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攻略対象に薬を盛る直前で「それ犯罪じゃん」と気づいた悪役令嬢の話

掲載日:2026/03/27

「ケイン様を安らかな眠りに導くために、この特製睡眠薬を……」


 夕闇に染まる教室。私は震える手で、琥珀色の紅茶に怪しい液体を滴らせようとしていた。

 我ながら、目がバキバキにキマっている自覚はある。

 だってこれが、彼を救う唯一の手段だから!


 ——なんて、思っていたのは0.5秒前までだ。


「……待って。私、何してんの? 犯罪じゃん」


 脳内に、前世の記憶という名の濁流が流れ込んできた。

 ここは乙女ゲーム「聖女の祈り」の世界。私は攻略対象のケイン様をストーキングの末に薬物混入しようとして、北の果ての修道院にブチ込まれる悪役令嬢こと「刺繡の魔女」リネット。


(……やばい。このままだと私の人生、詰む!!)

「……何をしてるんだ、君は」


 背後から、低くて甘い——今の私には死神の鎌の音にしか聞こえない声が響いた。

 ケイン・アッシュフォード。この学園の王子様であり、私の元ターゲットだ。


「あ、ケイン様! お疲れ様です! お茶、淹れ直そうと思って!」

「混ぜたよね。今、何かを、その中に入れたよね」


 彼の目が、完全に「不審者を見る目」になっている。

 本来のシナリオなら、ここで「愛ゆえの善意ですわ!」と絶叫して取り押さえられる場面。


(……やるか。やるしかないわね)


 私は無言でケイン様の紅茶カップをひっ掴むと、窓の外に向かって全力投球した。


「……えっ?」


 ガシャーン! と景気のいい音が響く。


「ケイン様! 毒虫です! 毒虫がダイブしたのを見逃せませんでした! お詫びに、その、これ差し上げますから許してくださいさようなら!!」


 私はポケットに入っていた碧い糸で家紋と忘れな草をびっしり隙間なく縫い上げた、怨念……じゃなくて執着のハンカチを彼の顔面に叩きつけ、スカートの裾を捲り上げて猛ダッシュで逃走した。




「……よし。この立体刺繍、前世の知識をフル活用すれば『本物より本物らしい花』が作れるわ!」


 私は執着を捨てた。

 かつては「彼の瞳と同じ碧い糸」で、一針ごとに怨念……もとい、愛を込めて重すぎる家紋を縫っていたが、今は違う。

 私が作り出したのは、見る者を圧倒し、今にも香りが漂ってきそうな「魔法の刺繍」。

 それが学園の令嬢たちの目に留まるのに、時間はかからなかった。


「リネット様、そのポーチの薔薇……まるで生きているみたいですわ!」

「リネット様、私にも一つ、この小鳥を縫っていただけないかしら?」

「ええ、喜んで。……ただし、お値段は少しお高くてよ」


 私は「愛」の代わりに「現金」と「人脈」を稼ぎ始めた。

 「刺繍の魔女」という二つ名は、恐怖の象徴から、予約一年待ちのカリスマ職人の称号へと上書きされたのだ。

 だが、商売が繁盛すればするほど、過去の自分の「営業妨害」が牙を剥く。


「……リネット嬢。今日は自ら転んで、足首を痛めたりはしないのか?」


 わざわざ現れたケイン様が、皮肉げに眉を上げる。

 そう。前世を思い出す前の私は、彼に構ってほしくて「不自然すぎる当たり屋」を繰り返していたのだ。


「ああ、以前のあれですか? どうかしてましたわ。あんな下手な演技で時間を無駄にするなんて、今の私なら自分に往復ビンタしてます。足首を痛めて座り込む暇があったら、一針でも多く縫ったほうが稼げますもの」

「……では、大切な刺繍道具を自ら床に叩きつけて泣き真似をするのは?」

「やめてください、商売道具を粗末にするなんて職人の風上にも置けません。当時の私を呼び出して、説教したいくらいですわ」


 私は、作業の手を一切止めずに淡々と返す。

 かつては自分のドレスの袖をわざと切り裂き「誰かに悪戯されて……怖いんですぅ」と震えながら縋りついたこともあった。


「あの時、君は僕に泣きついていたが」

「アッシュフォード様。その話、営業妨害なのでやめていただけます? 衣服の破損は布地の劣化か、管理不足が原因です。怖いのは、その程度のことであの方の貴重な時間を奪おうとした私の『脳内お花畑』っぷりですよ。……ふふ、笑えますわね」


 ケイン様を直視もせず、冷たく笑い飛ばす。

 かつての「粘着質な視線」が消え、代わりに宿ったのは「納期と利益」を見据えるプロの眼差しだと自負している。


「……君は、本当に変わったな。あんなに熱心に、僕を求めていたのに」


 ケイン様の瞳には、以前のような「気味の悪いものを見る色」は微塵もなかった。

 代わりに宿っているのは、どこか寂しげで、どうしようもなく落ち着かない、縋るような色だ。


「ええ、仕事の楽しさに目覚めました。あ、セシル様への贈り物なら、特急料金で承りますよ?」


 商売用の「営業スマイル(0円)」を向ける私に、ケイン様はさらに眉を下げた。


「……婚約の話は、白紙になったんだ。セシルには他に好きな人がいたらしくてね。……それより、リネット。君が昔くれたあのハンカチ、実はまだ持っているんだ。あの時は驚いてしまったけれど……今なら、君がどれほどの情熱を持ってそれを縫ったのか、わかる気がする」

「……は?」


 私は手に持った銀針を落としそうになった。


(嘘でしょ。あの『呪いの重装備(物理防御+怨念)ハンカチ』をまだ持ってるの!? 怖っ! 捨てなさいよ、今すぐ衛生管理局に突き出しなさいよ!)


「あの、あれは若気の至りと言いますか、重度の厨二病というか、とにかく『病んでた時期』の黒歴史ですので。今すぐ暖炉に投げ込んで灰にして、その灰をさらに川に流してください。お願いします」

「いやだ。……今の君は、前よりもずっと、その……『光』の中にいるように見える。眩しくて、目が離せないんだ」


 ケイン様が私の指先をそっと取ろうとする。かつて、私が死ぬほど憧れたシチュエーション。

 だが、今の私の脳内にあるのは「納期」の二文字だけだ。

 私は反射的に、バチンッ! とその貴い手を叩き落とした。


「ダメです! 職人の指先を気安く触らないでください! 突き指や骨折でもしたら納期が遅れるでしょう!? 違約金、払ってくれるんですか!?」

「……。……君、本当に、本当に変わったね」




 王都の一等地。そこには、王族や大貴族がこぞって予約を入れる、高級刺繍ブランドの本店が建っていた。

 かつて「陰気な刺繍オタク」と蔑まれていた私は、今や「国の至宝」と呼ばれる伝説の職人だ。


「リネット様、新作の受注会、今回も抽選漏れでしたわ……」

「申し訳ございません。これ以上縫うと、私の指が物理的に燃えますので」


 そんな行列の最後尾に、なぜか当然のように立っている男がいる。

 アッシュフォード侯爵家次期当主、ケイン様だ。


「リネット、今日のディナーはどうかな? 君が好きな北の海の幸を取り寄せたんだ」

「すいません、締め切りが明日なので、食事は栄養補助食品で済ませます。あ、お帰りの際に、そこの『新作! 過去を浄化するハンカチ』でも買っていってください。前回の呪物との交換をお勧めします」


 結局、ケイン様は「あんなに情熱的だった彼女が、なぜ急に冷たくなったのか」という未解決事件に一生囚われてしまったらしい。今や、私の店に通い詰める一番の上客だ。


「……君が僕を見てくれないなら、僕が君の一部になるしかない。この特注のコートの裏地、全部君の刺繍で埋めてくれないか?」

「面積が広いですね。……よし、三倍の追加料金で承りましょう」


 愛をこじらせるのをやめて、針にすべてをぶつけたら、富と名声、そして勝手に追いかけてくるハイスペック男子が手に入った。


「リネット! ずっと待っているよ、君が針を置くその日まで!」

「はいはい、警備員さーん、いつもの人を外へお願いしまーす」


 私は今日も元気に、黄金の針で未来を縫い上げている。

 かつての自分が仕掛けた「愛の呪い」は、巡り巡って、一番皮肉な形で成就してしまったようだ。


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