から攻めて来た上杉勢が優勢なのだ。やがて、下里の予想は的中した。戦いが始まって僅か20分足らずで北条勢は総崩れとなり、南の丘陵地帯へ逃げ出した。その後を、上杉勢の一部が追って行く。北条勢にとっては、これからが本当の修羅場となるであろう。それを象徴するように、丘陵の中腹に陣取っていた本陣の兵も、幟や陣幕を残したまま、算を乱して枡形山城目指して逃げて行く。
残った上杉勢は、ぐるりとマンションを取り囲んだ。少なくとも500人はいるであろう。中には石を持っているものや、弓を引いて狙いを定めている者もいる。
住人たちはとりあえず、貯水タンクの所に避難した。しかし、今度は四方を取り囲まれているため、何処から飛んでくるか分からない。多くの親と同じように、橘縁も陽菜の上に覆い被さって子供を守ろうとしていた。
しかし、いつまで経っても石つぶてや弓矢は飛んで来ない。その時、突然、開くはずの無い非常階段のドアが開いた。そして、中から鎧武者が次々と現れた。
住人たちは悲鳴をあげ、貯水タンクの西側の影に隠れた。もう彼らに、逃げ込む場所は無い。
「何で開くんですか。鍵、間違いなく掛けたよね」
「鍵を持ってたとか」
「なんで、あっ、もしかして管理人から奪ったとか」
「てことは、管理人は、やっぱり駄目だったって事か」
住人たちの話を黙って聞いていた田中の顔が、青から赤に変わった。仲のいい綾部の死を、あたかも近所のペットが死んだ時のように、軽々しく扱われたことに腹が立ったのである。
出て来た兵士は全部で8人、中には兜も被らず草摺りも付いていない、ライフジャケットのような鎧を付けた軽装の兵士もいる。狭い非常階段を登って来たせいか、槍を持っている兵士は一人は居ない、おそらく持っている武器は刀だけであろう。
「くそぉ、戦いましょう。このままじゃ」
「田中君、落ち着いて下さい」
珍しく下里が、語気を強めて田中を諌めた。
「いや、先生、こっちは向こうの3倍だ。持っている武器も刀だけだし、何とか成るかもしれませんよ」
野田が言うように、こちらの戦闘員、つまり成人男子は25人で、数では勝っていた。
「我々に、素手で戦えって言うんですか」
即座に、4階の住人からクレームが付いた。彼らも向こうの兵士と同様、逃げる時に邪魔になるという理由で、武器の物干し竿を持って来なかった。これでは、頭数では3倍でも、戦力的には3倍には程遠い。
「大将、取り敢えず私が交渉してみます。もし、ダメだったら」
「俺も、お供しますよ、先生」
「いや、1人の方が向こうも警戒しないでしょう」
そう言うと下里は、中腰の姿勢から立ち上がって歩き出した。
「あれ、綾部君」
田中が呟いた。
「何言ってんだ田中、落ち着け」
野田が、語気を荒げて諌めた。
「あれは、綾部君じゃないですか」
歩き出していた下里も、田中と同じことを言って立ち止まった。
「何言ってんですか先生まで、悔しいけど綾部はもう居ないんですよ」
「居ますよ、ほら」
そう言って、田中が兵士たちのいる非常階段の方を指差した。野田が貯水タンクの影から身を乗り出して覗くと、ドアの前でたむろしている兵士の前を、ゆっくりと懐中電灯を片手に警備服の男が歩いてくる。少しやつれた様にも見えるが、その低い背丈に浅黒いサル顔は紛れもなく綾部であった。
「どうも、お久しぶりです」
首に付いた血の塊を指で掻き落としながら、綾部は白い歯を見せて笑った。住人たちも、貯水タンクの影から彼の周りに集まって来た。
「血だらけだけど、怪我したんじゃ」
田中が目を潤ませながら聞いた。
「大丈夫、これは返り血だから」
「と言うことは、戦ったんですか」
「まぁ、そうですね。でも最後は、彼らに助けて貰ったんですけどね」
そう言って、兵士の方を指差した。
綾部は、仮眠室に逃げ込んだ後、なかなか兵士が攻め込んで来ないので、襖を開けて管理室を覗いてみた。すると、数人の兵士が吉田を介抱している。それを見て、恐る恐る仮眠室を出て兵士に話しかけてみると、住人を助けよ、という命令が出ているとの事。それを聞いて安堵した彼は、今の状況を兵士に聞いてみた。すると、住人たちは屋上に逃げているという。そこで、早速、兵士たちと伴に屋上へ彼らを迎えに来たのである。
「みなさん、もう大丈夫です。私たちを襲って来た北条は、彼らによって駆逐されました。安心して下さい、彼らは、私たちの味方です」
綾部がそう言うと、住人たちは歓声を上げた。中には泣き出す女性もいた。
「彼らは、やはり上杉の兵ですか」
気付かれないように、携帯電話で兵士たちを撮影した後、下里が聞いた。
「はい、上杉修理大夫と言う方の家臣で、難波田弾正忠と言う方の軍勢だそうです」
下里が何度も頷いた。
「先生、ご存知ですか」
「えぇ、面識はありませんが」
と下里が冗談ぽく言うと、住人たちの間から一斉に笑いが起きた。その笑いが収まるのを待ってから、彼はさらに続けた。
「上杉修理大夫朝興、関東管領の上杉家から分かれた、扇谷上杉家の当主です。難波田弾正忠は、そこの重臣ですね」
「はぁ~」
住人たちの間から、下里の博識に感嘆の声が上がった。
「じゃぁ、取り敢えず皆さん、中に入りましょう。エントランスで、難波田様の家臣の藤堂様が待ってらっしゃいますから」
綾部にそう言われて、住人たちはマンションの中に入って行った。8人の兵士は、そのまま屋上に残り見張りの任務に就いた。