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第八話 同じ空の下で生きる

第八話 同じ空の下で生きる


病室は、驚くほど何もなかった。


白い壁。

白いカーテン。

窓辺に置かれた、小さな丸椅子。


数日前まで、機械音で満たされていた空間は、今は静かすぎるほど静かだった。

心電図の規則正しい電子音も、点滴が落ちる微かな音もない。


麗華は、ベッドの端に腰かけていた。


膝の上に置いた両手を、無意識に見つめる。

包帯はすでに外れている。

皮膚は滑らかで、傷跡らしいものはほとんど残っていなかった。


(……本当に、治ってる)


医師は何度も確認した。

血液検査、神経反射、視力、聴力。

どれも「異常なし」。


ただ一言、首を傾げながらこう言った。


「回復が、早すぎますね」


それ以上は踏み込まれなかった。

麗華も、何も説明しなかった。


変異体。

その言葉は、病室のどこにも書かれていない。

だが、確かにここにあった。


「大葉さん、これで退院です」


看護師が微笑む。


「何かあったら、すぐ連絡してくださいね」


「はい」


頭を下げ、紙袋を受け取る。

中には、着替えと、使わなかった洗面道具。


拍子抜けするほど、あっさりしていた。


病室のドアを閉める前に、一度だけ振り返る。

何か忘れている気がして。


だが、そこにはもう何もなかった。



病院の自動ドアが開いた瞬間、外の空気が流れ込む。


乾いた秋の匂い。

遠くを走る車の音。

人の話し声。


「……外だ」


言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。


空は高く、雲はゆっくりと流れていた。

事件があった日と、何一つ変わらない。


(全部、終わったわけじゃないのに)


麗華は、胸の奥に残る重さを自覚していた。


身体は治った。

傷も消えた。


だが、あの瞬間――

黒瀬が切り裂かれ、血を流し、右腕を失った光景は、消えていない。


(黒瀬さん……)


彼はまだ、同じ病院のどこかにいる。

右腕の検査が続いていると聞いた。


「問題ない」


そう言っていた声が、やけに落ち着いていて、逆に不安になる。


麗華は、スマートフォンを取り出し、連絡先を見る。

だが、結局画面を閉じた。


(……今は、戻ろう)


日常へ。



一方、別の病室。


黒瀬悠希は、窓際に立っていた。


都市の輪郭が、ガラス越しに歪んで見える。

高層ビル。

交差点。

小さく見える人の流れ。


右腕は、白い包帯に覆われている。

肘から先を固定するための簡易ギプス。


医師の説明は、慎重だった。


「切断自体は、再接合が成功しています」


「ただし――」


その“ただし”が、長かった。


神経。

筋肉。

血流。


「違和感が残る可能性があります」


「感覚異常や、運動のズレが出るかもしれません」


黒瀬は、淡々と聞いていた。


「日常生活に支障は」


「現時点では、ありません」


それで十分だった。


医師が出て行き、病室に静寂が戻る。


黒瀬は、右手をゆっくりと動かす。


指を開く。

閉じる。


問題ない。

少なくとも、そう見える。


だが――


(……遅い)


ほんの一瞬。

意識より、わずかに遅れて動く感覚。


気のせいだと判断するには、十分な程度。

だが、戦闘を生業にしてきた感覚は、それを見逃さない。


(疲労だ)


自分に言い聞かせる。


数週間、眠っていない。

出血量も多かった。


説明は、いくらでもつく。


それでも、右手を見下ろした瞬間、奇妙な感覚が走る。


引っ張られるような。

いや、引き寄せるような――


「……錯覚だ」


黒瀬は、視線を外した。


考えるべきことは、他にある。


事件の後始末。

警察との調整。

社内の混乱。


そして――


(麗華)


彼女は、今日退院だと聞いている。


黒瀬は、何も連絡しなかった。

今は、必要ない。


彼女には、日常に戻る時間が必要だ。


変異体としてではなく、

戦力としてでもなく、

一人の少女として。


窓の外で、救急車が通り過ぎる。


赤いランプが、一瞬だけ反射した。


黒瀬は、右手を握りしめた。


違和感は、確かにそこにあった。


だが、今は――

まだ、名前を与える段階ではない。


チャイムの音。

下駄箱のざわめき。

制服の擦れる音。


麗華は、校門をくぐった瞬間、少しだけ立ち止まった。


(……戻ってきた)


それは事実だ。

だが、感覚は追いついていない。


校内には、以前より警備員が増えている。

だが、生徒たちはもう慣れてしまったようで、特別騒ぐ様子もない。


「おはよう、麗華」


すれ違いざまに声をかけられる。


「おはよう」


返事は自然にできる。

それが、逆に怖かった。


(普通に見えてる)


誰も、屋上のことを知らない。

血の匂いも、切り裂かれる音も。


知っているのは、ほんの一部だけだ。


教室に入ると、視線が集まる。


「大葉、もう大丈夫なの?」


「重症って聞いたけど」


「入院してたんでしょ」


悪意はない。

ただの心配と好奇心。


「うん、もう平気」


そう答えると、皆ほっとした顔をする。


(……嘘じゃない)


身体は、本当に平気だった。


席に着いた直後、巴が振り返る。


「おかえり」


「ただいま」


「顔色、いいじゃん」


「そう?」


「うん。……でも」


巴は、少し声を落とす。


「目、疲れてない?」


麗華は、一瞬言葉に詰まる。


「……ちょっとだけ」


「そっか」


それ以上、巴は踏み込まない。


午前の授業。


黒板の文字は読める。

教師の声も聞こえる。


だが、頭の奥に薄い膜が張ったようで、集中が続かない。


ペンを動かしながら、ふと右手を見る。


(黒瀬さんの……)


あの光景が、唐突に浮かぶ。


切断された腕。

血。

それでも立ち続けた背中。


「……っ」


ペン先が止まる。


深呼吸して、意識を戻す。


(今は、学校)


そう言い聞かせる。


昼休み。


巴と並んで弁当を食べる。


中庭には、笑い声が溢れている。


「ねえ」


巴が言う。


「無理してない?」


「してない」


即答だった。


「……本当に?」


「うん」


嘘ではない。

ただ、全部を言っていないだけだ。


「それよりさ」


巴は、話題を変える。


「バイト、どう?」


「……まあまあ」


「ファルコン・ダイナミクスでしょ?」


「うん」


「すごすぎ」


巴は、心底感心している。


「入れるだけでも尊敬するわ」


「たまたま」


「それでもだよ」


(……ごめん)


胸の奥で、謝る。


これは、守るための嘘だ。


午後の授業も、何事もなく終わった。


警報も鳴らない。

不審者も現れない。


平和すぎるほど、平和だった。



放課後。


校門に向かう途中、麗華は足を止める。


視線の先。


一台の車が、静かに停まっていた。


深い赤色。

低く、滑らかなボディライン。


見間違えるはずがない。


「……」


運転席のドアが開く。


黒瀬悠希が、ゆっくりと降りてくる。


スーツ姿。

だが、どこか疲れた空気。


「麗華」


名を呼ばれ、心臓が跳ねる。


「え……?」


隣で歩いていた巴が、即座に反応する。


「……誰?」


「えっと……」


「迎え?」


「迎えだね、それ」


巴は、にやりと笑う。


「なにそれ、映画?」


「違う!」


「絶対違わないやつ!」


黒瀬は、困ったように視線を逸らす。


「少し時間をもらう」


「どうぞどうぞ」


巴は肩をすくめる。


「麗華、あとで全部聞くから」


「巴……!」


慌てる麗華を残して、巴は去っていった。


校門の外。


二人きりになる。


「……放課後に来るとは思いませんでした」


「邪魔だったか」


「いえ、そういう意味じゃ」


言葉に詰まる。


「体調は」


「問題ありません」


「そうか」


短いやり取り。


それが、心地いい。


「行こう」


「どこへ……?」


「会ってほしい人がいる」


黒瀬は、それ以上説明しなかった。


車に乗り込む。


エンジンが、静かに唸る。


窓の外で、学校の日常が遠ざかっていく。


麗華は、シートに背中を預けながら思った。


(……何も起きない一日だった)


それなのに、

なぜか胸の奥が、少しだけ軽くなっている。


エンジン音は低く、抑えられている。

外の音は、ガラス一枚隔てて遠くなる。


赤いボディの車は、放課後の道路を滑るように走っていた。

急ぐでもなく、遅すぎることもない。


黒瀬は、前だけを見ている。


ハンドルを握る右手は、確かにそこにある。

だが、麗華の視線は、どうしてもそこへ行ってしまう。


(……ちゃんと、動いてる)


それを確認して、胸の奥が少しだけ緩む。


「……学校は」


黒瀬が、ぽつりと切り出す。


「問題ありませんでした」


「そうか」


それきり、会話は途切れる。


沈黙が、気まずくない。

むしろ、安心する。


(この人は、無理に聞かない)


あの事件のことも。

怖かったかどうかも。


全部、分かっていて、触れない。


窓の外では、街並みが徐々に変わっていく。

ビルが減り、住宅が増え、やがて緑が多くなる。


「……遠いですね」


「少しな」


黒瀬は、それだけ答える。


麗華は、シートに身を預けながら、思考が自然と内側へ沈んでいく。


――自分は、どこにいるんだろう。


友だちがいる。

両親がいる。

学校にも戻れた。


それなのに。


(……私だけ、違う場所にいるみたい)


変異体として生まれたこと。

光を操れること。


それ自体が、ずっと心の奥に影を落としている。


出会ってきた変異体は、例外なく「事件」の中にいた。

恐れられ、追われ、戦う存在。


(私も、そうなるのかな)


その考えが、ふと浮かぶ。


「麗華」


名前を呼ばれ、はっとする。


「……はい」


「怖いか」


唐突な問いだった。


だが、否定できなかった。


「……少し」


正直な答え。


黒瀬は、頷いた。


「それでいい」


それだけ言って、また前を向く。


「今日会う人はな」


少しだけ、間を置く。


「戦っていない」


「……?」


「逃げてもいない」


「……」


「普通に生きている」


その言葉が、胸に落ちる。


普通。


その言葉が、どれだけ遠かったか。


車は、住宅街の中へ入っていく。

新しいわけでも、古すぎるわけでもない街並み。


スーパー。

公園。

小学校。


「……ここ、ですか」


「そうだ」


車は、静かに停まった。


目の前にあるのは、二階建ての一軒家。


白い外壁。

小さな庭。

玄関先には、子どもの自転車。


洗濯物が、風に揺れている。


(……普通の家)


拍子抜けするほど、普通だった。


「……警察の監視対象だ」


黒瀬が、淡々と言う。


「ただし、危険だからじゃない」


「……?」


「能力の性質上、確認が必要なだけだ」


玄関のインターホンを押す。


しばらくして、ドアが開いた。


「はい?」


出てきたのは、三十代半ばの男性。


柔らかな表情。

部屋着姿。

眼鏡をかけている。


「あ、黒瀬さん」


「お久しぶりです、豊さん」


豊――

その名を聞いた瞬間、麗華の胸が小さく鳴る。


「そちらは?」


「大葉麗華さん、彼女も変異体です」


黒瀬が、短く紹介する。


「……初めまして」


麗華は、深く頭を下げた。


「初めまして」


豊は、にこやかに笑う。


「立ち話もなんですから、どうぞ、中へ」


その声は、驚くほど穏やかだった。



玄関を上がると、生活の匂いがした。


木の床。

洗剤の香り。

どこか甘い、子どものお菓子の匂い。


廊下の壁には、写真が並んでいる。


テーマパークの入り口。

ジェットコースターの前。

キャラクターと並ぶ家族。


カレンダーには、予定が書き込まれていた。


《○日:運動会》

《○日:保護者会》

《○日:家族で外食》


(……全部、当たり前の予定)


リビングに通される。


ソファ。

ローテーブル。

床には、積み木。


テレビの横には、子どもの描いた絵。


「散らかっててすみません」


「いえ……」


麗華は、言葉を失っていた。


(……変異体)


その言葉と、目の前の光景が、うまく結びつかない。


「お茶、入れますね」


豊がキッチンへ向かう。


その背中を見ながら、麗華は思った。


(……こんな生き方も、あるんだ)


そして、その瞬間。


「おじちゃん、だれー?」


小さな声。


振り向くと、幼い子どもが立っていた。


無邪気な瞳。


「こんにちは」


黒瀬は明るい笑顔で語りかける


「こんにちは!」


子どもは、屈託なく笑う。


「ねえねえ!」


そのまま、麗華に近寄ってくる。


「……え?」


「おねえちゃん、ひかる?」


唐突な言葉。


「……どうして?」


「なんとなく!」


屈託のない答え。


豊が、苦笑する。


「……この子、時々わかるんです」


「僕のテレパシーの能力が、ちょっとだけ受け継がれてるのかな」


その言葉に、麗華の胸が、静かに震えた。


(……怖がってない)


(逃げてもいない)


ただ、そこにいる。


「……私も」


気づけば、声が出ていた。


「光を、使います」


「そうなんだ」


豊は、当たり前のように頷く。


「それで?」


それで?


否定も、評価もない。


「……それだけですか」


「それだけです」


穏やかな声。


「それ以外は、普通です」


その言葉が、胸の奥に染み込んでいく。


黒瀬は、黙ってそれを見ていた。


(……)


言葉で説明する必要はない。


見せるだけで、十分だった。


リビングの窓から、午後の光が差し込んでいた。


レースのカーテン越しの陽射しは柔らかく、床に淡い影を落としている。

テレビはついていない。

代わりに、どこかで洗濯機の回る音がしていた。


豊が、湯気の立つ湯飲みを三つ、ローテーブルに置く。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


麗華は、両手で受け取った。


湯飲みは、少し欠けている。

縁の一部が、わずかに歪んでいる。


(……落としたのかな)


そんな、どうでもいいことが気になる。


それが、ここが「生活の場」だという証拠だった。


「改めて」


豊が、ソファに腰を下ろす。


「今日は来てくれて、ありがとうございます」


「こちらこそ……お招きいただきありがとうございます......」


言葉が、どこかぎこちない。


「緊張してます?」


「……少し」


正直に答えると、豊は苦笑した。


「ですよね」


「僕も、最初はこういう場に慣れなくて」


「……?」


「“変異体同士の顔合わせ”とか」


「警察の人とか、研究者とか」


「みんな、僕の能力をどう扱うかばかり考えてた」


語り口は淡々としている。

だが、どこか距離を保っているようにも聞こえた。


「テレパシーって、すごいでしょう?」


豊は、ぽつりと聞く。


「……正直に言うと」


「はい」


「ですよね」


笑うが、照れではない。


「でも、実際はそんな便利じゃないんですよ」


「便利じゃ……ない?」


「感情が強いと、流れ込んでくる」


「でも、全部が全部聞こえるわけじゃない」


「ノイズみたいなものも多いです」


「今だって」


豊は、少し視線を外す。


「この家の中、結構うるさい」


「……え?」


すると、キッチンの奥から声。


「お父さーん、これどこー?」


「冷蔵庫の横!」


「はーい!」


豊は、肩をすくめる。


「こんな感じです」


麗華は、思わず小さく笑った。


「……思ってたのと、違います」


「よく言われます」


「もっと、超能力っぽいと思ってました?」


「……はい」


「僕もです」


即答だった。


「もっと役に立つと思ってた」


「もっと特別だと思ってた」


「でも」


豊は、湯飲みを持ち上げ、一口飲む。


「現実は、生活の中に埋もれていく」


「それが、案外悪くない」


その言葉が、胸に落ちる。


(埋もれていいんだ)


(特別じゃなくても)


「……怖くないんですか」


麗華は、聞いていた。


「能力があることで」


「家族が、狙われたり」


豊は、少しだけ黙った。


「……怖いですよ」


正直な声。


「でも」


「それは、能力がなくても同じです」


「子どもが生まれた日から、ずっと」


「守らなきゃって思ってる」


「変異体だから、じゃない」


「父親だから、です」


その言葉に、麗華の胸が、ぎゅっと締まる。


(……そうか)


(役割は、能力じゃ決まらない)


(生き方が、決める)


ソファの下から、また小さな影が飛び出す。


「ねえねえ!」


下の子が、麗華の膝に手をかける。


「ひかるの、でる?」


「……今は、出さないよ」


「えー」


「おうちだから」


「そっかー!」


納得する。


それだけでいい。


恐れも、疑いもない。


ただの、子ども。


「……この子たちには」


豊が言う。


「僕の能力、ちゃんと説明してません」


「分かるようになったら話します」


「でも、隠してるわけじゃない」


「“そういう体質”くらいで」


麗華は、思い出す。


自分が光を出したときの、大人たちの顔。


恐れ。

警戒。

管理。


(……ここには、ない)


「……私」


気づけば、口を開いていた。


「変異体として生まれたこと、ずっと」


「一人だと思ってました」


「誰にも、分かってもらえないって」


豊は、否定しない。


ただ、静かに聞く。


「でも」


麗華は、続ける。


「こうして、生きている人がいて」


「笑っていて」


「家族がいて」


「……それだけで」


言葉が、震える。


「……救われます」


豊は、少し驚いた顔をしてから、微笑んだ。


「それなら、よかった」


「今日の目的、果たせましたね」


その瞬間、麗華は視線を横に向ける。


黒瀬は、ソファに深く腰掛け、黙っていた。


だが、その表情は、わずかに緩んでいる。


(……この人は)


(最初から、これを見せたかったんだ)


戦う姿じゃない。

傷つく姿でもない。


生きている姿。


「麗華」


黒瀬が、静かに言う。


「君は、もう一人じゃない」


それは、慰めでも命令でもない。


ただの、事実だった。


窓の外で、子どもたちの笑い声が響く。


同じ空の下で、

それぞれが、それぞれの形で生きている。


光は、撃つためだけのものじゃない。


この時間が、何よりそれを証明していた。


帰る場所を知った日

玄関で靴を履くとき、麗華はもう一度だけ、リビングの方を振り返った。


ソファの上には、さっきまで下の子が積み木を広げていた跡。

ローテーブルの端には、飲みかけの湯飲み。

壁の家族写真は、少し傾いている。


完璧じゃない。

でも、確かに“続いている”生活。


「また来てください」


豊が、玄関先で言った。


「今度は、もっと気楽に」


「……はい」


自然に、返事ができた。


それが、自分でも少し不思議だった。


ドアが閉まり、外の空気に触れる。

夕方の風は、昼よりも冷たく、頬を撫でた。


赤い車のエンジン音が、静かな住宅街に溶ける。


車内は、しばらく無言だった。


ラジオも、音楽もない。

ただ、走行音だけが続く。


麗華は、窓の外を見ていた。


流れていく街灯。

下校途中の学生。

犬を散歩させる人。


(……全部、普通だ)


それが、少し前まで手の届かない世界だった気がする。


「……黒瀬さん」


「ん?」


ハンドルを握ったまま、短く返事。


「今日のこと」


「はい」


「……ありがとうございます」


間があった。

言葉を探している間。


「私」


「ずっと、“変異体”って言葉に縛られてました」


「特別で」


「危険で」


「孤独で」


「……そうあるべきだって」


黒瀬は、何も言わない。

遮らない。


「でも、今日」


「豊さんを見て」


「家族を見て」


「……ああ」


小さく息を吸う。


「生き方は、能力じゃ決まらないんだって」


「やっと、分かりました」


黒瀬は、前を見たまま、ゆっくりと頷いた。


「それが、君に一番伝えたかったことだ」


信号で、車が止まる。


赤。


フロントガラス越しに、夕焼けが広がっていた。


「……怖さが、消えたわけじゃありません」


麗華は、正直に言う。


「また、同じことが起きるかもしれない」


「誰かを傷つけるかもしれない」


「それでも」


「……一人じゃないって思えるだけで」


「少し、前に進めます」


黒瀬は、ほんの一瞬、視線を下げる。


その右手が、ハンドルの上でわずかに強張った。


(……?)


一瞬の違和感。


だが、麗華は何も言わない。


信号が変わり、車は再び走り出す。


「麗華」


「はい」


「君が今日見たものは」


「“例外”じゃない」


「選び続ければ、誰でも辿り着ける場所だ」


「……私も、ですか」


「ああ」


即答だった。


「君も」


その言葉に、胸の奥が温かくなる。


病室で感じていた、あの冷たい孤独。

誰にも触れられないと思っていた場所。


そこに、確かに、光が届いた。


家の前で、車が止まる。


「送ってくれて、ありがとうございました」


ドアを開ける前に、麗華は振り返る。


「黒瀬さん」


「ん?」


「……また、ああいう場所に」


「行ってもいいですか」


黒瀬は、少しだけ笑った。


「いくらでも」


「君が望むなら」


ドアが閉まる。


赤い車は、静かに走り去った。


玄関の前で、麗華は一度、空を見上げる。


もう、暗くなり始めている。


それでも、怖くない。


自分が、どこへ帰れるのか。

どんな未来を選べるのか。


今日、それを知ったから。


――光は、

戦うためだけのものじゃない。


生きるために、そこにある。

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