第四十一話
「ごめんなさい」
深々と頭を下げたら、田村は目をパチクリとさせていた。
「どうして、謝るの?」
船崎は誠心誠意、軽率に否定してしまったことと、自分の考えを改めたことを説明し、謝罪した。
男女平等を目指さなくていい、現状維持でも世界は回る。この発言には、大きな誤りがあったと今では痛感している。
船崎のように、恵まれた人間ならば関係のない話で、恩恵ばかりを受けていた彼女は想像もできなかったのだ。
差別され、虐げられる側の人間の、苦痛を。
性別という避けられないカテゴライズの中に押し込められ、無理矢理に輪郭を削られ、成形されていく痛みを。すでに、女として形を保っていて支障のない船崎には、分かっていなかった。
「弱者の気持ちを……もっと考えるべきだった」
心から、反省していた。
「すごいなぁ、船崎さんは」
しかし、田村には届いていない。
「君は、自分が弱者じゃないって思ってるんだ?」
「え?」
「だって、そうでしょ?“弱者の気持ちなんか分かりませーん”って、裏を返せば自分が強者であると言ってるようなもんじゃない?」
「ち、ちが」
私は、そんなつもりじゃ。
開く余地も許さず、田村の言葉は続く。
「あくまでも、上から物を言ってるよね。同じ目線じゃない。隣に立って、目を合わせて寄り添うみたいな顔で、見下ろして高慢に同情を示してる。形だけの、ね。何様だよ」
足元に転がる悲惨さに手を差し伸べるフリで、自分が踏みつけている事実に気付かない。上に立っているのに、下に見ているのに、本人はまるでその自覚がない。
どう足掻いても、根本的には理解し合えないのだ。
喉が渇いている人間に、「可哀想」と声をかけながら浴びるように水を飲む。そして、傲慢にも「分けてあげよっか?私達は、平等だからね」と頭の上から水浸しにさせる。持たざる者が、さらに惨めになるとも知らず。
知った気になって、私はなんて善い行いをしたのだろうと満足する。
「そういう感じかぁ……」
あからさまな、落胆。幻滅。
当てが外れたと隠しもしない態度で、田村は背もたれに深く体を預け、だらしなく座る。
船崎の心音は、ズクンズクンと嫌な動きをしていた。呼吸が荒れそうになるのを、汗が噴き出すのを、大人としての理性や体裁を気にしたプライドで耐える。
激しく動揺しているところを見せて、これ以上失望されたくないのもあった。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいと、頭の中で罪悪感がのたうち回る。もはや、何に対して後ろめたいのかさえ定まらないのに、謝るのを止められない。
「そんな人だとは、思わなかったなぁ」
終わった。
絶望が、全身を蝕んだ瞬間。
「ま。それでも、私は好きだよ」
一筋の光が差し込んだ。
今度は前のめりになり、ガラスに顔を近付け微笑んだ田村は、慈しむ眼差しで船崎を見つめる。
「あなたは、私の唯一の理解者だから」
きっと隔たりがなければ、手を包み持っていたであろう、優しさ。
相手への理解を示すことで孤独を癒やすのは、田村だけじゃない。船崎も、だ。
「人を殺す前に……出会いたかったな」
まったく同じことが、脳内で再生されていた。
過ちを犯す前であれば、ふたりは手を取り合って笑い合っていたかもしれない。
ありもしない、記憶。
何かひとつでも違っていた世界線の自分達を妄想して、船崎の目にはじわじわと涙が溜まっていった。なぜ、もっと早くに出会えなかったんだろうと悔やんでも仕方のないことで、悔やんだ。
良き隣人、良き理解者となり得ていたかもしれない現実が、あった。
確かに、ふたりの心には存在していた。
「今からでも、遅くないよ」
透明の板に、手のひらをつける。
「友達に、なろう?」
殺人鬼相手に、何を言っているんだと。職員は、驚いて振り向いた。
肩越しに見えたのは、体温の触れ合う距離感で、決して体温を溶け合わせられないふたつの手が重なる光景だった。
止めるべきかと、悩む。
しかし、重大な問題行動があるわけではない。視線を机に戻し、淡々と記録に残す。
そこからふたりは、まるで年頃の女の子同士。友人関係のような、他愛もない会話を始めた。
「そういえば……雪乃さんは、女性が好きなんだよね?」
乙女ならではなのか、ただ気になっただけか。話題は、雪乃の恋愛傾向や趣味趣向に向かう。
かつて新宿二丁目にまで趣き、元カノがいるという事情まで知り尽くしていた船崎の口から出た、バレていないと思っていた自分の真実に青天の霹靂を食らい、たじろぐ。
「し、知ってたんだ」
「うん。……ごめんなさい。勝手に」
「いいよ。いずれ、世間にもバレると思ってたから」
船崎が記事することなく胸の内に留めているため、現在はまだ公表されていない。
「どうして、女が好きなの?」
不躾な質問をする。ノンケ女性ノンケ男性からはよくあることで、興味本位にしか過ぎないんだろうが、僅かばかり雪乃は顔をしかめた。
「特に理由はないよ。……あと、別に女だけが好きなわけじゃない」
「そうなの?」
「うん。老若男女問わず、人間はみんな好き」
これは思想が芽生える前のことからで、雪乃の性思考はある意味で男女平等であった。性差の違いさえ、楽しんで受け入れられる。
船崎からすれば不思議な話で、同性を好きになる感覚が分からず小首を傾げる。
どちらかと問われれば女の方が好きとしつつ、それはなぜなのかという船崎の素朴な疑問を解消させるため、雪乃は最適な答えを思案した。
「……母親が、欲しかった」
「母親?」
「あと、父親になりたかった」
ますます、こんがらがっていく。
「単に、ふわふわで触り心地がいいから好きっていうのも、あるんだけど」
船崎でも共感できそうな理由も挙げつつ、奥底に根付いている虚しさを吐露する。
雪乃には、“親”という概念が薄かった。ほぼ無いと言ってもいい。
それ故か、子供として愛される感覚。さらには、親として愛する感覚。どちらも、手に入れてみたくなったのだ。
母性はすでに、宿っている。赤子が好きで、愛でていると際限なく、愛慕の情が溢れてくる。母親としての愛は備わっているため、それ以外を補おうと試みた。
男性からは、無条件に愛された。世間は父親をATMだと思っていて、男性にとっての愛は金。貢がれることで父性による愛情をも手に入れたと思い込んだ。
立っているだけで口説かれる。だから早々に父親に愛される感覚は必要としなくなった。一度知れば、もういらない。
女性は、情緒。感情面や身の回りのお世話をしてくれる。子供はおっぱいを飲むからと、乳首を吸ってみたりもした。不思議な癒やしがあり、良かった。芯から満たされることはなかったが、幼子の気持ちはよく理解できた。
最後は、父親。
結婚した相手に子供を産ませることで、自分がお金を稼いで惜しみなく注ぐことで、父親としての愛情を獲得しようとした。
相手は女じゃなくてもよかった。ただ、生物学的に子供を埋めるのは女しかいない。だから女を選んだし、女と付き合った。幸い、自分が女に興奮できるタイプで助かったと、雪乃は笑う。
「まぁ……失敗しちゃったんだけどね」
フラレた過去に、今度は失笑する。
「人生、何もかも……うまくいかないなぁ」
男女平等だってそうだ。
あと一歩のところで、数字は止まった。今も、新たな通り魔殺人は起きていない。おそらく、雪乃の事件をきっかけに警備が強化されてしまったせいだろう。
世間的にも警戒が強まり、夜遅くに出歩く人は格段に減った。夜に外へ出る時は人を連れて行ったり、電話をするなど工夫する人も増えた。
とはいえ、数カ月経った今は薄れつつある。
「私は、何も成し遂げられないで死ぬんだ」
“死”。
友人の死が、船崎の心に重くのしかかった。
「せめて……男女平等の夢だけは、叶えたかったなぁ」
慰めの言葉が、見つからない。
自分の無力さを、ただ唇を噛み締めて悔いることしかできなかった。




