専守防衛4
一方、上の階では、3階の住人を中心として、総力戦の様相を呈してきていた。4階と5階の住人が援護射撃を開始した直後に、2階から逃げてきた住人が3階の廊下に避難していた女性たちから事情を聞き、援軍に加わった。その後3階の北側の住人も、北側からは攻めて来ないとわかると、援軍に加わってきた。
これで、3階で戦う男の数は12人になった。それに対して、3階のベランダに掛っている梯子は8本。そこで、1本の梯子に1人付いて、余った4人は遊軍として自由に動けるようにした。
しかし、兵力の差は歴然としていた。マンション側の総兵力はわずかに25人。それに対して、攻め手は総兵力700人で、そのうち、本陣の兵を省いた500人が戦闘に参加している。
戦闘開始からまだ10分しかたっていなかったが、普段の運動不足も手伝って、住人たちは徐々に息が上がってきた。そこへ草野の妻、富子が飛び込んできた。
「北にいた人たちも、攻めて来ましたよ」
「人数はどの位だ」
夫の勇治が聞いた。
「南の人たちの2倍はいます」
富子の言うことは、事実とは違っていた。実際に攻めてきたのは700人で、2倍というのは大袈裟であった。しかし、恐怖に駆られた富子の目には、それ位の大群が攻めて来たように見えたのである。
「おーい、北の軍隊も攻めて来たぞー」
上の階からもヒステリックな声が響いてきた。現状でも完全にオーバーワークなのに、これ以上仕事が増えたら完全にパンクしてしまう。彼らは、仕事を放り出して、何処かへ逃げ出したい衝動に駆られていた。しかし逃げ出す場所などない事は、誰しも分かっていた。
「大将、大将居ますか」
4階から下里の声がした。
「何ですか先生、い、忙しいんで、手短にお願いします」
「分かりました。屋上出入り口の鍵、有りますか」
「屋上?」
「はい、非常階段を使って屋上に出れますよね」
「あぁ、持ってます持ってます」
「良かった。それで屋上に避難しましょう」
「屋上ですか」
「はい、上杉軍が攻めてきた今、兵士の侵入を防ぐのは不可能です。ですから、屋上に避難しようと思うんです。屋上のドアに鍵を掛ければ、彼らの侵入を防ぐことができます」
確かに下里が言うように、屋上に出る非常階段のドアは、内と外の両方とも鍵で施錠する物であった。理由は、防犯のためとも、自殺を防止するためとも言われている。そのため、その鍵は、管理人と警備員とマンションの理事しか持っていなかった。野田は、このマンションの理事であるから鍵を持っていた。
この屋上出入り口の扉は鉄でできているため、鍵を掛ければ兵士の侵入を防ぐことができる
「で、でも、その後どうするんですかー」
田中が珍しく大きな声を出した。
「その後は、何とか助けてもらえるように彼らと交渉するんです」
「たけど先生、はぁはぁ、こ、こんな状況で、上手く非難できるかどうか」
野田が心配するのも無理はなかった。新手の兵士を相手に、疲労困憊の彼らが、子供や老人を連れて屋上へ逃げ切ることができるだろうか。
「それに、非常階段の中に兵士がいたら、どうするんですか」
草野が言う事も、尤もであった。2階には何の障害も無いため、かなりの兵士が侵入していた。その兵士たちが部屋を出て、非常階段に入り込んでいる可能性は十分に考えられた。
「それは大丈夫です。今、4階の女性たちが確認しましたから。ただ、早くしないと入ってくる可能性があります」
「それで、鍵はどうするんですか」
「私の妻が、もう直ぐそちらへ行きますので渡して下さい」
下里が話し終わらぬうちに、真理が野田のいる所へ走って来た。
「ちょっと待ってね、真理ちゃん」
野田は持ち場を遊軍の住人に変わってもらい、鍵をキーホルダーから外して真理に手渡した。
「真理ちゃん、内の爺さん、足手まといだったら置いてっていいから。後で俺が負ぶっていくから」
「大丈夫ですよ、皆さんに協力してもらって、もう4,5階当たりを登ってますよ」
「あぁ、それは有難い」
「それじゃそろそろ私、行きますね」
真理はそう言った後
「みなさん、もう少しの間、頑張って下さい」
と戦っている男たちに声を掛けてから去って行った。
「先生、渡しました」
野田が下里に声を掛けた。
「分かりました。それではそのままで、私の話を聞いて下さい」
そう言って下里は、ベランダにいる住人全員に聞こえるように大声で説明を始めた。
「まず、女性たちが避難し終わったら、3階の皆さんが先に避難してください。しばらくの間、4階と5階の人間で兵士の侵入を防ぎます。その後で、4,5階が一斉に非難します。いいですか」
「いいです」
「先生ありがとうございます」
誰かが下里にお礼を言った。皆も同じ気持ちであった。逃げ場も無く、絶望していた彼らに下里の提案は生きる希望を与えてくれたのだ。
「避難、完了でーす」
屋上から真理の声が聞こえて来た。
「じゃぁ、3階の皆さん避難してください。エレベーター側の階段ですよ」
下里の声を合図に、3階の男たちは武器を待ったまま一斉に走り出した。4,5階の住人たちは、必死で兵士の侵入を食い止めようとした。しかし、それも10秒と持たなかった。兵士たちは、物干し竿や鉄アレイの攻撃をかいくぐって、次から次へと部屋の中に侵入して行った。それを見て、この辺が潮時と見た下里が、残った4,5階の住人に撤収命令を下した。
3階の住人が屋上に達した頃、4,5階の住人が非常階段に入って来た。嬉しい事に、女性たちが各、踊り場にいて、懐中電灯で階段を照らしてくれていた。これが無ければ、真っ暗な非常階段を迅速に登ることは難しかったであろう。この女性たちの協力もあり、全員無事、屋上に避難することができた。