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 実夏への嫉妬心が拭えないまま、高校二年生の二学期が終わり、冬休みに突入した。


「芽衣、お正月にみんなで初詣に行かないかって話が出てるんだけど、どう?」


 冬休みに入る直前の部活で、メンバーの一人がそう訊いてきた。“みんな”の中にはきっと実夏も含まれている。私は少し迷う素ぶりを見せた後、首を横に振った。


「ごめん、お正月は親戚の集まりがあって……」


「そっか。そうだよね。じゃあ、芽衣は仕方ない! また別の機会に遊ぼう」


「う、うん」


 本当は親戚の集まりなんてない。せいぜい家族でおせちとお雑煮を食べるくらいだ。もっともらしい嘘をつくのには慣れている。部活やクラスの友達の遊びの誘いを断る回数は、時の流れと共に増えていた。

 勉強がしたい。

 冬休みはまとまった時間が取れる、またとないチャンスだ。この機会を逃したら、三学期が明けた時に後悔することになる。学年末テストは二月の中旬にある。意外ともう一ヶ月ちょっとしかない。もちろんテスト範囲などまだ分からないけれど、基礎を固めておくに越したことはなかった。

冬休みは心ゆくまで勉強しよう。そのために、友達からの誘いを断るのも辞さなかった。

実夏が後ろの方で、何か言いたげな顔をしているのが見えた。が、そんな彼女には気づかないふりをしてその日は目の前の部活動に励んだ。


 冬休み、計画通り猛勉強に励んだ。一日十三時間。夜寝る時とトイレ、お風呂、食事の時以外はすべて勉強に費やした。スマホからあらゆるアプリを削除する。SNSも消したので、友達とも連絡が取れなくなった。さながら受験生のようだと自分でも思う。いや、受験生以上かもしれない。高校二年生の冬、お正月も過剰なまでに机に齧り付いている私を見て、両親と兄は若干引いていた。それでも構わない。誰になんと言われようと、未来の私が笑うためには、今の私が頑張らないと、いけないのだから。



 冬休みが明けて三学期が始まると、あっという間に学年末テストの時期がやってきた。テスト範囲はどの教科も二学期までの復習の部分と、三学期に新しく習った部分だ。

 今度こそ。今度こそ今度こそ。

 志望大学の二次試験を受けるような気分でテストに臨む。途中、テスト監督として教室にやって来た恵理子先生と、答案用紙を配る際にばっちり目が合った。先生、見てて。先生、私、頑張ったんだよ。今回は、きっと大丈夫。

 恵理子先生が私に向かって微笑む。その聖母のようなまなざしを見て、気負いすぎて固くなっていた身体が甘く溶けた。

 先生が見てくれている。その事実だけで、実力以上の力が出せる気がした。



「やっと終わったー!」


 三日間の学年末テスト全日程が終わると、チャイムが鳴ると同時にクラスの男子の一人が大きく伸びをした。みんなの気持ちを一番に代弁してくれたな。でも私は、「終わった」解放感を感じるより、燃え尽きてしゅるしゅると灰になりそうなぐらいの疲れに襲われていた。


「芽衣、お疲れ様〜〜」


 放課後、実夏が声をかけてくる。私とは違って、いつもと同様に涼しい顔をしていた。同じ量の問題を解いているはずなのになぜだろう。実夏は最短距離で問題を解けるからか——とどうしても彼女への嫉妬と羨望が入り混じった解釈をしてしまう。


「お疲れ様。実夏、今回はどうだった?」


「うーん、化学のモル濃度の計算のところ、最後に焦って解いたからちょっと自信ないかも。あとは大丈夫だと思うけど……」


 文系クラスの私たちだが、理系科目も一部はとらなくちゃいけない決まりがある。私も実夏も化学基礎をとっていた。モル濃度は化学基礎の中では確かに難しい分野だ。基本的な計算はシンプルだが、今日の試験は応用問題だったので、悩んだ人が多いんじゃないかと思う。


「私も、そこはミスってそう。返却が怖いね」


 嘘だった。だって、モル濃度の計算のところは、完璧にできた自信があったから。冬休みに特に集中して勉強した分野でもあった。問題集で応用問題を繰り返し解いて、どんな問題が来ても打ち返せるように持っていった。だからきっと、大丈夫——。


「うん、来週のテスト返し、休みたいくらい」


 どこまでが本心なのか分からない。実夏はいつも、テスト後に「自信がない」という態度をとる。だけど、蓋を開けてみればいつだって学年一位だ。 

 実夏……絶対に越えられない、私の壁。

 でも私はお正月にみんなで初詣に行くのだって断った。実夏は行ったでしょう? みんなで遊んだでしょう? 実夏との思い出を捨ててまで勉強したんだから、今度こそ、私に花を持たせて。そうしたら実夏と、もっと対等になれる気がする。実夏と、翳りのない気持ちで他愛もない会話をする。そんな日常が、いつの間にか遥か遠くへと消えてしまっていることに、この時ようやく気づかされた。



 一週間後、教室後方に貼り出された順位表を取り囲む群衆からざわめきの声が聞こえて来た。


「うそ、一位と二位、入れ替わってる」


「え? うわ、本当だ。芽衣が一位で、実夏が二位!」


「ほえ〜二年間で初めてじゃない? 実夏の一位は不動だと思ってた」


「点差は二点だって。すごい接戦」


 どよどよ、ざわざわ。女子も男子も入れ替わった二人の順位と、わずかな点数の差に目を奪われている。

 私は、手元にある個人成績表を握りしめた。

 965点、総合一位。

 満点が一つ。恵理子先生の古文だ。前回実夏が満点を取って、一点差に悔し涙をのんだ教科。その古文で満点が取れたことが嬉しくて、全身の震えが止まらなかった。テスト返却の際、恵理子先生は一言、「おめでとう」と賛美してくれた。その言祝ぎを聞いて、すべてが報われた気がした。


 実夏は普段通り、順位表には群がらずに、きちんと自分の席について授業の準備をしている。私は、順位表を一目見たい衝動を抑えて、彼女と同じように教科書とノートを机の上に広げた。順位になど、ひとかけらも関心がないふうを装って。


「実夏、先に部室行ってて」


「そう? 分かった」


 放課後、普段なら実夏と一緒に部室に向かうのだが、今日ばかりは順位表を確認すべく、彼女には先に行ってもらった。何かを察した様子の実夏はタタッと教室から出て行く。

 みんなが教室からいなくなったのを確認して、そっと順位表を見た。


 一位 天野芽衣 965点

 二位 浜崎実夏 963点


 みんなが言うように、その差はわずか二点だった。教科ごとに順位を見てみると、ちょうど私と実夏が一位、二位の教科が半分ずつあった。その中でも私の目を引いたのは化学基礎のところだ。私が一位で99点。実夏は91点。かなり点数に開きがあった。平均点も低めでテスト自体が難しめだったのだろう。冬休みの猛勉強のおかげで、化学基礎は納得のいく点数が取れた。実夏、これで私たちやっと、同じになれるね。


 お腹の底に真っ黒に澱み、溜まっていた澱が少しずつ溶解していくような感覚に陥る。一位になれた。ただそれだけのことが、目の前の風景をぱっと明るく輝かせた。



 荷物を持って、書道部の部室へと向かう。一階の和室にはすでに同級生たちが集まっていて、どうやら私は最後らしかった。


「実夏、大丈夫?」


 扉にかけた手をぴたりと止める。中から誰かが鼻をぐずぐずと啜る音が聞こえたから。「ひっく、」としゃくりあげる声が実夏のものだと気づき、思わず心臓が跳ねた。


「初めて一位取られたんだもんね。そりゃ、悔しいよね……」

 

 実夏を同情する仲間たちの声が、ぐわらんと耳朶を掠める。


「ううん、ごめんみんな……。芽衣が頑張ってるの、知ってるのに。みっともなく泣いちゃって……」


「みっともなくないよ。私たちは、実夏が一番努力してるって知ってる。それに、テストの時お腹痛かったんでしょう? 仕方ないよ。女の子にはよくあることだし、気にすることないって」


「そうそう。腹痛がなければ実夏が一位だったよたぶん」


「二点しか点差はないしね。私らの中では、実夏が永遠に一位」


 一位になったのは私なのに、実夏が泣いたからってどうしてみんな彼女の肩を持つのだろう。それじゃまるで、私が悪いみたいだ。先ほどまで輝いていた風景が暗転し、部室の扉から手を離して一目散に廊下を駆けた。


「芽衣?」

 

 と誰かが呼ぶ声も無視して走る。気まずい仲間の視線を想像すると目が眩んだ。



 ドン、と鼻の頭に鈍い衝撃が走り、その場でうずくまる。廊下の角で誰かにぶつかった。


「芽衣ちゃん? ごめんなさいね。大丈夫?」


「恵理子先生……」


 そこにいたのは、古文の教科書を床に落としてしゃがんでいる恵理子先生だった。


「すみません。前、見てなくて」


 慌てて先生が落とした教科書を拾う。「ありがとう」とにっこり笑った先生が私の歪んだ顔を見て、すぐさま心配そうな表情に変わった。


「芽衣ちゃん、どうしたの。何かあった?」


 先生にはよく勉強のことや人間関係のことで相談をしに行くので、私の感情の変化にはすぐに気づいてくれた。

 凪いだ海に降り注ぐ天使の梯子のようなその柔らかな声に、自分の中で押し留めようとしていた感情が一気にせり出した。


「実夏が……実夏が、泣いてて……。私が一位になったからっ。私が実夏の一位を奪ったから……っ。私は一位に、なっちゃいけなかったんでしょうかっ……?」


 声を出すたびに苦しくて、途切れ途切れの言葉が、ぽろぽろとリノリウムの廊下の床に落ちていく。ひたひたの墨汁が、筆から半紙へと落ちて、漆黒の染みをつくっていくみたいに。拭っても拭っても、それは半紙にへばりついて取れない。私のこの気持ちもきっと、簡単には拭い去れない。


「そう、実夏ちゃんが……。今回のテスト、芽衣ちゃんが一位で実夏ちゃんが二位だったわね。芽衣ちゃんが悪いわけじゃないわ。一位になったらいけないなんて、そんなはずがないじゃない」


「先生……」


 海に溺れていた私が、天使の梯子に一歩足を掛けるところを想像する。恵理子先生の丸みを帯びた声にまるごと救われるように。でも。


「きっと、実夏ちゃんはすごく努力をしてるから、悔しかったんでしょう」


 足を駆けた梯子は、実態を伴っていなかった。

 掛けた足はするりと光線をすり抜けて、再び海へ落ちる。今度は水面じゃなくて、深い海の底へ。空の青と、透明な海の境目が、分からなくなった。薄明光線は遥か遠くの水面でゆらめき、やがて見えなくなる。そんな場面を想像して、深い傷心の海に身体が沈んでいった。


 恵理子先生だけは分かってくれると思っていたのに、先生の視界の真ん中にはいつの間にか実夏がいた。実夏の名前を呼ぶ時の、まるで我が子を慈しむような表情を見逃さなかった。私には決して向けられないその愛に、目が眩んだ。


 私を慰めるように、私の背中に添えられた先生の手を振り払う。先生が驚きで瞳を大きく見開いた。咄嗟に立ち上がり、じりじりと先生から遠ざかる。


「私……先生に振り向いて欲しくて頑張ったのにっ」


 ありったけの力を振り絞って叫ぶ。私の声は四角い廊下の壁に反射して、ぎいいんと響き渡った。一階の廊下を歩いている生徒は少なかったけれど、何人かが私の方を振り返る。

 振り向いて欲しくて——思わず漏れた本心に、はっと口を噤む。恵理子先生の表情は固まっていて、私の発言の意味を必死に咀嚼しているようだった。


「……っ!」


 そんな先生のゆらめく瞳をこれ以上見つめていられなくなって、私はその場から駆け出した。


「芽衣ちゃん待って!」


 背中に降り注ぐ恵理子先生の必死の叫びも、無視して。一目散に下駄箱へ向かい、下履へと履き替える。


 終わった……。完全に、終わってしまった。

 先生に自分の気持ちを伝えることなんて、絶対にないと思っていた。恵理子先生に対する気持ちが単なる尊敬や憧れではないことぐらい、気づいていた。だからこそ、誰にも知られないようにひた隠しにしていたのに。

 よりによって、先生本人にぶちまけてしまうなんて……。


「ううっ……」


 部活をサボって、家までの道のりをとぼとぼ歩く。途中、雨が降ってきて冷たい水滴が頬や首筋にへばりついた。傘、持ってきてないな……。寒くて、冷たくて、でもそれ以上に、悲しくて。灰色に燻んだ空は心の鏡だった。

 一位になんて、なれっこないのだ。 

 たとえテストで満点を取ったって、あの人の心の真ん中に、私はいない。

 親友の悲しむ顔が何度も脳裏に浮かんでは消え、曇天の雲みたいに、心を覆い尽くしていく。私は弱虫だ。世界の片隅で、羽をもがれて足まで動かせなくなった、弱虫。



 泣きながら家に帰った私は部屋の中で乱暴に墨と筆と半紙を取り出して、じゅわりと墨汁を筆に染み込ませた。ぼたぼたになったそれを、そのまま半紙に押し付ける。適量を超えて、どんどん滲んでいく真っ黒の墨を呆然と見つめた。黒い感情が広がっていく。真っ白だった紙を一挙に塗り替えていく。やがて黒は行き場を失って、半紙は墨の重みに耐え切れずに破れる。私の澱んだ心もきっと、含みすぎた墨と同じだ。真っ黒に染まった後、ぱちんと弾けて壊れる。自分の心臓が近い将来にそうなってしまうんじゃないかと想像して、その日は震えながら眠った。


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