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お望みの物語は何ですか

作者: 瑪栗 由記
掲載日:2026/01/13

 木漏れ日が降り注ぐカフェのテラス席で、ユスティーナは先程運ばれてきたお茶を一口飲んだ。

 お茶の中には、小さく刻んだ旬の果物が入っている。味や香りだけでなく見た目も楽しめるため、ユスティーナがこの店に訪れた際は、必ず注文しているものだ。


(あれ?)


 いつも感じる甘酸っぱい香りと味が、今日は何だか分かりにくい。


 最近色々あったせいで、自覚している以上に疲れているのかもしれない。ユスティーナは自分の体調に無頓着であったことに反省しつつも、そんな繊細さがまだ自分の中に残されていたことに驚く。


 小さな溜息をつくと、ユスティーナはテーブルの上に置いた魔道具を起動させた。


 結界内の人の声を外に漏らさないこの魔道具は、黙って長兄から拝借してきたものだ。

 ユスティーナの語った苦い経験を、「馬鹿馬鹿しい」と鼻で笑った兄への意趣返しのつもりだ。とはいえ、必要な時には父親が所持する魔道具を借りればいいだけなので、残念ながらあまり意味はない。


 分かっていながら、こんな無意味な抗議をするぐらい、今のユスティーナはやさぐれていた。


 いつも若い女性達で賑わっている店内は、何かあったのかと心配になるほど客が少ない。二階のテラス席に至っては、ユスティーナとエミリアの二人きりだ。

 ただの偶然とは思うが、お陰で周囲を気にせず話ができる。


「疲れてるみたいだけど、大丈夫?」


 目の前に座るエミリアが、声をかけてきた。

 小首をかしげ、眉尻を下げて心配そうにこちらを見つめる様子は、小動物のような可愛らしさがある。


「大丈夫よ」

「そう?」


 微笑みを浮かべ静かにお茶を飲むエミリアを見て、ユスティーナは自分の肩からほんの少し力が抜けるのが分かった。


 優しく穏やかな性格そのままの可愛らしいエミリアと、母親譲りの派手な外見に、好奇心旺盛といえば聞こえは良いが、長兄に言わせると落ち着きがないだけのユスティーナ。

 見た目も性格も全く違う二人だが、不思議と幼い頃から馬が合った。それは大人となった今でも同じで、ユスティーナにとってエミリアは何でも話せる一番の親友だといえる。


「それで、一体何があったの?」


 全てお見通しとばかりのエミリアの言葉に、ユスティーナは苦笑した。ここ最近、愚痴を聞いてもらう機会が多いせいかもしれないが、話を切り出しやすくしてくれる心遣いがありがたい。

 心の中でエミリアに感謝しつつ、ユスティーナは口を開いた。


「あいつと別れたの」

「え? 『あいつ』って、まさかミエトさん?」

「そうよ」


 驚いた様子のエミリアを見ていられず、ユスティーナは視線を下げた。

 透明なカップの中には、自分の髪と同じ鮮やかな赤色が、木漏れ日を受けて輝いている。


 綺麗な髪だと褒められることは多いが、ユスティーナは自分の目立つ髪色があまり好きではない。だが、白いテーブルの上で静かに存在を主張する赤い液体は、ユスティーナの目を楽しませるだけでなく、ざらついた心を癒してくれている。

 この違いは、一体どこからくるのだろう。


「どういう事? 一体何があったの?」

「まあ、大した事ではないんだけどね」


 実害はなかったのだ。大した事ではない。


 ここ数日、そう自分に言い聞かせてきた。とはいえ、繊細とは言い難いユスティーナの精神力が短期間にゴリゴリと削り取られたのだから、無傷と言い切るには微妙な心持ちだ。


 恋人であった男の顔を思い出し、ユスティーナは力なく笑った。




 ミエトというのは、ユスティーナがつい最近まで交際していた男の名だ。


 半年前、王都でそこそこ大きい商会で働くミエトが、この街で商会長をしているユスティーナの父親に会いに来た際、たまたま顔を合わせる機会があったのだ。

 その後、この街にミエトが来る度に食事に誘われるようになり、正式に交際を申し込まれたのは、今から三ヶ月程前になる。


 仕事の関係であらゆる街に行くというミエトは、話題も豊富で話も上手かった。十歳以上年上だったため、同年代の男友達よりも落ち着きと余裕があって、一緒に居ても疲れなかった。


 交際しているといっても、交際中の男女は婚約しているのが当たり前という昔とは違い、結婚を前提にということではない。

 ミエトから結婚を匂わせるような発言が時折あったものの、ユスティーナにその気はなく、両親にも仲の良い友人の一人だと伝えていた。


 とはいえ、一緒に過ごす機会が増えるに従って、ユスティーナの中に『彼となら穏やかな結婚生活が送れるかも』という思いが、少しずつ芽生え始めていたのも事実だ。


 会えない時には手紙でやりとりをし、ユスティーナなりに関係を育んでいたつもりではある。だが、出会った当初から、彼に対して少しばかり引っ掛かりを感じる事があった。


 ミエトは人目を引くような整った容姿をしているのだが、常にそれを意識して自分にとって都合よく立ち回っているように見えた。特に女性に対して、その傾向が顕著だった気がする。


 別に悪い事をしているわけではない。それは十分に承知しているのだが、見ていると胸の中がモヤっとし、何かを跳ね除けたいような気分に駆られるのだ。


 ミエトは女性から親しげに声をかけられることも多かったので、最初は自分が嫉妬しているだと思っていた。できるだけ気にしないように努めていたものの、奇妙な感覚が薄れることはなく、何故か日を追うごとに強くなった。


 そして、その感覚こそが無視してはならない大事なものだと知る羽目になったのは、ちょうど今から二週間前のことだ。


「あいつね、他に女性がいたのよ」

「それって、彼が浮気していたってこと?」

「浮気というと、ちょっと微妙なんだけど……」

「どういう事?」

「その女性との間に、子供がいるらしいの」

「え?」

「しかもお相手の女性、一人じゃないのよ」

「は?」

「三つの街に、懇意にしている女性がそれぞれ一人ずついて、うち二人の女性に子供が一人ずついるらしいわ」

「……」


 普段は慎ましやかなエミリアが、子供のように目を丸くし口をポカンと開けるのを見て、ユスティーナは小さく吹き出した。

 吹き出した勢いで、身体から変な緊張感が消えていくのが分かる。祖母が見ていたら無作法だと怒られそうだが、今のユスティーナにとって、笑いは高価な薬よりも効き目があった。




 ミエトの事情を知ることになったきっかけは、この街の食堂での出来事だった。安くて美味しいと評判だが、ユスティーナ一人では入りにくい雰囲気の店だったので、ミエトにお願いして一緒に行くことになったのだ。


 騒がしいと思うぐらい繁盛している店の中で、評判通りの美味しい食事とお酒を堪能していると、一人の男性がミエトに話しかけてきた。以前仕事で関わった、隣街の職人らしい。挨拶を交わした後、二人は楽しげに互いの近況を話し始めた。


 街の人々が、仕事帰りに気軽に集うような食堂だ。食事中に他の客が話かけてくるのは、珍しい事ではない。知り合いがいたなら、尚更だ。


 二人が自分の存在を忘れて話に花を咲かせようと、ユスティーナは一向に構わなかった。楽しそうで何よりと思うだけだ。


 問題はそこではない。問題なのは、二人の会話の内容だ。


『奥さんと娘さんは、お元気ですか?』


 相手の男性はミエトに向かって、こう言ったのだ。


 すかさず勘違いだと訂正していたが、一瞬ミエトの顔色が変わったのを、ユスティーナは見逃さなかった。


「ティナ、それって本当なの? あ、誤解しないでね。あなたの話を疑ってるわけではないの。ただ事実だとしたら、酷すぎると思って……」


 こんな話を突然聞かされ、信じられないのは当たり前だ。ユスティーナ自身、事実を知った直後に「嘘でしょ!」と叫んだのだから。


 だが、自分の足と、多くはないツテを使って情報を集めた結果である。最終的にはミエト本人が白状したので、内容に間違はない。


「まあ、信じられないのも無理はないわよね。でも、残念ながら事実よ」


 調べた経緯と内容を簡単に説明し、ユスティーナは溜息をついた。


 事実を知った時、確かに驚きはした。だが同時に、不思議な安堵感があったのを、ユスティーナは今も鮮明に覚えている。こうしてエミリアに報告している事すら、「これで良かった」と思えるのだ。


「分かった」


 少しの間下を向いて沈黙していたエミリアが、勢いよく顔を上げた。

 髪色と同じ、少し下がり気味の焦げ茶色の眉の間には、不釣り合いな深い皺が刻まれている。


「彼、今どこにいるの?」

「多分王都に戻ったんじゃないかしら。でも、何故?」

「一発殴って来ようかと思って」

「うん、止めようか」

「分かった。去勢だけで済ませるわ」

「うん、それも止めとこうか」


 滅多に怒ることのないおっとりとしたエミリアだが、怒ると怖いというのは親しい者の中では周知の事実だ。

 冗談で言っていると思いたいが、本気で何かしでかしそうで恐ろしい。とはいえ、力を込めた自分の小さな握り拳を見つめている姿は可愛らしく、見ているだけなら癒される。


「私のために怒ってくれるのは嬉しいけど、もう終わったことだから」


 最後に話をした時も、ミエトは「愛してるのも結婚したいのも君だけだ」と言っていた。他の女性達とは籍を入れておらず、彼女達は今の状況に納得しているし、子供の養育費もちゃんと払っているから何の問題もない、そんな説明もされた。


 人それぞれ色んな価値観があるのは、人生経験の乏しい自分でも分かっている。彼らが互いに納得ずくの関係ならば、ユスティーナが口出しする事ではないのも知っている。

 ただし、その関係性の中に、自分が入るのだけは御免である。


 ユスティーナが彼らに言えるのは、自分とは全く関係ないところで幸せになってくれという事だけだ。


「……分かったわ」


 言葉とは裏腹な憮然とした表情で呟くエミリアを見ながら、ユスティーナは冷めてしまったカップのお茶をゆっくりと飲み干した。


 いつの間にか、お茶の味と香りが分かるようになっている。それ自体は嬉しい事だが、どうせなら一番美味しい時に復活してもらいたかった。


 仕方がないので、もう一杯違うお茶を注文すると、エミリアがお茶と一緒に多量の焼き菓子を注文していた。疲れた時には甘いものが一番とは言っているが、注文した数が二人分とは思えない。


 疲れているのは事実であり、たとえ食べきれなくても、残った分は持ち帰ればいいだけだ。今日ぐらい羽目を外しても、何の問題ないだろう。


 そう思ったのも束の間、目の前に運ばれて来た菓子の山を見つめ、ユスティーナは絶句した。


「ティナ、大丈夫?」

「た、たぶん……」


 菓子を食べ切れるか、ではない。それは分かっているが、想像の倍はある高さに、自分の顔が引き攣っているのが分かる。


 気を取り直してテーブルから視線をずらしたユスティーナは、エミリアの顔を見つめながら戯けたような笑みを浮かべた。


「大丈夫よ、心配かけてごめんね。だけど、私って何でこう男運が悪いのかしらねえ」

「ティナ……」


 冗談めかして言ってみたものの、事実であるだけに返答しにくいと気付いたのは、口に出した後だった。


「ごめん、気にしないでエミー! それより……」


 慌てて話題を変えようとしたが、エミリアの困ったような、それでいて少し悲しそうな表情をみて、ユスティーナは言葉に詰まってしまった。


 花の形をした焼き菓子を摘み上げると、ユスティーナは一口齧った。サクッという音と共に、程よい甘さと木の実の香ばしさが口の中に広がる。

 味が分かるようになり、美味しさと嬉しさを噛み締めているはずなのに、ユスティーナの口からは諦めたような吐息がもれた。




 ユスティーナには、忘れたくても忘れられない印象的な出来事が、あと三つ程ある。


 一つ目は、近所に住む同い年の男友達との事だ。


 友達といっても、特別親しかった訳ではない。幼い頃、他の友達と一緒に遊んだことがある、その程度の関係だ。成長するにつれて関わる機会は殆ど無く、たまに顔を合わせた時に挨拶するぐらいだった。


 その男が、ある日突然ユスティーナを理由にして、どこぞの人妻と駆け落ちしたのだ。人づてに聞いた話だと、将来を誓い合うほど仲の良かったユスティーナが最近全く構ってくれないと、お相手の人妻に相談していたのが親しくなるきっかけだったらしい。


 将来を誓い合うどころか、近所の知り合い程度の関係だ。構う構わないの問題ではない。


 息子の思い込みの激しさを知っていた彼の両親からは、巻き込んで申し訳ないと丁寧に謝罪されたが、男の見た目が良かったのが問題だった。男に対して一方的に好意を寄せていた女性達から、嫌がらせをされるようになったのだ。


 嫌がらせするなら、ユスティーナに対してではなく、お相手の人妻にだろうと何度思った事か……。大した嫌がらせではなかったものの、ほとぼりが冷めるまでは面倒な日々が続いたものだ。


 二つ目は、一昨年の出来事だ。


 ユスティーナの母方の叔母の夫の従兄弟の妻という、ユスティーナにとっては赤の他人でしかない女性が、突然強引に勧めてきた縁談があった。


 相手はどこにでも居そうな地味な外見なのだが、誰に対しても横柄な態度をとる男だった。

 三回ほど一緒に食事に行く羽目になったが、毎回支払いはユスティーナであった。それだけならまだしも、隙あればベタベタ触ってこようとする気持ちの悪い男でもあった。


 そんな男と結婚どころか、知人の一人としての関わり続けることも生理的に耐えられそうにない。そう思ったユスティーナは、全ての状況を詳細に記した報告書を徹夜で作成した。翌朝父親に提出したところ、いつの間にか縁談は立ち消えとなっていた。


 その後、相手の男は仕事が上手くいかなくなり、酒浸りになったあげく夜逃げしたらしい。噂なので、事実かどうかはユスティーナには分からないし、知りたいとも思わない。


 最後は、昨年の収穫祭での出来事だ。


 お偉方に招待された有名な吟遊詩人とやらが、公衆の面前で竪琴を掻き鳴らしながら、通りすがりのユスティーナに突如求婚してきたのだ。


 最初は祭の余興かと思っていたが、その後もしつこく付き纏われる事になった。街の警備団の詰所に逃げ込んだところ、男が手配中の詐欺師と分かった。装飾過多の派手な衣装を靡かせ、竪琴を抱えてユスティーナを追い掛けてきた男は、そのまま王都へと連行されて行った。


 犯罪者を捕まえるために一役買ったと思えばいいのだろうが、寒気がするような不快な褒め言葉が耳に残り、年に一度の楽しい祭が台無しになってしまった。しかも久しぶりに全力で走ったせいで、翌日足が痛くてまともに歩けなかった。


「色々あったかもしれないけど、どれもティナに問題があった訳じゃないでしょ」

「そうだと思うんだけど」


 自分に咎があるなら仕方ないと諦めもつくが、どれもが降って湧いたような出来事だった。後から色々考えてみたが、どうすれば良かったのか今でも全く分からない。


『彼女、呪われてるんじゃない?』


 影でそんな風に言われている事は知っている。ユスティーナに嫌がらせをしていた女性達も、最近は憐れむような視線を向けてくる。

 正直なところ、小さな嫌がらせより、生暖かい視線の方が鬱陶しい。


「ティナ、何があっても私はあなたの味方で、あなたが幸せになるって信じてるわ」

「ありがとう、エミー。私も同じ気持ちよ」


 嫌な事があったとしても、こうして親友と一緒に美味しいものを食べられるだけで、十分過ぎるほど幸せだ。


 ユスティーナはそう自分に言い聞かせると、次の菓子に手を伸ばした。




 ********




 菓子で膨れたお腹を抱えて帰宅したユスティーナは、玄関扉を開けて家の中に入った次の瞬間、大きな叫び声をあげた。


 ユスティーナの帰りを待ち構えていた長兄のヨアキムに、左耳を摘み上げられたのだ。


「嫁入り前の年頃の妹に何するのよ!」


 ヨアキムの手を振り払い、左耳を押さえながらユスティーナが叫ぶと、頭上の高い位置から「フン」という鼻息混じりの低い声が聞こえた。絶妙な力加減なので痛くはないが、この年になって子供の頃と同じお仕置きをされるとは思いもしなかった。


 両親は出掛けているし、こんな時にいつも仲裁に入ってくれた次兄のマティアスは、数年前から王都で薬草の研究をしている。怒るヨアキムを宥めてくれる人は、残念ながら誰もいない。


「さっさと返せ 」

「分かったわよ」


 ユスティーナは溜息をつくと、顔の前に差し出された大きな掌の上に、勝手に持ち出した魔道具を乗せた。


「そんなに怒らなくても、ちょっと借りただけじゃない」


 そのまま背を向けて歩き出そうとするヨアキムに向かってポツリと呟くと、呆れたような大きな溜息が聞こえてくる。


「これを仕事で使っているのは、お前も知っているはずだ」

「父様だって同じものを持ってるんだから、必要なら借りればいいだけでしょ?」

「そういう問題ではないと、お前が一番分かっているだろう」


 振り返ったヨアキムの顔見て、ユスティーナは再び溜息をついた。


 元々表情の乏しい父親似の端正な顔が、完全に無表情になっている。加えて、自分と同じ赤い睫毛に縁取られた灰色の瞳が、室内灯の明かりを反射して光っているように見える。

 威圧しているつもりは無いのだろうが、血の繋がった妹から見てもかなり怖い。


「私が悪かったわ。御免なさい。これからは、必ず兄様に一声かけるわ」

「分かればいい」


 踵を返して立ち去るかと思いきや、ヨアキムは無表情なまま低い声で呟いた。


「昨日、お前の話をちゃんと聞かなかった俺も悪かった。それについては謝る」

「うん」

「その件とは直接関係はないが、明日親父からお前に話があるそうだ。朝食後に、親父の執務室に行くように」

「分かったわ」

「どうせエミリアと一緒になって山程食べてきたんだろ。風呂にでも入ってさっさと寝ろ」


 言葉は少なく無愛想だが、ヨアキムから自分に対する気遣いのようなものを感じ、ユスティーナの顔に自然と笑みが浮かんだ。


「分かった。おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」


 静かに歩き去るヨアキムの後ろ姿を見送った後、ユスティーナも自分の部屋に向かった。




 寝る支度を終えてベッドに潜り込んだユスティーナは、 明かりの消えた真っ暗な部屋の天井をじっと見つめた。


(何でこんな事ばかり起きるんだろう)


 いくら考えたところで答えが出ない事は、十分過ぎるほど分かっている。だが、こうして一人になると、様々な思いが頭の中をぐるぐると回ってしまうのだ。


『運が悪かった』


 親しい人達は皆、口を揃えてそう言ってくれるが、本当にそうなのだろうか?

 そもそも「運」というものが何か、ユスティーナは明言することができない。


 理由が分かりさえすれば、どんなに下らない事であっても納得できる気がする。自分に落ち度があったなら、改善するよう努力もする。


 だが「運」が相手の場合、どうすればいいのだろう。街にある神殿に毎日通ったり、中央大神殿があるという聖都まで行けばいいのだろうか。


(やっぱり疲れてるのね……)


 最近眠りが浅く、寝ているのに疲れが取れた気がしない。顔色の悪さは化粧で誤魔化せると思っていたが、おそらくエミリアにはお見通しだったに違いない。


「今日はぐっすり眠れるといいな」


 ユスティーナは祈るような気持ちで呟くと、そのままゆっくりと目を閉じた。




『ごめんなさい』


 初めて聞く声に、ユスティーナは目を瞬かせた。

 不思議な響きがある独特の声は、離れた所に立つ二人組から聞こえてきたようだ。朧げな姿だが、彼らが男性と女性であることだけは分かる。


 自然豊かな場所のようで、周囲には様々な植物が生え、色とりどりの花々が咲き乱れている。見上げると、薄い緑色の優しい色合いの空が頭上に広がっている。


(夢?)


 記憶にある限り、今自分が夢を見ているか考えた事など一度もない。だが、目にしている光景が現実の世界でないことは、何となく分かった。周囲にある物だけでなく、自分自身の身体さえ少し曖昧な感じなのだ。


(まあいいか)


 夢か否か問題を棚上げしたユスティーナは、前方に立つ見知らぬ人達に向かって歩き始めた。


 近寄っていくと、話し声が更に鮮明になってくる。ユスティーナを気にすることなく、二人は真剣な様子で話を続けている。

 二人の身長は、ユスティーナよりだいぶ高い。すぐ傍に来たというのに、容姿で分かるのはその程度の事だった。


 現実ならば不審者だが、夢の中なら問題ないはずだと、ユスティーナは二人の丁度真ん中あたりで足を止め、話に耳を傾けた。


『あなたが私を愛してくれているのは分かっているし、私もあなたを愛しているわ』

『僕が問題ではないなら、出て行く理由は何だい? ここに不満があるの?』

『不満があると言えばあるし、無いと言えばないわ』

『どういう事? ここは、こんなにも美しく豊かで平和なのに……』


 男性の言葉に、女性が大きな溜息をついた。


『ここが素晴らしい場所だというのは、十分過ぎる程分かってるわ。理由はそれよ』


 男性は腕組をすると、困った様子で首を傾げた。


『ごめん。僕にも分かるように教えてくれるかな』


 愛し愛される相手がいて、豊かに平和に暮らしているのなら、何の問題もないはずだ。それが悩みというなら、贅沢過ぎる悩みと言える。


 そう考えた瞬間、ユスティーナの胸の奥に、一瞬ツキンという微かな痛みが走った。


『私ね、色んな経験をしてみたいの。小説の主人公みたいに、ドキドキしたりワクワクしたり、時には恐ろしい目に遭ってハラハラしたり……。そんな感覚を味わってみたいのよ』

『それは物語だから楽しいという事ではないのかい? 実際に自分の身に降り掛かったら、大変な苦労かもしれないよ』

『そうかもしれない。でも苦労かどうかも、経験してみないと何も分からないでしょ?』


 溌剌とした女性の声が響き渡ると同時に、周囲の景色が更に色鮮やかになった。初めて目にする、煌めくような美しさだった。


 一方、男性はしばらく無言のまま立っている。そして再び口を開くと、寂し気な声でポツリと呟いた。


『分かった……』

『え、本当?』

『ああ。寂しいけれど、君の思いを尊重しよう。僕は君に幸せでいてほしいだけで、君を縛り付けたいわけじゃないからね』

『ありがとう。あなたなら、きっと分かってくれると思ってたわ!』


 驚きと喜びに満ちた女性の声とは異なり、男性の声は凪いだ海のように静かだった。


『いつになるか分からないけど、また会う事ができた時には、君の体験した事を色々聞かせてくれるかい?』

『勿論よ! 約束するわ』

『楽しみにしてるよ。離れても僕はいつも君の幸せを祈ってるから』

『ありがとう。私もあなたの幸せを祈ってるわ。ここで過ごした記憶が無くなったとしても』

『大丈夫だよ。必要な時に……』


 次の瞬間、ユスティーナは弾かれたように目を開けた。視界に入るのは、見慣れた自室の天井だ。既に朝日は昇り、部屋の中は薄っすらと明るくなっている。


「何、今の夢……」


 ベッドから起き上がると、ユスティーナは窓辺に近付き、カーテンを開けた。黄赤色に染まる空を眺め、早朝特有の肌寒さに、ブルッと身を震わせる。


(変な夢)


 いつもであればすぐに忘れてしまうのに、先ほどの夢の光景はユスティーナの頭の中から薄れていく気配がない。


(誰だったんだろう)


 登場した二人の声に、聞き覚えはなかった。姿は靄がかかったように朧げであり、いくら考えても思い当たるような人物はいない。


 ただ何となく、男性の纏う雰囲気が次兄のマティアスに似ている気がした。




 ********




 朝食後、父親の執務室を訪れたユスティーナは、開いた部屋の扉をそのまま閉めて、自分の部屋に引き返したくなる気持ちを必死に抑え込んだ。


 部屋の中にいたのは、父親のアルベルトと、ヨアキムの二人だ。次期商会長でもあるヨアキムがアルベルトと一緒にいるのは、日常的に良く見る光景ではある。

 だが、二人揃って自分に用事があるなら、少々事態は変わってくる。おそらく話というのは、自分にとって重大な事なのだろう。


(まさか、お見合いとかじゃないわよね)


 一昨年、ユスティーナは神殿で執り行われる成人の儀に参加した。世間的には、結婚適齢期の真っ只中だ。無理矢理嫁がされる事はないと思いたいが、いつ縁談が持ち込まれてもおかしくない立場であるのは分かっている。

 とはいえ、数年前の見合い相手や、今回のミエトとの事を考えると、しばらくは避けたい話題である。


 執務机の向こう側で穏やかな笑みを浮かべる父親と、その後ろに立つ無表情の兄の顔を見ながら、ユスティーナは顔を引き攣らせた。


「お前を呼んだのは、そろそろ真剣に、今後について話し合わないといけないと思ってね」

「今後の事というのは、私の今後という事ですか?」

「勿論そうだよ」


 ユスティーナは心の中で、大きな溜息をついた。


 ユスティーナは、父が商会長であるラトヴァラ商会の手伝いをしている。あくまでも「手伝い」であって、正式に従業員として働いているわけではない。

 王都へ働きに出る事を考えたこともあったが、母親であるカトリーナに止められてしまった。


 両親のお陰で何不自由なく暮らせてはいるが、結婚の予定もなければ仕事も中途半端な状況だ。


 今の状況が、自分にとって最善だと思ったことはない。だが、優秀な二人の兄に比べて、ユスティーナはいたって平凡だ。

 加えて自分の置かれた立場を考えると、好き勝手な行動をして、家族や商会に迷惑をかけることは絶対にできない。


 以前、「何かやりたい事はないのか」と、アルベルトからそれとなく質問された事がある。だが、その時のユスティーナは何故か言葉に詰まってしまい、未だに答えは保留中だ。


 何を言われるのかと身構えるユスティーナに気付いたのか、アルベルトは困ったような笑みを浮かべ、小さな溜息をついた。


「先日、お前の事をどうするつもりなのかと、カトリーナに怒られたんだよ」

「えっ、母様が怒る?」


 凛とした華やかな容姿からは想像できない程のんびりとした性格のカトリーナは、家族の中で一番「怒る」という言葉から遠い存在だ。とはいえ、アルベルトとは異なる方法で商会を支え続けているのだ。カトリーナが甘いだけの存在ではないことは十分過ぎるほど分かっているが、怒っている姿が全く想像できない。


「まあ、正しくは『叱られた』だね。大事な娘を手元に置いて守ってやりたい気持ちは分かるが、もう小さな子供ではないとね」

「母様……」

「大事に仕舞い込んでるうちに、ネズミに齧られたり、カビが生えたりしたら、父親としてどう責任をとるつもりだと言われたよ」

「……」


 感動で滲みかけた涙が、完全に止まってしまった。カトリーナの表現が独特なのは、今に始まったことではない。だが、娘を保管庫にいれた穀物のように表現するのは、いかがなものかと思う。


「男である私が、女性の幸せが何であるか語ったところで、何の意味もない。私の勝手な価値観でしかないからね。

 父親としてお前に辛い人生は送ってほしくないし、変な苦労はさせたくないとは思う。だけど、私はお前を籠の中の鳥にしたいわけじゃないんだよ」

「はい」

「だから、改めてちゃんとお前に質問するよ。お前がやりたい事は何だい?」

「私のやりたい事……」


 ユスティーナは大きく息を吸い込むと、ギュッと目を閉じた。


 自分の事だというのに、答えが見えそうで見えない。早く答えなければと思えば思うほど、喉の奥に何かが引っ掛かり、何の言葉も出てこない。考えれば考える程、答えから遠ざかっていくような気もする。


 強く握り込んだ掌に、自分の爪が刺さっている。痛みは感じているのだが、力を緩める事ができなかった。


「ユスティーナ」


 ヨアキムの声に、ユスティーナはハッと顔を上げた。


「お前、何ヶ国語話せるんだ?」

「えっと、共通語を除くと四ヶ国語よ。でも、ちゃんと文章まで書けるのは、三ヶ国語」

「お前は何で、他の国の言葉を学ぼうと思ったんだ?」

「勉強するのが楽しかったし、得意だったからだけど……」

「そうじゃない」

「えっ?」


 ヨアキムの言葉に、ユスティーナは目を瞬かせた。


「それは学んだ感想と結果でしかない。俺が質問してるのは、お前が学ぼうと思ったきっかけだ」

「学ぼうとしたきっかけ……」


 突然ユスティーナの頭の中に、子供の頃の風景が浮かびあがってきた。


 仕事で家を開けていたアルベルトが帰ってきて、嬉しくて飛びつく自分。

 それを呆れたような表情で見ているヨアキムと、植物図鑑を抱えたまま笑って見ているマティアス。そんな家族を優しく見守るカトリーナ。


『父さま、どこの国に行ってきたの?』

『そうだね。今回はあちこち行ってきたから、後で地図を見ながら教えてあげよう』

『うん! あと、つぎはティナもいっしょに行っていい?』

『ティナはまだ小さいからね。もう少し大きくなったら一緒に行こうか』

『分かった、やくそくよ! あとね、ティナよその国の言葉をべんきょうしてるの』

『それは凄いね! ティナが父様の代わりに話してくれると、父様助かるよ』

『じゃあ、ティナがんばってべんきょうするね!』


 まだ祖父が商会長をしていた頃、アルベルトは仕事で他国に行くことも多かった。そんな父親の土産話を、幼いユスティーナは毎回楽しみにしていたのだ。


「あ……」


 ユスティーナの小さな呟きに、ヨアキムが呆れたような視線を向けた。


「思い出したみたいだな」

「……私、父様みたいに他の国に行ってみたかったんだわ」


 何故、いままで忘れていたのだろう。思い出した今となっては不思議でならない。誰かに何か言われたのか、勝手に無理だと諦めたのか、それすら分からない。


 ユスティーナに分かるのは、自分で自分の思いに蓋をし、見ないようにしていたという事実だけだ。


 アルベルトに目を向けると、昔と変わらぬ優しい笑みを浮かべて、じっとユスティーナを見つめていた。ユスティーナの子供の頃からの望みを、おそらく家族は覚えていてくれたのだろう。


「そうか。それなら、ヨアキムの下について従業員の一人として正式に働いてはどうかな?」

「兄様の下でですか?」

「ああ。ちゃんと仕事を覚えるには、ヨアキムと一緒にいるのが一番だからね。お前に対して他の者では言い難い事も、ヨアキムなら遠慮なく言えるしね」

「た、確かに……」


 耳を掴まれている自分の姿が、容易に想像できてしまうのが情けない。だが、甘えが許される場所ではないことは分かっている。


「兄様はそれでいいの? 私、足手まといになるかもしれないのよ」

「問題ない。俺の下で働かせてみてはと提案したのは、俺自身だからな」

「そうなの?」

「落ち着きに欠けるが、お前は馬鹿ではないし、向上心もある。おかしな問題に巻き込まれても、その都度お前なりに対応をしていたのも知っているからな。一応及第点だ」

「あ、ありがとう……」


 褒め言葉としては微妙なヨアキムの発言を聞きながら、ユスティーナは泣きそうな顔で微笑んだ。

 そんなユスティーナを、アルベルトは商会長ではなく、父親の顔で優しく見つめていた。


「お前が変な事に巻き込まれるのは、お前が自分の好奇心を無理やり抑え込んでるせいじゃないかと、そうカトリーナが言っていたよ」

「そんなつもりは……」

「まあ、そこの所は私もよく分からないけれど、私たちの望みは、お前がお前らしくいてくれる事だよ。まあ、危険な事はしないでほしいが、そこのところは、ヨアキムに任せておけば大丈夫だろう」

「昔からお前に説教できるのは、俺だけだしな」

「……はい」


 震える声で返事をするユスティーナを見て、ヨアキムの口元に微かな笑みが浮かんだ。


「では、最後にもう一度確認するよ。ユスティーナ、正式にラトヴァラ商会で働いてみるかい?」

「はい! よろしくお願いします」


 ユスティーナは深々と頭を下げた。




 ユスティーナが商会で働き始めて五日目の午後、エミリアがユスティーナを訪ねてきた。


「おば様から商会の方にいると聞いて来てみたんだけど、お邪魔だったかしら?」

「大丈夫よ。丁度休憩時間だったから」

「それなら良かった。ティナ、商会で本格的に働く事になったのね」

「そうなの。覚えなきゃいけない事だらけで、大変。邪魔だから髪を切ろうと思ったんだけど、『髪を切ったところで仕事は覚えられない』と兄様に言われたわ」


 時折耳も掴まれているが、己の名誉の為に秘密にしておく。


「そうなのね。でも安心したわ。ティナ、生き生きしてるもの」

「そう?」

「ええ」


 自分がどんな様子であるか、ユスティーナにはよく分からない。だが、数日前と比べて、状況も心持ちも全く違うのは確かだ。


「色々大変かもしれないけど、ティナなら大丈夫。応援してるわ」

「ありがとう、エミー」

「でも、ティナが仕事でよその国に行くようになったら、会う機会が減っちゃうわね」

「大丈夫」


 今与えられている仕事も覚えられていないユスティーナが、ヨアキムについて他国に行けるようになるのは、まだまだ先のことだろう。だが、夢で終わらせる必要はないのだと、今はそう考えられるようになった。

 これから先、苦労することも多いはずだ。だが、望みを叶えるために努力できる事が、ユスティーナは嬉しかった。


「そうなったら、必ず珍しいお土産持って会いに行くから、楽しみにしてて」

「分かった。その時はティナが体験した事、色々聞かせてね?」

「勿論よ! 泊まり込んで、一晩中でも話してあげる。あ、でもマティアス兄様に怒られちゃうかしら」

「大丈夫よ、多分ね」


 クスクスと楽しそうに笑っているエミリアの婚約者は、次兄のマティアスだ。挙式は、王都からマティアスが戻ってくる二年後になる。


 見目麗しく優秀なマティアスだが、幼い頃から薬草しか興味のない変わり者である。そんな彼が、家族以外に気遣う事ができる唯一女性というのが、このエミリアだった。


 二人のやりとりを傍で聞いていても、なぜ意思疎通が図れているのか全く分からないが、二人が幸せならそれでいい。大切な人達が幸せになってくれるのは、ユスティーナにとっても幸せなことなのだから。


「これ以上ここに居たら、仕事の邪魔になるわね。そろそろ帰るわ」

「分かった。わざわざ様子を見に来てくれてありがとう」

「ええ、じゃあまたね」

「またね」


 未来の義姉の後ろ姿を見送ると、ユスティーナは急いでヨアキムの下に戻った。


 朝、邪魔にならないように纏めた髪は、すでにほつれ始めている。身だしなみに煩い祖母が見たら、眉をひそめるに違いない。だが、今のユスティーナには、些細な事だ。


 艷やかな赤い髪に縁取らたユスティーナの端麗な顔には、晴れ晴れとした煌めくような美しい笑みが浮かんでいた。




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