昼の顔、夜の翼
第一話 昼の顔、夜の翼
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昼の顔
《ファルコン・ダイナミクス》は、O県N市に本社を構える総合企業だ。
生理学、人体工学、神経制御技術を基盤に、医療支援機器、災害救助装備、治安維持用テクノロジーまでを開発している。
理念は一貫している。
――人を壊すためではなく、人を守るための技術を。
治安最悪と噂されるこの街で、同社は表からは見えない部分を静かに支えてきた。
会議室には、低く整った空気が満ちていた。
壁一面のモニターには設計図と数値が映し出され、役員たちの視線が集まっている。
「――以上が、次期外骨格の改修案です」
説明が終わると、全員の目がテーブル中央へ向いた。
そこに座っているのが、黒瀬悠希だった。
「耐久性は?」
「現行比で十五パーセント向上しています。ただ、重量が三パーセントほど――」
「許容範囲だ。現場の負担を優先してくれ」
即答だった。
「コスト面は?」
「量産体制に入れば抑えられます」
「なら進めよう。ただし、開発部に無理はさせるな。夜勤が増えるなら、その分の休みは必ず確保してほしい」
一瞬、会議室が静まる。
若い。
親の七光り。
そう評されがちな男の判断としては、あまりに現実的だった。
「異論は?」
誰も口を開かない。
「決まりだな」
それだけで会議は終わった。
会議室を出た悠希は、わずかに息を吐いた。
父が座っていた席。
今は、自分がそこにいる。
昼休みにはまだ少し早い時間だったが、空腹を覚える。
そのまま執務室へ戻らず、社内食堂へ向かった。
昼時を外した食堂は、ほどよく静かだった。
トレイを手に日替わり定食を受け取った瞬間、背後から声がかかる。
「相変わらず庶民的ですね、社長」
振り返ると、研究開発部の紫苑が腕を組んで立っていた。
大学時代、同じサークルに所属していた先輩だ。
「社員食堂に庶民的も何もない」
「若手社長は外で優雅にランチ、ってイメージだったので」
「幻想を勝手に抱かないでくれ」
「で、今日は何を守るための節約ですか?」
「研究開発費」
「……それ言われると反論できませんね」
周囲の視線に気づいた紫苑は、軽く咳払いをする。
「失礼しました、社長」
わざとらしく頭を下げ、去っていった。
悠希は空いている席に腰を下ろす。
「社長って、毎日ここですよね」
「早いし、安いし、落ち着く」
「外骨格、現場の評判いいです」
「それはよかった。無理だけはするな」
短いやり取り。
だが、社員の表情は和らいでいく。
――父も、こうしていた。
ふと、そんな記憶が胸をよぎった。
午後六時を過ぎると、社内はゆっくりと静まり返っていく。
端末の通知音は消え、廊下を行き交う足音もまばらになる。
執務室で最低限の確認を終え、悠希はエレベーターへ向かった。
「お疲れさまです、社長」
紫苑が並んで立つ。
扉が閉まり、二人きりになる。
「悠希くん」
「なんですか?」
「顔。昼より硬い。また、昔みたいに無茶してるでしょ。」
下降音だけが響く。
「昔ほどじゃない」
「そっ……」
エレベーターが止まり、扉が開いた。
紫苑は一歩外に出てから振り返り、拳を差し出す。
「気をつけてね、悠希くん」
一瞬だけ間を置き、悠希も拳を作る。
コツン、と短い音。
「……先輩も」
「うん。社長さん」
軽く笑って、彼女は去っていった。
悠希は執務室へ戻り、照明を落とす。
壁にかけられた写真。
父と、その隣に立つ男。
ノック音が静かに響いた。
「社長、本日の予定は以上です」
白髪混じりの秘書――烏丸司郎が立っている。
「ありがとう、烏丸。あとは、いつもの通りで」
「承知しました」
執務室奥へ向かおうとした悠希の背に、烏丸の声がかかる。
「先ほど、研究開発部の紫苑さんとご一緒でしたか」
「エレベーターでな。大学の先輩だ」
「存じております。以前からのご縁でしたね」
「心配はいらない。公私は分けてる」
「ええ。承知しております。ただ……」
烏丸は一拍置き、わずかに声を和らげた。
「社長が人前で気を許される方は、そう多くありませんので」
「変わらないだけだ。昔から」
「それが、何よりかと」
それ以上は踏み込まない。
悠希は歩き出す。
執務室奥、倉庫に偽装された扉へ。
昼の顔は、ここまでだ。
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夜の顔
夜のN市では、
黒い怪鳥が飛ぶ。
ファルコンと呼ばれる存在として。
闇に溶けるその姿は、人の形をしていながら、明らかに異質だった。
鷲を思わせる形状のマスクが顔の上半分を覆い、視線の向きすら読み取れない。
背にはマント。夜風を受け、羽のように広がり、音もなく揺れる。
全身を包むのは、ファルコン・ダイナミクスが極秘で開発した強化外骨格。
人体の動きを阻害せず、筋力と反応速度を大幅に引き上げるそれは、
銃弾程度ではびくともしない耐久性を備えていた。
左腕には、異様な機構が仕込まれている。
圧縮された弾体を装填し、至近距離で解放する――
打撃と貫通を両立した、パイルバンカー。
救うための装備。
そして、止めるための装備。
湾岸倉庫街。
潮の匂いと、錆びた鉄の気配が濃く漂う。
ファルコンは屋根伝いに移動し、指定された倉庫の縁に降り立った。
シャッターは半開き。
内側から漏れる灯りと、人の気配。
そして――甘く焦げた、鼻につく匂い。
麻薬特有の臭気だ。
静かに内部へ滑り込む。
中は、思っていたよりも広かった。
簡易テーブルがいくつも並び、段ボールが壁際に積み上げられている。
そして――
二十人ほどの若者たち。
年齢は十代後半から二十代前半。
痩せた体、落ち着かない視線、揃っていない服装。
ある者は袋詰めをし、
ある者はスマートフォンで指示を受け、
ある者は床に座り込み、虚ろな目で天井を見つめていた。
私語はほとんどない。
あるのは、
ビニールの擦れる音と、浅い呼吸音だけ。
「……遅ぇな」
奥から、雇われの男が姿を現した。
「何してる、手ぇ止めるな。
今日中に捌けなきゃ、次はねぇぞ」
若者の一人が、びくりと肩を跳ねる。
「おい、見ねぇ顔だな」
男がファルコンに気づいた瞬間、空気が変わった。
「誰だ、お前」
答えを待たず、男が飛びかかってくる。
速い。
だが、焦りが前に出すぎている。
ファルコンは半歩だけ身を引き、
相手の勢いを利用して肘を叩き込んだ。
鈍い音。
男は床に倒れ、動かなくなる。
「な、何だよ……!」
若者たちの間に、ざわめきが走る。
そのとき、奥の扉が勢いよく開いた。
「チッ……!」
用心棒が三人、姿を現す。
屈強な体格。
慣れた動き。
だが彼らの視線は、まず若者たちに向けられた。
「動くな!」
怒鳴り声。
「逃げたらどうなるか、分かってるな。
名前も、住所も、全部把握してる」
二十人の足が、同時に止まる。
恐怖。
支配。
それだけで、彼らはここに縛りつけられていた。
ファルコンは、若者たちの前に立った。
「下がれ」
低く、だがはっきりとした声。
一人目が突進してくる。
拳を受け流し、懐に入り、肋骨へ掌底。
息が詰まる音。
二人目が背後から組みつく。
だが外骨格の駆動が、それを許さない。
肩を沈め、投げる。
床に叩きつけられ、呻き声。
三人目が距離を取り、銃を抜いた。
「化け物め……!」
引き金に指がかかる、その瞬間。
左腕が突き出される。
パイルバンカーが炸裂。
圧縮された衝撃が放たれ、男は壁に叩きつけられた。
静寂。
二十人の若者が、息を呑んで立ち尽くしている。
「……警察が来る」
ファルコンは言った。
「今なら、全員逃げられる」
視線が交錯する。
「ここにいたことは、記録に残らない。
脅しも、もう意味はない」
沈黙の後、
一人が、恐る恐る動き出す。
次に、もう一人。
やがて二十人全員が、
夜の外へと散っていった。
倉庫に残ったのは、
倒れた男たちと、静かな空気だけだった。
警察のサイレンが、遠くで鳴り始める。
ファルコンは屋根の縁に立ち、夜景を見下ろす。
組織の中枢の証拠は、ダミーだった。
悪は、なくならない。
それでも。
救われた二十の人生が、確かにあった。
名も知られず、
顔も覚えられず。
だが、救いは、そこにあった。
マントが風を受け、闇に溶ける。
黒い怪鳥は、再び夜空へ飛び立つ。
人を守るための技術を、
人を守るために使う存在として。




