序章:闇が目覚める夜
O県N市――
この国で最も治安の悪い都市だと、人々は囁く。
夜になると、ネオンは獣の眼のように街路を睨みつけ、欲望の匂いが湿った空気に溶け出す。ここには秩序も良心も、昼のうちに置き去りにされていた。人々がこの街を訪れる理由はただ一つ。日常では決して満たされない、底なしの快楽を求めて、である。
金と酒、甘い言葉と危険な約束。N市はそれらを惜しみなく差し出し、訪れた者の理性を一枚ずつ剥ぎ取っていく。誰もがわかっているはずだった。この街に足を踏み入れた瞬間から、引き返す道は消えているということを。
それでも人々は来る。
破滅が待っていると知りながらも、光に群がる虫のように。
そして夜明け前、路地の奥で何かを失った者たちが、静かに崩れ落ちる。名前も夢も未来も、N市の闇に吸い込まれていく。
――この都市は約束する。
快楽と引き換えに、必ず終わりを与えるのだ。
夜の街を、二人乗りのバイクが切り裂くように駆け抜けていく。エンジンは悲鳴を上げ、タイヤが濡れたアスファルトを噛みしめながら蛇行した。その走りは荒々しく、まるで背後に忍び寄る“何か”から必死に逃げ延びようとしているかのようだった。
ネオンの光が視界を流れ星のように引き裂き、ビルの影が追跡者の輪郭を誇張する。胸の奥で鼓動が暴れ、肺が焼けつくほど空気を求めた。
「――あれは、都市伝説じゃなかったのか!!」
背後の男が叫ぶ。声は風に引き裂かれながらも、恐怖の芯だけがはっきりと残っていた。
「いいから! 黙って運転に集中して!!」
前にしがみつく女が怒鳴り返す。ハンドルを握る指は白く、視線は前方だけを射抜いている。振り返れば、正気まで持っていかれそうだったからだ。
次の瞬間、背後で金属が擦れるような、不快な音がした。
二人は同時に悟る――まだ、終わっていない。
闇は、確実に距離を詰めていた。
突如バイクの目の前に黒い外套に包まれた男が現れる。
身長は180cm程のスラッとした男だ。
バイクは急停車と同時に倒れる。
倒れた反動で女が叫び、男は意識を失いかける。
次の瞬間、ブレーキが悲鳴を上げる。
急停車したバイクはバランスを失い、金属音を響かせて路上に叩きつけられた。火花が散り、夜気が裂ける。
「きゃああっ!」
倒れた反動で女が叫び声を上げる。衝撃が体を貫き、息が詰まった。
一方、男は頭を強く打ったのか、視界がぐらりと揺れ、世界が遠のいていく。ネオンの光が滲み、音が水の中に沈んでいくように鈍くなる。
――まずい。
そう思った瞬間、意識は闇の底へと引きずり込まれようとしていた。
黒い外套の男は、感情の起伏を一切含まない声で言った。
「おい、女。それを渡せ」
女はびくりと肩を震わせ、反射的に上着のポケットへ手を滑り込ませた。指先が触れた“それ”を、祈るように強く握りしめる。
「お願い……! これを運ばないと、私たちは殺されるの!」
声は震え、涙が滲む。
「知らなかったのよ……こんなに危険なものだなんて……!」
黒い男は一歩、また一歩と近づいてくる。その足取りは静かで、逃げ場を削り取るようだった。
「危険な物なら、なおさらこちらに渡せ」
諭すような口調だった。
「お前たちには荷が重すぎる代物だ」
そのとき、地面に倒れたままの男が、かすかに身じろぎした。途切れかけた意識の底から言葉を引きずり出すように、掠れた声を絞る。
「……渡すな……」
苦痛に顔を歪めながら、男は続ける。
「どっちにしろ、俺たちは務所にぶち込まれる……」
黒い男は視線を男に向け、否定も肯定もせず、淡々と語りかけた。
「お前らは近いうちに刑務所に入るだろう。だが、それだけだ」
低い声が夜に染み込んでいく。
「今のうちに"それ"をこちらに渡せば、罪は軽くなる。運搬に成功したとなれば、一生刑務所暮らしだ」
一瞬の間を置き、言葉はさらに重く落ちた。
「まだ若い。やり直せる」
黒い外套が風に揺れる。
「時間を無駄にするな」
ネオンの明滅の中、女の握りしめた拳だけが、小さく震えていた。
「駿くん……もう、やめよう。こんなこと」
女は涙をいっぱいに溜めた目で、地面に膝をついたまま男を見つめた。その声には恐怖よりも、長い後悔が滲んでいた。
駿は唇を噛みしめ、わずかな沈黙のあと、ゆっくりと頷いた。
それが、彼に残された最後の選択だった。
「……ありがとう」
黒い外套の男は短くそう言うと、女の手から“それ”を受け取った。触れた瞬間、まるで闇そのものが形を持ったかのように、周囲の空気が冷える。
遠くでサイレンが鳴り始める。
パトカーの音は次第に近づき、やがて赤色灯が夜を切り裂いた。警察官たちが三人を取り囲み、状況を把握するよりも早く、男女はそれぞれ腕を取られ、無言のままパトカーへと連れて行かれる。
二人は振り返らなかった。
振り返る資格が、自分たちにはないと知っていたからだ。
一方、黒い男はその場に残り、刑事と思しき男とほんのわずか言葉を交わした。形式的な確認、短い合図――それだけで十分だった。
黒い男は受け取った“それ”を差し出し、刑事は無言で頷く。
取引は、それで終わった。
そして黒い外套の男は迎えの車へと歩み寄る。
夜の闇よりもなお黒く、光を拒むかのような、雄々しい漆黒の車。
ドアが閉まると同時に、エンジンが低く唸った。
その車は何事もなかったかのように走り去り、N市の闇の奥へと溶けていった。
――まるで最初から、存在しなかったかのように。
ここはO県N市。
この国で最も治安の悪い都市だと、人々は囁く。
夜になると、黒い怪鳥が空を巡り、この街のすべてを見下ろす。
狙うのは、闇に染まりきった魂だけ。
そして今夜もまた、羽音が響く。
――漆黒の魂を仕留める、その時まで。




