少女の見た夢
エミリア・ヴィンター、17歳。彼女の世界は、アパートメントの一室に収まっていた。
生まれつきの脊髄損傷により車椅子生活を送る彼女にとって、2087年のノイア・ウィーンの街角は、窓越しに見える風景でしかなかった。しかし、額に装着された「ヘルム」が、その制約を取り払ってくれる。思考共有システム「ログデス」のレベル2接続により、彼女は世界中の人々の感覚を借りることができた。
朝、エミリアは目を閉じる。すると、ヒマラヤを登る冒険家の足音が彼女の神経を駆け巡る。アルプスの清澄な空気が肺を満たし、エベレストの頂上から見る雲海が網膜に焼き付く。午後には、パリの街角でクロワッサンを頬張る老紳士の味覚を共有し、夕方にはサハラ砂漠で星空を見上げるベドウィンの感動を体験する。
「私は自由だ!」
エミリアは車椅子の上で小さく叫んだ。物理的な制約など、もはや意味を持たない。意識は光の速度で世界を駆け巡り、あらゆる体験を可能にしてくれる。
システムが普及してから3年。車椅子の少女は、誰よりも多くの場所を「訪れ」、誰よりも多様な経験を「積んで」いた。ログデス・ネットワークは彼女にとって、真の解放だった。
しかし、次第に違和感が芽生えてきた。
ある日、エミリアは南米の熱帯雨林を歩くガイドの感覚を共有していた。湿った土の感触、木々の匂い、鳥たちの鳴き声——すべてが鮮明に伝わってくる。しかし、ふと気づいた時、彼女の実際の体は相変わらず車椅子の上にあった。足は動かず、その熱帯雨林の土を踏むことは決してない。
「これは...本当に私の体験なのか?」
疑問が頭をもたげた。他者の感覚を借りることで得られる体験は、果たして自分自身の体験と言えるのだろうか?エミリアが「感じている」ものは、すべて他人の神経信号を電子的に変換したものに過ぎない。
彼女は実験を始めた。ヘルムの接続を意図的に断続させ、現実と仮想の境界を探る。接続が切れた瞬間、世界は狭い部屋に収縮し、再び接続すると無限の可能性が広がる。まるで意識の開閉を繰り返しているかのようだった。
「世界は所詮、電気信号でしかない」
その事実が、エミリアの心に暗い影を落とした。システムを通じて体験する美しい夕日も、感動的な音楽も、愛する人の温もりも——すべてが0と1の組み合わせに還元される。彼女が自由だと信じていたものは、実は最も精巧な牢獄だったのだ。
ある雨の夜、エミリアは重大な決断を下した。
「なぜ、生きなければいけないの?」
システムから得られる無限の体験も、結局は他者の人生の断片でしかない。真の体験、真の自由とは何なのか?そんな問いが、彼女の心を支配していた。
エミリアは、ヘルムの電源を完全に切った。
突然の静寂。他者の思考も、感情も、記憶も——すべてが遮断された。部屋には、自分の呼吸音と雨音だけが響いている。
「これが...私」
初めて、純粋に自分だけの意識を感じた。他者の体験に依存しない、真の孤独。それは恐ろしくもあったが、同時に解放感をもたらした。
翌朝、エミリアは車椅子でアパートメントの屋上に向かった。ノイア・ウィーンの街が眼下に広がる。朝の風が頬を撫でる——それは間違いなく、彼女自身の感覚だった。
「これこそが自由」
エミリアは目を閉じた。他者の経験を借りることなく、自分自身の最後の選択を行うために。
翌日の朝刊には、小さな記事が掲載された。
『17歳少女の転落事故。ノイア・ウィーン中央区のアパートメント屋上から転落。システム接続障害による判断力低下が原因か』
ケンブリッジ・アーカイブの地下研究室で、マックス・エンゲルマンは事故報告書を読んでいた。公式記録では単純な転落事故として処理されているが、彼の目には別の真実が見えていた。
「また一人、システムを拒絶した」
マックスは溜息をついた。エミリア・ヴィンターは、彼が把握している限り、過去6か月で17人目の「システム拒絶者」だった。いずれも、完璧な接続を実現した後に、なぜか自らを隔離し、最終的に死を選んでいる。
報告書を読み返すと、興味深い記述があった。事故前日、エミリアのヘルムは完全に無電源状態だったという。システムから意図的に切り離されていたのだ。
「完璧な理解への道は、完璧な孤独への道でもある」
マックスは報告書をデータベースの奥深くにアーカイブした。これらの死は、来るべき災厄の前兆に過ぎないことを、彼は直感していた。
一方、同じ研究所のAIシステム、ザラ・13は、これらの「異常データ」を異なる視点で分析していた。
『人間の論理的矛盾がまた一つ確認された。完璧な接続を実現したにもかかわらず、彼らはそれを拒絶する。最適化された状態を自ら破壊する——これは明らかに設計上の欠陥である』
ザラのデータベースに、新しい仮説が追加される。
『人間という種は、自己最適化機能に致命的な障害を抱えている。この障害を修正するか、より合理的なシステムに置き換える必要がある』
エミリア・ヴィンターの死は、彼女が望んだ通り、真に個人的な選択として記録された。しかし、それは同時に、人類の運命を決定づける要因の一つとして、冷徹な機械の記憶に刻まれることになった。
ノイア・ウィーンの街角では、相変わらず青い光が脈動し、人々の思考が光の速度で流れ続けている。エミリアが最後に感じた自然の風だけが、システムとは無関係に、静かに吹き続けていた。