逃げる少女とお助け屋
その出会いは偶然か、
必然か。
――それとも
ダレカの悪戯か。
魔が、さしたのだ。
茶色の通学かばんを握る右手に、更に力を入れて走る。走る。
全速力で。
"ヤツが来る"
後ろを振り返らずとも分かる。
あいつはもう、すぐ後ろまで来ている。
コンクリートの地面を力いっぱい蹴り、小柄な少女は駆け抜けてゆく。
そのただならぬ様子に、道行く人々は小首を傾げる。
少女は明らかに浮いた存在だった。
しかし、本人自身はそんなことを気にしているヒマではない。
とにかく逃げなければ…!!
その一心で走り続ける。
逃げ続ける。
そもそも、何故こんなことになったのか。
立ち止まりたくなる欲求を抑え、つい先刻のことを思い出す。
私は屋敷にいたのだ。
ある女の子に頼まれて。
どのような屋敷かというと、まるで、何か人間ではないものが住み着いていそうなボロ屋敷。
"まるで"と言ったけれど、違った。つまり、その屋敷に"出た"のだ。
まったく…
自分の体質が嫌になる。
見たくないものが見え、関わりたくないものに、こうして追いかけられる。
何度他人に助けを求めても、救いの手が差し延べられることはまずなかった。
―――――あ れ …?
無我夢中で走って来たせいだろうか。
目の前に進む道が……ない。
季節は夏だというのに、背筋が凍る。
絶体絶命という言葉の意味を、今まさに理解した気がした。
目の前は、推定2㍍の大壁。
ゆっくりと後ろを振り向く。
生温いヤツの吐息が私の黒髪を揺らす。
不快感で肩が震えた。だが、恐怖はない。
慣れとは恐ろしいものだな、と思う。
そして目を細め、睨みつけてみる。
敵わないことは、とっくの昔に熟知している。だから無駄な動きはせず、心を落ち着かせるために深く息を吸い込み、時間をかけて吐いた。
逃げる隙を見つけるべく、ヤツを見据える。
"夜色"と言ってしまったら綺麗すぎるであろう、毒々しいジェル状のカラダ。
そのカラダを蠢かせる不気味な音が響く中、私は逃げ道を見つけ出そうと必死だった。
そんな切迫した空気を、
思い掛けぬ、間の抜けた声が完全にぶち壊した。
「手ぇ貸しましょ―か?」
上…………?
「ども。
お助け屋でっす。」
独特の口調に、若竹色の着物を着流した男がそこにはいた。
そこ、と言うのはつまり、私の前にそびえ立つ壁の上である。
なお、男は目深く大きな帽子を被っていて顔は伺えない。
はっきりと見て取れるのは、男が多少……いや、かなり細身であるということだ。
私の位置からだと、ゴボウのオブジェか何かにすら見える。
その男が、腰を折って私を見下ろす。
ただそれだけの動作でも、私は腰がポキリと容易く折れるのでは、と肝を冷やした。そして私の心配を知ってか知らずか、男は薄い唇を三日月型に吊り上げてわらい、右手を差し出してくる。
ガリガリの、
細すぎる腕だった。
なんと滑稽な図であろうか。
一般人から見て、男はかなりの変わり者と見た。
こんな町のど真ん中で、着流し(しかも結構な価値がありそうな)、妙な形のボロ帽子姿の人間は、私は見たことがない。
その上、ひどく目に付く朱色の花緒のついた下駄を履いている。
…男が履くのに朱の花緒はどうなのか。だがしかし、目前にまで迫るヤツと比べれば、当然男の方が普通に見える。
決断するのに、大して時間はかからなかった。
私は、骸骨みたいな男の右手をとった。
その一瞬、
男は先程以上に口の端を吊り上げて、笑ったように見えた。
「よっこいしょ、」
…てっきり私を引き上げてくれるものだと思っていたのだが、どいやら違ったらしい。
男は私の手を支えとし、
壁からこちら側へ降り立った。
カラコロ、カラと下駄が陽気にわらう。壁に乗っていたときはあまり感じなかったが、これは……
「……細長っ………。」
私の前に立つ男は、壁ほどではないにしろ、限りなく近い身長、
つまり率直に言うと、でかかったのだ。ものすごく。
細身で、長身。
ますますゴボウに酷似して見てきた私に、男は信じ難い言葉をかけた。
「お嬢さんよぉー、
ゴボウはちょいと酷くないかい。」
無理矢理押し込めて、ククッと小さく笑う。
一応言っておくが、私は決して口に出してなどいない。
「―――な…」
なんで、
と言おうとして、やめた。今はそれどころじゃない。ヤツから逃れることが、今一番に解決すべき問題である。
「ほっほーう、お前さん、結構利口じゃあないの。」
おどけた感じで男が言う。男の手に縋ったのは、間違いだったかと思い始めたが、頑張ってその不安を
頭の外に追い払った。
「心読まないでください。一応確認したいのですが、あなたにはアレが見えますか。」
前方を指差す。男は躊躇いなく、すぐに頷いた。
「このままでは
きっと危ないです。あなたは自分が"お助け屋"だと名乗っていました。
あなたが私を助けてくれると思っていいでしょうか。」
男は口の端を吊り上げた。「あぁ、もっちろん。」
と軽々しく言い、今度は逆に尋ねられた。
まるで、幼い子供に「何して遊びたい?」とでも聞くような口ぶりで。
「じゃあ、お嬢さんはどうしたい?
ご希望なら、アレを消滅させることだってできますよ。」
簡単に"消滅"と言った男に、私は鳥肌がたった。
オソロシイ。言葉で他人を威圧するのだから、やはりこのゴボウ男、普通ではないのだ。
とかなんとか考えながら、私は男へ言葉を返す。
「…すみません、言い直します。私とアレを助けてください。」
変な間が空いた後、男が微かに空気を震わせて笑った。
「そいつぁ、本心かい?
お嬢さん。」
本心じゃないのなら、何だと言うのか。
不思議に思ったことも、この男は言葉で表さずとも分かったのだろう。私の返答を待たず、ボソッと「了解」と呟き、帽子を深く被り直した。
アレはますます不気味にカラダを揺らす。
音か、声か。
区別のつかない轟き。
底無しの絶望から、
救いを求める魂たち。
カラ、コロ。
カラ、コロ。
下駄の音だけが浮かび上がって聞こえる。
男は何の躊躇いもなく、歩を進ませ近づく。ヤツの目前まで歩いて、やっと足を止めた。
若竹色の布が、パタパタ体を翻す。
「どーーぞ。」
やや明るさを含んだ声に促されるまま、黒いジェル状のヤツは男の細長い体をすっぽり飲み込んでしまった。正直、驚いた。
男は見えなくなった。
すると、ジェル状のカラダの内から、ポゥ、ポゥと光の粒が舞いはじめる。
強い光ではなく、やさしい温かな光。
―――チリン。
鈴の音…………
あまりに現実味のない、鈴の音。
一定のリズムを刻み、鳴るたびに光は増していった。
淡いスミレ色、
透き通るような水色に、
ほんのりと明るい山吹色
透明なセロファンが解けていく。
邪悪な黒闇の姿は跡形もなく消えて、残ったのはまるで毒気を抜かれた白い塊だった。
男の姿もちゃんと見えるようになった。力無くその場に座りこんでいる。後方に両手をつき、笑いながら。
「いやぁー、参った。思ったより重いなぁ!」
いかにも愉快そうに。
だから、私は訝しげに恐る恐るといった具合で男に近づいた。
「……大丈夫なんですか?飲み込まれてましたけど。一体何がどうなって、こうなってるんですか?」
周囲では今だに、細やかな光の粒子か自由に踊っている。男はそれらを愛おしそうに眺め、細い腕を伸ばして触る。
男の指先が粒子に触れた途端、粒子はパンっと小さく弾けて消えた。
「ん――――…」
立ち上がる素振りを見せたが、なぜか途中で諦めたようだった。
「ご覧になったとーりのことだよ。あとは――…
えーと、うん。
わかんないねぇ。」
何が可笑しいのか、へらへらと笑っている。
笑ってごまかそうというのだろう。
つまりはこの男、説明するのが面倒なのだ。おそらく。
「ま、でも
お嬢さんが考えてんのと、大体同じだからいっか。」
また見透かしてる。
私はその分喋らなくても良くなるのだが、当然良い気などしない。
見透かされるたび、何だか気持ちが悪い。
だから、ちょっとした反抗のつもりで言葉に出してやった。 「"お助け屋さん"が浄化槽のように、霊の邪気を取り払った。そう考えていいでしょうか?」
満足そうに、にんまりと笑う。頷く代わり、ということだろう。
「それで、コレはどうなってしまうんです?
先程と比べると、無害になったように見えますが、」
白くなったヤツを指差して尋ねる。
迷子みたいにウロウロしている。
「だ――いじょおぶ。
すぐお迎えが来なさるさ。」
そう言って何秒もしないうちにヤツの姿が見えなくなってゆく。
天の使いとやらは、人間には見えないらしかった。
完全に消えたのを見送ると、突如ドサリという物音が背後でして、私は振り向かなくてはいけなくなった。
「あの、大丈夫ですか?」
男が仰向けに倒れた音のようである。しゃがみ込んで、肩を揺する。
「う―…」とか「あ―」とか言ったから、意識はちゃんとあるらしい。一応助けてくれた恩人なので、大声では言えないが、私は早く家に帰りたい。
つまり、このままこの男をココに放置して帰りたい。
しかし私もそこまで仁義がないわけじゃない。
よって、自分の時間を犠牲にして、男をどうにか助けようという結論に至った。
「あぁーなんかもう力入らん。立ち上がれやしねぇ。慣れないことはするもんじゃないわな。ははは…」
元から間の抜けた声ではあったけれど、今の男の声は本当に、心底疲れきった様子だった。
私は黙って男の肩に腕を回してやる。
肩幅は完全に成人の男性のものなのだが、その細さが尋常じゃない。
細い。細すぎる。
現代を生きる人間としては、あまりにも。 「掴まってください。
家まで送りますから。
もし歩いて帰れる距離でなければタクシー呼びますけど。」
動揺を押さえて、極めて冷静を装い男を立たせる。
かなりの身長差のせいで、直立、というわけにはいかないが、体重の問題はまったくと言っていいほどなかった。
「くくくッ…」
耳のすぐ側にある男の頭。その頭が可笑しそうに微動する。
「なんですか。」
「…くく、いや。
お助け屋がお嬢さんみたいな子に助けられているのが、どうにも面白くてね。」
「え……はぁ、そうですか…」
なんとも間抜けな相槌しか私にはうてない。
言っておくが、私は人との交流が上手くできない方の人間なのだ。言葉の引き出しは非常に少ない。
だからこういう風に一対一だと気の利いた言葉の一つ、出てこないのはわかりきったことだった。――などと、気づくと自分を弁護するかのように頭の中が働く。悪い癖だ。
何かしら失敗をすると、フル回転でその理由付けをし始める。
そうして私は、自身の行動を合理化することで、自分を守るのだ。
いつの間にか考え込んでいた私の体が、ふいに軽くなったのに気づく。
…あれ?
「いやぁー、すいませんねぇ。重かったでしょう、こんなオジサン背負って。
でも大丈夫になったんで、どうぞ気をつけて帰ってくださいな。
それじゃあ、"また"。」
軽く口元に笑みを浮かべて、再び帽子を深く被り直す。
その際、前髪と帽子の狭間に見えた銀色の瞳が鋭く光ったのを、私は見逃さなかった。
長身の着流し男は、自由気ままに下駄を鳴らしながら、私の視界から消えていったのだった。
今思い返してみても、不思議な出会いだったと思う。
ましてや、翌日に再びこの男に会うなど予測できるはずがない。
少なくとも 私は。
以上、二人の出会いの章でした。
"いつか還る青空"、楽しんで下さると嬉しいです。
よろしくお願いします。




