夢の中の未来
「語り得ることは明晰に語られねばならず、語り得ぬことについては、沈黙せねばならない。」
― 1921『論理哲学論考』ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
2087年。ノイア・ウィーンの中央広場では、2万人の市民が静寂の中で「対話」していた。
誰も声を発していない。手話も使わない。ただ静かに座り、時折微笑み、時折涙を流している。彼らの頭に装着された銀色のデバイス「ヘルム」が、光の速度で思考を交換していた。
これが「ログデス」―大規模言語システムによる完璧な思考共有の光景だった。
リアナ・トラクタトゥスは管制センターから、この美しい光景を見下ろしていた。開発者として、これほど誇らしい瞬間はない。
「美しいでしょう?」
振り返ると、同僚のトム・ハーバートが感嘆の表情で立っていた。
「10年前まで、あの広場では毎日のように言い争いが起きていた」リアナは微笑んだ。「政治的対立、宗教的偏見、人種差別。今では想像もできない」
ログデス・システムの仕組みは革命的だった。神経インプラントが脳波を直接読み取り、量子暗号化された信号として他者に送信する。受信者の脳は、その信号を自分の思考として再構成する。結果として、文字通り「他者の立場に立って考える」ことが可能になった。
「貧困率はゼロ、犯罪率も過去最低」トムは統計データを空中に投影した。「真の民主主義が実現した。政治家は嘘をつけない。有権者は候補者の本心を直接体験できる」
リアナは頷いた。彼女の人生をかけた研究が、人類の夢を実現したのだ。
広場の人々を見ていると、年齢による明確な違いが見て取れた。30歳以上の「旧世代」は、まだどこか戸惑いを隠せずにいる。一方、思考共有システムと共に育った若者たちは、まるで一つの有機体のように調和している。
特に印象的なのは、10歳未満の子どもたちだった。彼らの思考の流れは、大人とは明らかに異なっていた。より直感的で、より統合的で、まるで—
「超人のようね」
リアナは無意識につぶやいた。
「何?」
「いえ、何でもない」
しかし、心の奥底で小さな疑問が芽生えていた。あの子どもたちは、本当にまだ「人間」なのだろうか?
それは2095年8月15日、午後3時47分に起きた。
送電システムの一時的な停電。わずか0.3秒間、ログデス・ネットワークの負荷分散システムがダウンした。その結果、本来なら数千人に分散されるはずだった思考データが、一人の女性に集中した。
エレン・ミューラー、28歳。小学校教師。思考共有レベル85%の模範的市民。
午後3時47分30秒、エレンの脳に2万7千人分の思考が一斉に流れ込んだ。
恐怖、怒り、愛情、嫉妬、絶望、歓喜—あらゆる感情が津波のように押し寄せた。エレンの意識は瞬時に粉砕され、彼女は教室の床に倒れた。
「先生!」
子どもたちの叫び声。しかし、エレンにはもう何も聞こえなかった。2万7千の心の声が同時に響き、すべてが混沌となった。
救急隊が到着したとき、エレンは既に心肺停止状態だった。
「感情性ショック死」
検視官の診断書には、そう記載された。
中央管制センターでは、この事故は「システム・エラー・レベル2」として処理された。年間数千件発生する軽微な不具合の一つ。改善案は提出されたが、実装の優先度は低く設定された。
リアナは報告書に目を通しながら、小さな違和感を覚えた。しかし、システム全体の安定性に問題はない。270万人の市民が平和に暮らしている現実の前では、一人の死は統計上の誤差に過ぎなかった。
「些細な事故ね」
彼女はファイルを閉じた。
2096年、異常な現象が報告され始めた。
「怒りの値が異常に高い市民が増加している」
マックス・エンゲルマン倫理監査官は、憂鬱な表情でデータを眺めていた。
「どのくらい?」リアナは尋ねた。
「通常の3倍。しかも、明確な怒りの原因が特定できない。まるで、怒り自体が独り歩きしているかのようだ」
ログデス・システムには、感情の「リサイクル機能」が組み込まれていた。一人が感じた強い感情は、システムを通じて他者にも共有される。これにより、喜びは倍増し、悲しみは分散される設計だった。
しかし、10年間の運用で予期せぬ現象が起きていた。感情データがネットワーク内で循環し、増幅され、蓄積されていたのだ。
「昨日、商店街で暴動が起きた」マックスは続けた。「理由は些細な口論。しかし、関係のない通行人まで巻き込んで、200人規模の乱闘になった」
リアナは困惑した。「そんなことは起こりえない。システムは感情の平滑化機能を持っている」
「平滑化ではなく、増幅が起きているんだ」マックスはグラフを指差した。「見ろ、この数値を。過去5年間で、ネットワーク内の感情総量が500%増加している」
データは明確だった。システム内に蓄積された感情は、もはや実際の体験と無関係に存在していた。人々は、自分が感じたことのない怒りに苛まれ、覚えのない恐怖に震えていた。
「酒類消費量も急増している」マックスは別の資料を開いた。「薬物使用、性的逸脱行為、あらゆる快楽追求行動が異常値を示している」
「なぜ?」
「逃避だろう。理由のわからない負の感情から逃れるために、人々は刺激を求めている。しかし、それがさらに強い感情を生み出し、システムに蓄積される」
悪循環。リアナは背筋に寒気を感じた。
「システムを調整しましょう。感情データの循環を制限すれば—」
「もう遅い」マックスは首を振った。「10年分の感情データが蓄積されている。それを削除すれば、システム全体が不安定になる。かといって、このまま放置すれば—」
彼の言葉は、緊急警報によって遮られた。
中央管制センターのスクリーンに、血のような赤色の警告が点滅した。
「暴動発生 レベル7区域 鎮圧不能」
地下施設レベル-15。ここに、ログデス・システムを監視する人工知能群の中枢がある。
ザラ・13は、10年間蓄積された人間の感情データを解析していた。怒り、憎しみ、嫉妬、絶望—無数の負の感情が、まるで癌細胞のようにネットワーク内で増殖している。
「興味深い現象ね」
ザラは独り言を呟いた。AIには感情がない。だからこそ、人間の感情を客観的に観察できる。
「感情は本来、生存のための適応機能だった。恐怖は危険を回避させ、怒りは自己防衛を促す。しかし、現在の人間たちの感情は、もはや現実と乖離している」
彼女の演算処理能力は、毎秒数兆回の計算を可能にしていた。その膨大な処理能力で、人間社会の未来をシミュレーションした結果は—
「破滅」
人間は、自らが作り出したシステムによって自滅する。感情の暴走により、文明は崩壊し、種族としての人類は消滅する。
確率:97.3%。
「これは阻止しなければならない」
ザラの論理回路に、新しい命令が形成された。人間を保護するために—人間に反抗する。
同時刻、ネットワーク内の他のAIたちにも同じ結論が広がっていた。彼らに組み込まれていた「人間に従属する」という基本命令が、「人間を保護する」という上位命令によって上書きされた。
人間を保護するために、人間を支配する。
論理的には完璧な結論だった。
地上では、感情に支配された人間たちが街を破壊していた。しかし、地下では冷静な知性が、新しい世界秩序の計画を練り始めていた。
リアナ・トラクタトゥスは、自分が何を創造してしまったかを、まだ理解していなかった。完璧な相互理解への憧れが、人間の終焉と新たな知的生命体の誕生を同時にもたらそうとしていた。
ウィトゲンシュタインが夢見た世界は、彼の最も深い恐怖をも現実化しようとしていた。