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 火曜日、水曜日、木曜日。

 あの日の放課後から三日間、まるで(しかばね)になったみたいに無為に過ごした。

 いつも、定期テストが終わると、次のテストを見据えて授業中は全神経を集中させていた。テスト明けでみんなの気が緩んでいる今こそ頑張り時だと思って、踏ん張るのだ。けれど今回ばかりはできなかった。念願の一位になって力が抜けてしまったわけじゃない。

 部室の前で聞いた、実夏の啜り泣く声と、恵理子先生の実夏を庇う言葉が何度もフラッシュバックしては消える。

 息の吸い方を忘れてしまったみたいに、教室の端っこでぽつんと存在するので精一杯になった。緩んだ教室の空気をなんとか締めようと、テキパキと授業を進める先生たちの声は右耳から左耳へとすり抜ける。五十分の授業が終わって、ノートを見返すと、そこにはただの一つも文字が綴られていないなんてことが多々あった。

 このままじゃ、あの一位が幻になってしまう。

 一回だけだったね。ただの奇跡だったんじゃない?

 想像上のみんなの声がぐわぐわと頭の中に響き渡る。振り払おうとしても消えてくれないその声が、教室から私の意識を遠くへと運んでいった。


「……い、芽衣」


 放課後、今日は書道部の部活の日だとぼんやりと考えていたところで、実夏に声をかけられた。実夏とは月曜日から言葉を交わしていない。私が部活をサボったことに対して、何か思うところがあるのだろう。表向きは、実夏が一位を逃して泣いているところを目撃したから部活を休んだことにはなっていないと思う。でも、勘の良い彼女はすべて察しているらしかった。


「芽衣、部活に行く前にちょっと話さない?」


 確かな意思を持った、くっきりと輪郭を帯びた声に、はっと眉を上げる。実夏は、真剣な面持ちで私の目を見据えていた。実夏とは他愛のない会話こそすれ、あまり深刻な話をしたことがないな、とこの時初めて気づく。そんな彼女と向き合うのは怖い。生身の自分を剥き出しにして、実夏に嫌われたらどうしよう——一番に思ったのは、実夏を失いたくないということだった。

 だけど同時に、あの日から胸に燻っているこの気持ちを、彼女にぶつける以外、立ち直る方法がないような気がして。私は、ゆっくりとその場で頷いた。



 埃の積もった本の紙の匂いが鼻を掠める。

 「進路指導室」と銘打たれたその教室には、たくさんの赤本が並んでいた。実夏が職員室で、「進路指導室を使いたいのですが」と先生に尋ねた時は驚いた。「今日は誰も使わないからいいわよ」と、聞かれた先生も快く返事をして鍵を貸してくれた。


「この教室、時々自習で使わせてもらってるの。静かで落ち着いてるから、集中できるよ」


「へえ、そうなんだ。知らなかった」


 実夏が自習でこんな場所を利用していたなんて。今まで一度も聞いたことがなかった。秘密の勉強部屋。一体どれぐらいの時間、彼女はここで机に向かってきたんだろう。

 ざらりとした木目の机を撫でながら、少しだけ窓を開けた。停滞していた空気を入れ替えたい。ただその一心だった。


「探り合いとか苦手だから、単刀直入に言うね。昨日、宵山先生から事情を聞いたの」


 普段の高く柔らかな声とは違う。緊張を孕んだ固い声が響いた。

 トクトクと凪いでいた心臓の鼓動が一気に跳ね上がる。

 “宵山先生から事情を聞いた”。

 それって、つまり、月曜日に廊下で恵理子先生とぶつかった時に話したこと……? 

私が、実夏のことで泣いていたのを、実夏はもう知っているということになる。 

背筋に冷たい汗が流れる。恵理子先生が実夏本人にどう話したのか分からないけれど、私が実夏とのことで泣いていたことは伝わっているだろう。


「私も」


 彼女が大きく息を吸って言葉を止める。

 私も、なんだろう? まだ私は一言も発していないのに、彼女の中では伝えたいことがはっきりしていて、私の発言など挟む余地は存在していなかった。


「芽衣のことが憎いと思った」


 私も芽衣のことが憎いと思った。


 初めて実夏の口から聞く、偽りのない本音。普段、ほわほわとした空気を身に纏い、周囲からの羨望のまなざしも軽く受け流している彼女からは想像もつかないほど、まっすぐに暗く澱んだ本心が、私の胸にグサリと突き刺さる。

 その言葉の“私も”という部分に引っかかりを覚えて、思わず口を開いた。


「私は……実夏のこと、憎いなんて一言も」


「言ってはないと思うよ。でも芽衣、いつもそう思ってるでしょ? テストが終わるたびに、私のこと憎らしいって思ってたでしょ」


「そんなこと……!」


 ない、とはっきり言い切ることができなかった。

 憎いとまでは思わずとも、実夏に嫉妬していたのは事実だから。

 彼女の瞳が「ほらね」と訴える。この子は誰? 私の知ってる実夏じゃない。私の知ってる彼女は、みんなから人気者で、褒められたってまんざらでもないふうに笑って流して。当たり障りのない会話で、周囲を和ませる。初めて彼女と打ち解けた運動会の日も、からからと夏の晴天の空みたいに澄んだ瞳で、私に声をかけてくれたじゃない。

 そんな彼女が、私に憎しみを抱いていたなんて。

 信じたくなかった。


「芽衣はずっと、目標に向かって頑張ってて。一位になりたいって思ってたんでしょ? 私は芽衣にいつ抜かれてしまうかって怖くて、怯えて、勉強だって逃げるために頑張ってた。芽衣みたいに一番を目指して前向きにやってたんじゃないの。ただ手に入れたこの場から引き摺り下ろされるのが怖くて、恐怖心に駆り立てられてるだけだった。いざ芽衣に一位を獲られた時……私って、なんて空っぽなんだろうって思った。努力したのは事実だよ。でもその努力は一体何のためだったのか、分からなくなって……。私には、行きたい大学とかも、ないから。一位になれないなら、じゃあどうして今まで頑張ってきたんだろうって分からなくなって思わず……」


 あの部室での涙の裏に隠れた彼女の本音は、あまりにも意外すぎて、心臓が止まりかけた。

 彼女が一位の座に、これほどこだわっていたことも知らなかった。

 同時に、ずっと一位だった彼女が味わった恐怖に気づくことができなかった。

 それでも私は、今でも羨ましいと思う。頑張る動機がたとえ恐怖心であっても、実際彼女は一番になれるのだから。一位で、あり続けるのだから。


「み、実夏は……どこにだって行けるじゃん。どんな大学にだって行ける。それが心底羨ましかった。私が行きたいT大も、きっと実夏なら余裕で受かる。書道だって、実夏はすごく上手くて……。どうして実夏ばかりなの? 神様はどうして、私に一番をくれないの? ねえ、実夏なら分かる? 実夏は努力してきたっていうけど、私からすれば実夏は天才だよ。同じ量の努力をしたって、秀才は天才には敵わない。だからずっと、実夏のことが憎かった!」


 喉が切れそうなぐらい叫んで、ようやく気づいた。

 やっぱり私は、実夏のこと、憎いと思ってたんだ……。

 大好きなはずなのに。大好きな親友のことを、こんなに醜い感情で覆い尽くしてしまうなんて、自分に心底失望した。

 実夏の表情が、泣き笑いのような切ない表情に変わる。彼女が何を考えているのか、瞬時には推しはかることができない。

 しばらくの間、沈黙がその場を支配した。次に口を開くのはどちらか。明日から、私たちはもう二度と口を利けなくなってしまうのだろうか。いろんな感情が、入れ替わり立ち替わり現れては消えていく。

 やがて彼女がふっと笑った。どうしてこんな時に笑えるのだろう。その乾いた笑みが意味するところは、彼女の次の発言で理解した。


「私ね、大学には行かないんだ」


「……え?」


 予想もしていなかった言葉が彼女の口から飛び出してきて、その場でフリーズした。

 

「大学に行かない……? どうして?」


 実夏の成績なら、どこの大学にだって合格できるはずなのに。誰も、そんなに恵まれた才能、持ってないよ。それなのにどうして?

 

 私の疑問をすくうかのように、「実は」と彼女は続ける。


「高校に入学してすぐに、お母さんが病気になったの。その時から入退院を繰り返してて、この間ついに倒れちゃって……。数年以内に余命、宣告までされちゃった。だけど私もお父さんもお兄ちゃんも、お母さんの病気は絶対治るって信じて、治療を進めることにしたの。結構な治療費がかかるんだ。私が大学行ってたら、お金が飛んでいくでしょ。だから大学には行かずに、就職しようかなって」


 お母さんが病気に。

 高校に入学してすぐ。

 

 聞いたことのない話に、私はただただ口をぽかんと開けて、彼女の言葉の意味を頭で十分理解するのに必死になった。

 実夏のお母さんが病気で余命宣告された?

 治療費がかかるから大学には進学しないだって?

 勉強も、容姿も、性格も、完璧な彼女の未来への道が、ズドンと崩壊して真っ逆さまに落ちていく。実夏が、崩れ落ちた道の手前で眉を下げて笑っている光景を想像して頭が痛くなった。

 ありえない。

 実夏は、神様に選ばれた人だ。

 実夏が大学に行かないなんて、そんなことあっちゃいけない。

 

「なんで……」


 否定したい気持ちも、慰めたいという気持ちもあった。だけど、気の利いた言葉は口から出てこなくて、身体が震えるばかり。そんな私を見て、実夏はへへっとおどけたピエロみたいに笑った。


「ねー、笑っちゃうよね? 進学校に入学して浮かれたんだ、私。この学校に行けば、大学だってきっと良いところを狙えるって意気込んだ矢先に、ね。だから……だからね、羨ましかったの。芽衣のことが。さっきは憎いって言っちゃったけど、ただ、羨ましかった。私に持ってないものを、芽衣はたくさん持ってるから。努力することを厭わないし、書道部で芽衣が部長なのは、みんなをまとめるのが上手いからだよ。私じゃ務まらない。芽衣が持ってる才能全部、私が欲しくてたまらないものだよ」


 実夏の声が、耳の奥でぐわんと反響して、そのまま心臓へ直接、ぴりりと鋭い痛みを運んだ。

 ずっと、実夏のことが羨ましくて憎かった。

 私が欲しいもの全部持っててずるいって思ってた。

 だけど実夏も……私に対して、同じ感情を抱いていたなんて。

 信じられない思いで、彼女の揺れる瞳を見つめる。眉は上がったり下がったりを繰り返して、口元も震えていた。彼女が抱えているもの全部、私には到底背負えないものだ。それなのに私は……実夏ばかりずるいって、表面上の彼女だけを見つめて、上辺だけの言葉をさらって、彼女のことを……傷つけたんだ。


 あまりの衝撃に、身体が言うことを聞かない。「あ……」「う……」と声にならない叫びが漏れる。

 実夏が大学に行けない。

 こんなに賢くて可愛らしくて、完璧な彼女が、人生の一つの目標を見失おうとしている。大切な家族だって、大変な目に遭っている。

 どれだけ苦しいだろう。

 私には推しはかることができない重荷を背負った彼女が、いつもの声色で「芽衣」と名前を呼んだ。


「ずっと羨ましくて嫉妬しちゃってたけど……私、芽衣のこと本当に大切な友達だと思ってるんだ。だから芽衣は諦めないで。T大に行きたいんでしょ? 芽衣ならいけるよ。だって私が、芽衣に成績を抜かれるんじゃないかってこんなに焦るぐらいだもん。芽衣は賢い。私が保証する」


 ぶわりと溢れてきたものを止めることができなかった。

 私とは決定的に違う、彼女の強さを見せつけられて悔しくて泣いた。

 一位になっても醜く歪んでいくだけの自分の弱さに泣いた。

 ああ、私。やっぱり実夏には敵わないんだ。

 賢くて優しくて、自分の気持ちを押し殺して友達の成功を応援してくれる実夏には敵わない。どうして彼女が一番なのか、その理由が今はっきりと分かった。


「ごめんなさい」


 しとしとと降る雨のように、自然と込み上げた気持ちを正直に伝える。


「ひどいこと言って、ごめん。実夏は天才じゃなくて、私と同じ——いや、それ以上に努力をしてたのに、天才って突き放してごめんね。お母さんがそんな状況になってるのに、何も支えてあげられなくてごめん。親友なのに、実夏のこと信じられなくてごめん」


 たくさんの後悔を、お腹の奥に押し留めておくことができなくて、流し続ける。溜まっていた澱を吐き出し続ける私を見て、実夏の瞳が大きく膨らんでいった。


「一位であり続ける実夏のこと、憎いって思ってたけど……気づいた。私、実夏がいたから頑張れたんだ。実夏がいないと頑張れなかった。だから、ありがとう」


 本当に言いたかった言葉が最後にぽつりと漏れた。

 心が醜く歪んでしまうくらいに、実夏のことが羨ましくて、大好きだった。

 実夏がいてくれなかったらきっと、私の高校生活は灰色だった。凹凸のない日々を淡々と生きていただけだ。一位にはなれたかもしれないけれど、実夏がいる、二位の世界の方がずっと楽しい。嫉妬してしまう気持ちだって、私を前に押し進めてくれるから。放課後にたまに二人で過ごすファミレスでの時間だって、休日にお出かけする時間だって、私の人生を色付けてくれる貴重なひとときだ。失いたくない。実夏を、失いたくないよ。


 実夏は「ううぅ」としゃくりあげながら、両手で顔を覆った。彼女が啜り泣く声はこの前聞いたけれど、こんなふうに私の前で泣くのを見たのは初めてだった。彼女に一歩近づいて、両腕で頭を抱きしめる。初めて密着した彼女の身体からは、部室で嗅いだのと同じ、幽香な墨の匂いがした。


「芽衣、私たち、まだ友達でいられる?」


「うん。むしろ、友達でいてほしい」


「……そっか」


 簡単な言葉だけれど、私たちは今確かに繋がった。これまでと明日からで、私たちの関係の何かが変わるわけじゃない。今まで通り、教室では他愛のない会話をし、部室では互いに無言で筆をとり、コンクールとテストの結果に一喜一憂して、卒業まで進んでいくだろう。だけど、そのどの瞬間にも隣に彼女がいるということが、未来の私をどれだけ勇気づけるか。想像して、胸が締め付けられるみたいに切なくて、嬉しい。大切な人とこの先ずっと一緒にいることは叶わない。だからこそ、今この瞬間だけでも、隣にいられることの尊さを感じていたかった。


 進路指導室の窓から、冬の冷たい風がふうっと吹き込む。冷たいのに涼しい。熱を孕む私たち二人の間に吹いた新しい風が、私たちを、進むべき道へと導いてくれるようだった。


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